2017年4月30日日曜日

マーラー:交響曲第6番イ短調(レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

いきなり軍隊の行進を思わせるリズムに合わせ、物凄い形相で指揮をするレナード・バーンスタインの映像に一気に釘付けとなった。その後80分にも及ぶ全曲を、興奮と集中力を持って聞き続けたのは1回だけではない。学友協会大ホールに所狭しとずらりならんだ、見たこともない打楽器群の中に、何と巨大な鉄槌までもがあって、それが幾度か振り落とされる。その異様なまでの光景に、私は固唾を飲んだ。こんな音楽があるのか!高校生の時だった。

次にこの曲を聞いたのはCDによってであった。90年代のはじめ、私が小遣いを貯めて買った一枚はジョージ・セルによる演奏(クリーヴランド管弦楽団)。なぜかと言えば、この長い曲が1枚のCDに納まるのは、当時これしかなかったからだ。 しかも録音が1967年と古く、廉価版としての発売だった。この演奏は、あの頑固なまで一徹なセルが、なりふり構わず棒を振る様子が見えてくるような熱演である。まだマーラーの演奏が珍しかった時代。今聞いても演奏は素晴らしいが、時代的な古さは否めず、しかも録音が上出来とは言い難い。

マーラーの交響曲は、旺盛な創造力が発揮されるに従い難解なものとなり、特に第6番から第8番は規模が大きく、そして長い。何か印象的なフレーズが心に残るわけでもないこれらの曲を、一通り聞き続けるだけの持久力が試される。私はコンサートで聞かないと、なかなかその良さはわからないと思っていた。

その機会は1996年のアメリカ滞在中に訪れた。ジェームズ・レヴァインがメトロポリタン歌劇場のオーケストラを指揮して、通常の管弦楽コンサートを年に数回開くうちの1回に、この曲を取り上げたのだ。しかもコンサートの前半はブリン・ターフェルを迎えての「亡き子を偲ぶ歌」。公演当日の夕方、カーネギー・ホールのボックス・オフィスに並ぼうとすると、ジーンズ姿のターフェルが現れて誰かと話していた光景を覚えている。大編成のプロ集団を大胆に指揮するレヴァインの姿に見とれているうちに、あっという間のコンサートが終了した。

良く知られている副題は「悲劇的」となっているが、私がこの演奏を聞いた時には、あまりに健康的であることに違和感を覚えた。考えてみるとこの作品は、マーラーの作曲家としての絶頂期に書かれている。アルマとの遅い結婚の後、夏の別荘に籠って次々と大作を作曲していく頃である。だとすればこのタイトルは、マーラー流のアイロニーと言ってもいいのではないか、とさえ思えてくる。調性が短調であることに加え、しばしば聞き手の予定調和を裏切るフレーズなどに、そのようなものが感じられる。けれどもこの作品は、マーラーがひときわ愛した個人的な作品だとされている。マーラーとアルマはピアノでフレーズを弾きながら、涙を流したとある。マーラーの人生観がそのままストレートに表現されているらしい。イ短調という飾り気のない調整は、常に陰鬱である。

通常、第2楽章はスケルツォ、第3楽章はアンダンテ・モデラートとなっているが、手元にあるアバドの演奏(ベルリン・フィル)は入れ替わっている。作曲家自身がどちらを先にするか、迷っていたようだ。だが私は第4楽章が非常に長いので、第3楽章を緩徐楽章とする方がしっくりくる。いずれにせよ、これら曲を聞くと夜の都会を連想する。もちろんここでも放牧された牛が通るときの鈴の音(カウベル)が、何か特異な雰囲気を醸し出している。マーラーの交響曲には、それまで聞いたことのない音色に出会いことが多い。この曲の第2楽章の冒頭などは、いまでこそ戦争映画の音楽のようではあるのだが、20世紀の初頭にコンサートホールで聞いた聴衆には、どのように響いたのであろうか。

バーンスタインのビデオ以外の演奏は、どうにも私にはしっくりこない状況が続いていた。これだけ長い曲を聞くには、緊張感の持続も大変で、歩きながら聞いたりしているといつの間にか他のことを考えてしまう。考えあぐねた挙句、やはり原点に戻ることにした。今では希少価値のあるCD屋へ出かけ、バーンスタインのCDを購入することにしたのである。

CDで聞くバーンスタインの第6番は、すこぶる素晴らしい。演奏はウィーン・フィルで、あのビデオ版全集で録画された1976年から12年後の1988年9月の録音である。バーンスタインが亡くなる2年前、マーラー演奏に生涯を捧げたバーンスタインの、最後の演奏ということになる。ここで聞く第6番は、まさに壮絶ともいえる超名演だ。しかもドイツ・グラモフォンの録音が秀逸で、あらゆる音がクリアーに、しかも重なりを持って聞こえる。迫力を捉えて離さない。まるでバーンスタインの息遣いが聞こえてきそうな演奏である。

この演奏を聞くと、マーラーというのはウィーン・フィルでないと表現できないものがあるのではないだろうか、などと思ってしまう。弦楽器の音色などは、これがマーラーの音だと主張している。それは聞き手の全身を覆い、耳に強烈な印象を残す。説得力が違うと思う。特に第3楽章(アンダンテ)の深い息遣いは、このコンビの白眉である。

そして終楽章!30分以上に及ぶこの曲をバーンスタインは精魂を込めて指揮をする。冒頭の深く息を吸い込んだゆるやかなメロディーから、爆発的な瞬間を経て激流の如く流れ出る音楽は、何と形容したらよいのか。ウィーン・フィルが何年かに一度見せるような熱い演奏は、その長さを感じさせない。幾度かの鉄槌がマーラーに加えられ(「運命の打撃」)、絶頂期にあった彼の心に歯止めをかける。まるで悪い命運を自ら招くように、マーラーの心の傷は深く、そしてねじ曲げられている。鞭に打たれようと、ハンマーに打たれようと何度も前進しながら、徐々に弱々しくなっていく音楽は「最後まで戦うことをやめず」、とうとう最後に一瞬、強烈な発作を起こしてから、死ぬ。

「この作品が聴き手にもたらす浄化(カタルシス)の効果は、ギリシャ悲劇やシェイクスピアの四大悲劇のそれと同じである。おそらく死の恐怖を身近に感じるような人間には、こんな作品は書けなかっただろう。生命力の絶頂にある壮年期の人間にだけ書ける曲である。」(「マーラー」(村井翔、音楽之友社より)

2017年4月23日日曜日

ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(リッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

紀尾井ホール室内管弦楽団の演奏会がきっかけとなって、ハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を録音で聞いてみたいと思った。長年そばにありながら、一度も通して聞くことのなかったリッカルド・ムーティ指揮によるCDは、2種類あるうちの新しいほう、ベルリン・フィルとのものである。終結部を除いてすべてが緩徐楽章という曲は、いくらハイドンの傑作とはいえ、長年私を遠ざけた。食わず嫌いといっても良い。だがハイドン自身が愛着を寄せ、ムーティはこの曲をいたく気に入っているという。そのことが気になっていた。

紀元前、エルサレムにおいてユダヤ教の体制を批判したイエス・キリストは、当時支配をしていたローマ帝国の権限において処刑させられた(キリストの磔刑)。 十字架に張り付けられ、長い間さらし者にされると言う極刑は残酷である。だがイエスはすべての人々の罪を自らが被ることにより、人々を救済した。この時語ったとされる7つの言葉は、数々の福音書によって後世に伝えられた。ハイドンが作曲したのは、この福音書に基づく七つの言葉を管弦楽で表現したもので、スペイン南部の町、カディスにある教会の依頼で作曲された。1786年、ハイドン54歳の時であり、当時仕えていたエステルハージ家以外からの作曲依頼も舞い込むようになっていた頃である。交響曲で言えば「パリ交響曲」の頃。

曲は以下の部分から構成されている。

 序章 Maestoso ed adagio
 第1ソナタ 「父よ 彼らの罪を赦したまえ」 Largo
 第2ソナタ 「おまえは今日 私と共に楽園にいるだろう」 Grave e cantabile
 第3ソナタ 「女よ これがあなたの息子です」 Grave
 第4ソナタ 「わが神よ 何故私を見捨て給うか」 Largo
 第5ソナタ 「私は渇く」 Adagio
 第6ソナタ 「すべてが果たされた」 Lento
 第7ソナタ 「父よ 私霊をその御手に委ねます」 Largo
 地震 Presto e con tutta la forza

各パートはその名の通り、ソナタ形式である。すなわち主題が提示され、展開された後、再現される。ハイドンがこの形式を確立した直後のことであり、そのために忠実にその法則に従っており非常にわかりやすい。すべてがアダージョやラルゴで、交響曲の第2楽章を延々と聞き続ける忍耐力が必要だが、ここには「時計」の洒落っ気も「驚愕」のユーモアも存在しない。ところがいい演奏で聞くと、音楽は静かに聞くものの体中に入り込んでいく。蒸留水が岩に染み込むように。静謐でありながら厳粛な緊張感を失わない格調の高さは、音楽に奉仕するかのような慎ましさと真面目さが必要である。

そう感じるのはムーティの指揮するベルリン・フィルの弦楽器が、真摯にメロディーを奏しているからであり、その様子は序章の冒頭からわかるのだ。 「飾らない」という表現がピッタリの演奏は、ベルリン・フィルの最高のテクニックをベースにしてなお、謙虚である。ムーティの演奏するハイドンが、実はこんな表現だったのかと思った。そしてこれは実にこの曲の意味を引き出していると思った。

こういう音楽を聞くと、クラシック音楽の多くが芸術のために書かれたのではなく(私はこういう表現が嫌いだが)、宗教的行事のために書かれたものであることがわかる。同じハイドンでも、「ザロモン・セット」のように聴衆の人気を意識した音楽では、緩徐楽章だけを並べるようなものは書かなかった。この曲は、聖金曜日の教会での修養のために書かれたのであり、そういう音楽を他の音楽と同列に扱うことはできないだろう。現代のコンサートは、入場料収入を必要とする興行であり、極論すれば、このような曲をコンサートで上演するのは、誤解を招きかねない勇気のいる行動である。

けれどもわが国では教会で音楽を聞く機会など、そうあるものではない。ハイドンの「十字架上のキリストの最後の7つの言葉」を実演で聞く機会は、コンサートで取り上げられなければ、おそらく耳にすることはない。あるいはまた数千円の対価を支払うことで、録音されたこの曲の媒体を自分のものにすることができるのは幸福なことだ。そしてその価値は十分にある。ここで聞くことのできるハイドンのメロディーは、この大作曲家が残したアダージョの中でも屈指の名曲の数々である。だから私は、携帯音楽プレーヤーにこの演奏を転送して、朝の散歩の時にも聞くことができるようにしている

2017年4月22日土曜日

紀尾井ホール室内管弦楽団第106回定期演奏会(2017年4月21日、紀尾井ホール)

4月になると生活が新しくなり、何かとストレスの多い毎日である。不安定な天候がそれに追い打ちをかける。遅かった東京の春もようやくたけなわとなり、赤坂見附から四谷に向かう街路沿いの八重桜は満開である。ホテル・ニューオータニーの正面にある紀尾井ホールで、珍しいハイドンの作品「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」(Hob.XX/1A)が演奏されるというので、一生に一度は生で聞いておきたいと思っていたこともあり、思い立って仕事の帰りに途中下車した。

紀尾井ホールは新日鐵住金文化財団によって設立されたホールで、すでに20年以上が経過しているが、私は一度しか訪れたことがなかった。今回初めて聞く紀尾井ホール室内管弦楽団(旧紀尾井シンフォニエッタ東京)はウィーン・フィルのコンサート・マスターを務めるライナー・ホーネックを首席指揮者に迎えての、最初の定期演奏会だそうである。プログラム前半はストラヴィンスキーの「ニ長の協奏曲」とJ.S.バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調(BWV1043)」である。おそらく私は、実演で初めて聞く。

会社の帰りに出かけるコンサートは眠くなることが多い。背広にネクタイという装いも、音楽会には相応しいがリラックスできるものではない。案の定私は、ストラヴィンスキーが始まると睡魔に襲われ、それはバッハの前半まで続いた。ただこのオーケストラは、どことなく精彩に欠け、二人のソリスト(のうちの一人は指揮者のホーネック氏で、もう一人はパリ管弦楽団の副コンサートマスター、千々岩英一である)も、音が前に出てこないように感じた。ホールの残響が大きいせいもあると思うが、これだけ小さなホールではもう少し音が映えていても良いと感じた。もしかすると三鷹市の「風のホール」同様、私の好みではないホールなのかも知れない。

普段なかなか聞くことがなくても、実演で真剣に聞くと楽しめる曲は数多い。「マタイ受難曲」、「メサイア」、「四季」(ハイドン)、ヴェルディの「レクイエム」、「ファウストの劫罰」など枚挙に暇はないが、一方で、どこがいいのかさっぱりわからず、ただ苦痛なだけの曲もある。私の場合、「ドン・キホーテ」(R.シュトラウス)、「火の鳥」(ストラヴィンスキー)が苦手であり、「戦争レクイエム」(ブリテン)、「トゥーランガリア交響曲」(メシアン)を聞いた時も、なかなか辛かった。これはもしかしたら演奏が悪かったのかも知れないが。

さてハイドンの「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」である。リッカルド・ムーティによる録音を聞こうと思って何度も挫折してきた私は、いっそ実演ならその良さがわかるかも知れないと考えた。ハイドン自身「初めて音楽を聴く人にも深い感動を与えずにはおかない」と語っており、その音楽はオラトリオへ、また弦楽四重奏曲へと編曲されている。

全7楽章、すべてが緩徐楽章である。これは忍耐の要ることだが、それは聞き手だけでなく演奏家にとっても同様だろうと思う。そして今回の演奏、おそらくは何度も慎重に練習を重ねたであろう、まったく乱れたりたるんだりすることはなく、最後まで、小1時間に亘って終始、丁寧な音楽が演奏された。このことは特筆してよい。けれども聞き手にとって、それはやはり辛かった。ハイドンの交響曲はずべて聞いたことがある私でも、これは正直に告白しておこうと思う。終曲「地震」を除けば、序奏と7つのソナタはすべて、アダージョやラルゴである。時に印象的だったのは、ピチカート主体の第1主題だった第5ソナタくらいだろうか。

最後の「地震」だけは速い迫力のある曲で、「決まった」と思った。紀尾井ホールの客層は、これまで聞いてきたどのコンサートホールの聴衆よりも品が良く、マナーが良かった。暖かい拍手に迎えられて幾度となく姿を現した指揮者には大きな拍手が送られていた。なお、前半のバッハの後には、アンコールとして同じ曲のカデンツァ(作曲はヘルメスベルガーで、ウィーン・フィルのコンサートマスターだった人である)が演奏された。

「最後の七つの言葉」は聖金曜日に演奏されるために作曲された。今年のそれは4月15日であった。今回の演奏は丁度その一週間後だったということになる。なかなか楽しめないコンサートだったが、本当にこの曲はそれでいいのだろうか。手元にムーティ指揮ベルリン・フィルによる演奏の録音がある。もう一度きっちりと聞いてみたいと思う。少なくともそのようなきっかけを作ってくれたとは言えるのだから。

紀尾井ホールは格調高い雰囲気のホールだが、トイレが二階と地階にしかないという構造的な欠陥がある。そういうこともあって、どことなく好きになれない雰囲気に終始した。だがそれもこれも、週末の仕事帰りといいうことを差し引く必要はあるだろう。

2017年4月16日日曜日

NHK交響楽団第1858回定期公演(2017年4月15日、NHKホール)

20世紀オーストリアの作曲家ゴットフリート・フォン・アイネムが「カプリッチョ」を作曲したのは、丁度マーラーの「巨人」が生まれた約半世紀後のことである。二人の間に音楽的な関係があるのかはわからないが、この二つの作品に共通するのは、30歳前後の作品ということくらいだろうか。一方メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調は、彼が30歳の時に作曲にとりかかり、6年の歳月をかけて完成された作品である。これは「巨人」からさかのぼること約半世紀前の、1844年のことであると解説書には記載されている。

これら3つの作品を演奏するNHK交響楽団の定期公演に出かけた。N響の定期を聞くのは1年ぶり。指揮者はイタリア人のファビオ・ルイージ、ヴァイオリン独奏はニコライ・ズナイダー。人気のある有名曲を並べただけあってか、NHKホールの3階席隅まで埋まる盛況ぶりは、久しぶりのような気がする。もっともヤルヴィが指揮するマーラーなどは、すこぶる売れ行がよさそうである。そのヤルヴィの「巨人」を1年以上前に聞き、(このときは前から2列目という席だったが)まるでヨーロッパのオーケストラの音がしたのに驚いた。もちろん演奏は超名演だったと記憶している。

アイネムの「カプリッチョ」は10分あまりの擬古典的な作品であり、あまり現代的な雰囲気は感じられない。一貫してリズム感が印象を残す親しみやすそうな作品で好感を持ったが、私のアイネム体験は実のところこれが最初であり、これ以上のことはよくわからない。ルイージは音楽を起用に、そしてスタイリッシュに指揮するが、聞きどころがぼやける傾向があり陰影に乏しい。

「メンコン」は学校の音楽鑑賞の教材にも使われる超有名曲だが、にもかかわらず実演で聞くのは私の人生でこれがたった2回目である。録音でこれまでのどれほど聞いたか知れない曲も、こうやって実演で聞くと、それまで何を聞いていたんだろうと思う印象的な部分が少なからずあって少々恥ずかしく、そして残念に思う。いや曲が持つ奥深さに触れたというべきか。

第1楽章冒頭から終楽章のコーダまで、切れ目なしで弾き続けるのは大変なことだと思うが、ズナイダーの音色は極めて美しく安定しており、やや小ぶりな作品も耳を澄ませて聞けば、3階席でもその精緻さは感じ取ることができる。ルイージの丁寧な指揮に乗ってなめらかに音が流れてゆく。軽やかだが、軽くはない。この絶妙さがメンデルスゾーンの音楽には重要なのかも知れない。

いつもCDなどで聞き流してしまう第1楽章も、特にカデンツァの後などはっとするような部分があったが、第2楽章に至ってはツボを心得たフレーズなどが次々と現れて、しばし切ない気分にさえなったことを付け加えておきたい。この楽章のフレーズはどこか懐かしく、そしてフレッシュな甘酸っぱさが漂う。音楽は演奏の仕方でこうも印象が違うのか、と思うのもこの第2楽章ではないだろうか。特に、後半の深い抒情性は筆舌に尽くし難い。そして、いつもよりとても長く感じた幸福な時間だった。熱心な拍手に応えてズナイダーは、バッハの「サラバンド」をアンコールした。その音楽に静かに耳を傾けながら、一度ベートーヴェンを聞いてみたいと思った。

3月が別れの月だとすれば、4月は出会い、そして出発の月である。春聞くのに相応しい交響曲第1番は、作曲者自身の指揮によりブダペストで初演された。この作品も、CDなどで何度聞いてきたかわからないのだが、実演で聞くとまったく違った曲に聞こえてくる。おそらくは録音や録画で接するには、私の持つ再生装置が貧弱である上に、再生環境がコンサートホールで聞くときとは比べ物にならないくらいに低質なのだろうと思う。それに、いつ中断されるかわからない家族との共同生活、窓を開けるとたちまち混じる高速道路の騒音などにも原因がある。とりわけマーラーとブルックナーは、実演に限ると思っている。どんな細かいフレーズにも気を配りながら、丁寧に指揮者がタクトを振ると、管楽器が、弦楽アンサンブルが、大きくうねったりはじけたり、その様は緊張感と興奮の連続である。これが長い時間経過を伴いながら物語のように進行し、宇宙的な広がりを見せる終楽章にいたっては、観客と演奏者が一体となった、一期一会の神秘的とも言えるような瞬間を体験することも少なくない。

さて今回のルイージによる「巨人」もまた、聞いていたその時にはまさに、そのような連続であったと思えるのは確かだ。私は、過去にルイージという指揮者を聞くときいつも、重要なフレーズがいともあっさりと、時には練習不足のような印象を伴って流れてしまう残念さを感じることがしばしばで、実のところあまり好きになれなかった。ところが今回の「巨人」は、そのような感じたのは一部であって、むしろすべての楽章で、特に各楽章の中間部において、表情を伴った細部の見事さを感じる取ることができたからだ。

第1楽章においてすでに完成度は高く、時にまだ、まとまりきらない演奏会が多いことも思えば、ヤルヴィで聞いた時のN響よりも良かったかも知れないと思われた。これで乗れると思ったのだろう。第2楽章の主題は大変力のこもった演奏で、特に低弦アンサンブルの凄みは手に汗を握るものだった。このような迫力満点の第2楽章を、1階席の真ん中で聞くとどんなに素晴らしかったかと思う。その第2楽章のレントラー風中間部、第3楽章の、懐かしい過去を回想するような瞬間・・・ここは全体の白眉である。ここをいい演奏で聞くと、私は涙が出そうになるが、それはCDでは起こらない。

壮大な終楽章の、長い時間を伴う大空間は、すでに交響曲第1番でマーラーの作風が確立されていたことを如実に表している。うねるような弦楽器や爆発的なフォルティッシモに混じって、壊れてしまいそうなくらいに繊細なメロディー。終楽章のマーラーはいつ聞いても感動的である。今回のルイージの演奏で私は、いくつかの再発見をしたことは先に述べた。第4楽章のひとつひとつの部分が、丁寧に、そして印象深く演奏された。ここの楽章を演奏する十分に練習されたオーケストラは、意気込みも集中力も十分で、満場の拍手とブラボーはひときは大きく会場を揺さぶった。

ようやく訪れた東京の春は、いきなり初夏を思わせる陽気に、渋谷へと向かう足取りもいつになく軽やかである。おそらく会場を後にした多くの人々が、同じように感じた演奏会だったと思う。この模様はテレビ収録されていたので、数か月後にはオンエアされるだろう。その時を楽しみにしていたいと思う。そして次回からは、できればもう少しいい席で聞いてみたい。おそらくヤルヴィの時以上の名演だったにもかかわらず、音が拡散してしまい、遠くで音楽が鳴っているように感じるNHKホールの悪い点が目立ったからだ。もっともその違いはテレビではわからない。テレビは実演には遠く及ばないと思うからである。

2017年4月8日土曜日

神奈川フィルハーモニー管弦楽団第328回定期演奏会(みなとみらいホール、2017年4月8日)

月刊誌「ぶらあぼ」などでコンサート情報を調べると、この4月だけでいくつものオーケストラが、マーラーの「巨人」を取り上げている。4月8日土曜日の午後には、シルヴァン・カンブルラン指揮の読売日響と川﨑賢太郎指揮の神奈川フィルが激突。さらに翌週末にはファビオ・ルイージが指揮するN響が参戦する。まるで申し合わせたように同じ時期に同じ作品を定期演奏会で取り上げるのは、偶然であろうか。昨年の秋には「ファウストの劫罰」を2つのオーケストラが相次いで取り上げ、話題になったことも記憶に新しい。

この3つのコンサートを聴き比べることができれば楽しいが、それだけの経済的、時間的ゆとりのある人は珍しい。そこでどれかひとつ、ということになるのだが、たまたま8日の午後は予定がなく、私は思い立って神奈川フィルの定期演奏会に足を運んだ。神奈川フィルを聞くのは初めてであり、常任指揮者として4年目となる若手指揮者川崎賢太郎を聞くのも初めてである。若干33歳のこの指揮者をテレビで見て以来、一度は実演を聞いてみたいと思っていたからだ。読売日響の「巨人」はオールソップの指揮で数年前に聞いているし、N響のマーラーなら昨年のヤルヴィの超名演が鮮烈過ぎて、この演奏を越える演奏が行われることも期待しない。

神奈川フィルの定期演奏会は、横浜のみなとみらいホールでマチネの時間帯に行われた。土曜日にもかかわらず当日券が多数あることもわかり、私の家からは京浜東北線などを乗り継いで小一時間の道のりである。満開の桜を散らす小雨が降る中を、横浜目指して急いだのは、このコンサートを聞くと決めた1時間後であった。

チケットを買ってホールに入ると、指揮者自らがプレトークを行うと掲示されていた。3階席に座っていたら二人の若者が登場して、指揮台を挟んで話し始めた。川崎はこの時、次のようなことを話した。「マーラーの交響曲を演奏したいと思った。「巨人」を指揮することになって、その前半のプログラムにフィンランド人の作曲家エサ=ペッカ・サロネンの作品を選んだのは、マーラーとサロネンがともに大指揮者であると同時に大作曲家であるという共通点に加え、10年ほど前に出かけたロサンジェルスでサロネンの自作自演に接し、その『かっこいい』作品に触れたからである・・・云々」。

なかなか興味深いプログラムである。なぜならマーラーの「巨人」とサロネンの「フォーリン・ボディーズ」の間には、100年程度の開きがあるからだ。つまり通常はより古い作品との組み合わせで行われることの多い「巨人」を、その1世紀も後の現代の作品の後に演奏するのである。もしかしたらマーラーの「古さ」を感じる演奏になるかも知れない。少なくともマーラーの作品を少し落ち着いて聞くことになるかも知れない。これはなかなか面白い体験である。

現代の作品と古典的な作品を並べるのは、欧米ではよく行われることで、我が国でも意欲的な演奏会ではしばしばそのようなことがある。お客さんの意向はともかく、玄人受けと演奏家の意欲向上の両方を狙うことにより、結構な名演であっても満席にはならないという「お得感」が得られる。私はこのような演奏会が好きである。

サロネンの「フォーリン・ボディーズ」は3楽章からなる20分程度の曲ながら、編成は打楽器が所せましと並べられ、リズムも早く、なかなか興奮させられる作品である。ほとんどの人が初めて接するような作品を好んで取り上げ、そのレベルも決して低くはないというところが素晴らしい。定期演奏会なんかに通う観客はマナーが大変良く、演奏が始まる前に静まり返る。

「巨人」の冒頭もまた同様で、 弦の独特の響きに乗って木管楽器が鳥の鳴き声を奏でるあたりは実に精緻である。客も静かだと、演奏家も落ち着いて演奏できるような気がする。もちろん大変練習を重ねているのだろうことは想像がつく。神奈川フィルのマーラーと言えば、金聖響によるチクルスが一躍有名になったが、おそらくはそれ以来の演奏だったのではないだろうか。

第1楽章のクライマックスが決まると、間髪を入れず始まった第2楽章の自信を持った響きは、聞くものを興奮させた。川崎の指揮は、とてもメリハリがあって深く呼吸している様が遠くからでも感じられる。オーケストラを乗せてゆくテクニックもあるのだろう。そしてそのためには細かいところをおろそかにしない。つまりは音楽が大きくもあり、また細やかでもある。

第3楽章のコントラバスで始まるメロディーも決まり、中間部の聞きどころなどでは、静かでしかも緊張感を絶やさない。大編成のオーケストラをうまくドライブする若い指揮者からは、エネルギーが心地よく燃焼する様と、健康的で知的なオーラが感じられた。おそらくは第4楽章を、これほど冷静でありながら、かつ情熱的に演奏されるというのはなかなかないことだ。クライマックスを何度も迎えながら、オーケストラが破たんするわけでも、弛緩するわけでもなく、かといってこじんまりともしていない。

コーダでは指示通りホルンを立たせたが、そのようなことをしなくても適度な統率は維持された。空席が目立つ客席からは盛大な拍手が沸き起こり、それは各演奏者を丁寧に個別に立たせてゆく間中、途切れることはなかった。オーケストラには若い人が多く、そういう意味でも何かフレッシュな名演に接したように思い、しみじみと嬉しかった。ホールを出ると雨は上がり、春の暖かい風が馬車道を吹く抜けてゆく。

各オーケストラが同じ「巨人」を競演するなら、それぞれ少し変化があってもいいと思った。特に今日のコンサート、時間もあったので「花の章」が聞きたかった。曲の中に埋めるには抵抗があるのだろうか。第3稿に「花の章」を加えるという変則的なことは、音楽的に見てもちぐはぐなのだろうか。でもこの「花の章」は桜の時期に聞くにはうってつけだと思う。桜木町に向かう路上に植えられたソメイヨシノはまさに満開で、そんなことも考えながら家路についた。

2017年4月3日月曜日

ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」(2017年4月1日、東京文化会館)

ワーグナーは専ら自分の作品を上演するための理想空間として建設したバイロイト祝祭劇場で、オーケストラを舞台の下に覆いつくした。劇の鑑賞において、演奏者が見えることを嫌ったのではないかと思う。にもかかわらずワーグナーは、その音楽でオーケストラを舞台の中心に据えた。ドラマと音楽が融合した「楽劇」というジャンルを確立した彼は、時に歌手が舞台から消え去ってもオーケストラだけが主要な動機を奏したり、さらにはしばしば管弦楽のみが長々と物語を説明する部分を数多く設けた。

楽劇「神々の黄昏」には、そのようなオーケストラを聞きどころとする部分が多い。有名な「ジークフリートのラインへの旅」(序幕)、あるいは「ジークフリートの葬送行進曲」(第3幕)などである。劇場でこれらの音楽に耳を澄ませるとき、通常はゆっくり舞台が転回し、最近なら抽象的なオブジェクトが様々な色の光に反射して幻想的な印象をもたらす。聞き手はそれらを眺めながら、長く複雑なストーリーを整理し、一息入れつつ場面の転換を想像する。時間が空間となり空間が時間となる。切れ目のない音楽は、様々な動機が現れたり消えたりしながら、徐々に盛り上がり、そして静かに聞き手を次の場面に誘導するのだ。

このようなワーグナー的時間感覚は、見る者の生理感覚も考慮したものだろう。その時にオーケストラの演者や指揮者は目障りだと考えたのだろうか。だとしたら「演奏会形式」と言われる形態でのワーグナー作品の上演は、作曲家の意図を半分無視した暴挙であるのかも知れない。

「東京・春・音楽祭」と名付けられた、上野公園を舞台とする音楽祭の目玉であるワーグナー・シリーズにおいて、毎年1作品ずつ上演されてきた「ニーベルングの指環」も、とうとう最終回となった。楽劇「神々の黄昏」がついに上演されることとなったのである。

思えば4年前、私は入院中の病室で「ラインの黄金」を何としても見たいと思った。3月末に脳卒中の疑いで緊急入院させられ、さらには頭部に穴をあけて組織の一部を生検するための緊急手術まで受けた。結果はシロ。だがすぐに退院できるわけではない。退院できたとしても電車に乗って上野まで行き、何時間もの間座っていることができるかと心配した。買っていたチケットは弟に譲るつもりでいたが、めでたく前日に退院。当日券もあるというので結局、何かあっても大丈夫なように、二人で出かけた。この時に見た「ラインの黄金」は、このような経過もあって大変素晴らしく心に残った。音楽に身を浸すことが、生きている上でこれ以上ない喜びに感じられた。

翌年の「ワルキューレ」も弟と出かけた。この上演は、今やワーグナーとして第一級のものと確信した。続く「ジークフリート」が大名演であったことはすでに書いた。ジークフリートを歌ったアンドレアス・シャーガーは、圧倒的な歌唱力で聴衆を驚かせた。こうなったら最後まで見るしかない。昨年秋にチケットが売り出されると、私は迷わずS席を買い求めた。そして待ちに待った4月1日が訪れた。開花宣言はされたものの、まだまだ肌寒い毎日が続く東京では、桜もほとんど咲いてはいない。さらに前日からはしとしとと冷たい雨が降り、街もどこか静かである。

インフルエンザや流感によって喉を傷め、なかなか静まらない咳と発熱に悩まされたのは3月に入ってからであった。だが私は何とかそれらを治し、満を持して会場へ出かけた。会場では思わぬ事態が待っていた。主役二人の交代である!まずブリュンヒルデがクリスティアーネ・リボールからアメリカ人のレベッカ・ティームに代わった。そしてジークフリートはロバート・ディーン・スミスからアーノルド・ベズイエンに。この予想外の寒さに体調を崩したのは、私だけではなかったのだ。なお、ベズイエンは「ラインの黄金」でローゲを歌っている。

二人の交代は幾度となくアナウンスされ、さらにはリハーサル中の交代であったこと、代役の二人は急きょ来日し、練習もままならないこと(とははっきり言わないが)までが告げられた。嫌な予感がした。オーケストラはヨーロッパ公演を終えたばかりのNHK交響楽団で、ゲスト・コンサートマスターにライナー・キュッヘル氏であることは従来通りだが、今回は金管楽器を中心にミスが目立ったように思う。

代役の二人は対照的な姿勢でこの難局に挑んだかに見える。ブリュンヒルデのティームは、かねてより何度かこの役をこなしており、ここ一番は自分が活躍せねばと思ったのかも知れない。登場のシーンが多く、そして最後の「ブリュンヒルデの自己犠牲」に至っては長々と声を張り上げねばならない。彼女は必死でこの役を演じ切り、時に激しく強弱をつけるあたりは、ヒステリックでやや自暴自棄になったブリュンヒルデの人間臭い側面があぶりだされ、特に第2幕のドラマチックなシーンで威力を発揮した。

それに比べるとジークフリート役のベズイエンは、急場しのぎでこの難役をこなすにはやや力不足である。彼は練習不足であることを承知の上で、他の演者に深刻な影響を与えないように、音楽の流れを乱さないように努めた。結果的に第3幕の過去を振り返るシーンにおいても、致命的な状況にならずに済んだとは言える。世界にジークフリートを満足に歌える歌手など数人しかいない状況で、ベズイエンがたとえ役足らずだったとしても、批判を浴びせることは避けたいと思う。歌声も美しい。けれどももう少し力のある歌手だったら、本公演はもっとよかったのにと思いながら、最後までその気持ちは消えなかった。

よく見ると今年の「東京・春・音楽祭」では、何と昨年ジークフリートを歌って圧倒的な成功だったアンドレアス・シャーガーが3月にリサイタルを開いているではないか。どうして彼に代われなかったのかと思った。

演奏が最初からぎこちなく、それは緊張のせいかもしれなかった。指揮者のヤノフスキは職人的手さばきで、一気に音楽を集中させようとするが、それに合わせるいつものややヘンテコなアニメーションも、雲やら川やら、そして火に包まれた岩山を映し出す。実演はともかく何度かビデオで接している私としては、やはりジークフリートの死のシーンでは、血が流れてライン川が赤く染まるような状況を想像するしかない。アニメーションはこういう時こそ威力を発揮してほしいのに、抽象的なシーンが続くかと思えば、ギービヒ家の館が非常にリアルにそびえ、なんとなく興醒めである。「ラインの黄金」から一貫して不満の残る画像は、音楽を妨げないようにと配慮した結果かもしれないのだが。

最大の成功はハーゲンを歌ったアイン・アンガーの太く力強い歌声と、そして第1幕の姉妹喧嘩のシーンで圧巻の集中力だったヴァルトラウテ役のエリーザベト・クールマンであった。リリカルな歌声が魅力的だったグート・ルーネ役のレジーネ・ハングラーも面白かったし、マルクス・アイヒェの歌声はグンターの姑息で嫉妬深い役に合っていた。なお、アルベリヒはこのシリーズでお馴染みのトマス・コニエチュニーが安定した仕上がり。

総合的に見れば第1幕の後半は最高に素晴らしく、この長い音楽の魅力を初めて身を乗り出しながら味わったし、第2幕の東京オペラ・シンガーズを加えた舞台は、集中力を絶やすことがなく圧倒的であった。第2幕の幕切れで盛大なブラボーが飛ぶかと思えば、やや戸惑った拍手だったにもかかわらず、終幕の最後で照明がすべて消されたときに、早くも拍手が始まった。第2幕こそ盛大な拍手を、最終幕ではしばしの余韻を、と思っていた私は少し戸惑うことになったが、コンサートというのは難しいものだ。何千人もの人々が見ているのだから。

「ジークフリートの葬送行進曲」ではオーケストラが見事に決まったし、そこをクライマックスとする前後のすべての音楽は、これまで登場したライトモチーフの連続である。とうとう「指環」もここまで来たかと思う。そして最後に一人ブリュンヒルデが歌う終末のシーンは、やはり圧巻であった。舞台から歌手が消え、残ったオーケストラが真っ赤に照らされる中、ヴァルハル城は火の中に崩れ去り、そしてラインの川底へと沈んでいった。世界の終わりのこのシーン、音楽は圧巻なのだけれど、どうして舞台がないのかなあ。だがこれは贅沢というものだろう。NHK交響楽団は今回も素晴らしいアンサンブルを聞かせてくれたが、東京文化会館の音響がややデッドなのか、それともヤノフスキのラディカルな音作りのためなのか、室内楽的な精緻さはあるものの、音楽が少し小さく感じられた。それもまた、あまりに欲張った話だと思うのだが。

東京交響楽団第96回川崎定期演奏会(2024年5月11日ミューザ川崎シンフォニーホール、ジョナサン・ノット指揮)

マーラーの「大地の歌」が好きで、生で聞ける演奏会が待ち遠しかった。今シーズンの東京交響楽団の定期演奏会にこのプログラムがあることを知り、チケットを手配したのが4月ころ。私にしては早めに確保した演奏会だった。にもかかわらず客の入りは半分以下。私の席の周りににも空席が目立つ。マーラー...