2020年5月31日日曜日

ロッシーニ:弦楽ソナタ集(ネヴィル・マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーチン・イン・ザ・フィールズ)

コロナ禍で外出制限の続く中、季節はいつの間にか春を通り過ぎ夏になった。昨夜は飲み過ぎたので朝早く目覚めた。こういう日には、家族が眠っている間、ひとりだけの贅沢な時間を散歩で過ごすことにしている。スマホからはロッシーニの弦楽ソナタが聞こえている。さわやかな初夏の晴天の朝に相応しい、すがすがしい音楽だ。

弦楽ソナタは、1804年頃ロッシーニがわずか12歳の時に作曲したと言われている。全部で6曲あり、そのどれを聞いても明るく瑞々しい。イタリアのモーツァルトと言われたのがよくわかる。この頃はさすがに後年のクレッシェンドを多用した、あのロッシーニ節は聞かれないが、オペラでしか知ることの少ない作曲家の他の種類の音楽を聞くのは楽しい。いかに早書きで、しかもアーリー・リタイヤをしたロッシーニも、最初の歌劇を作曲し始めるには5年も早い。この頃ロッシーニは、母親とともにボローニャに住んでいた。

ボローニャには世界で最古の大学があり、ちょっとした美しい町である。私も20代の頃ここを半日だけ訪れて、歩き回ったことがある。たしかヴェネツィアからフィレンツェに向かう列車を途中下車したのだと思う。たまたまリッカルド・シャイーが音楽監督を務めていたボローニャ市立劇場の前にも行った。赤いレンガの屋根を見下ろす中世に建てられた塔にのぼり、北イタリアの美しい風景に見入った。冬とは言え快晴の毎日が続いていた。

そんな記憶もたどりながら、弦楽ソナタを聞いている。弦楽ソナタには全部で6曲がある。第1番ト長調、第2番イ長調、第3番ハ長調、第4番変ロ長調、第5番変ホ長調、第6番ニ長調。全部調性が違う。全部聞くと2時間近くにも及び、CDでは2枚組。後年、多くが作曲家自身によって弦楽四重奏用に編曲されたほか、他の作曲による編曲も存在している。少年時代の作品である割には録音も多く、軽快でキレに富み、カンタービレは歌にように心地よい。これはテレワークの日々にうってつけのBGMというわけである。

このような曲を振らせたらネヴィル・マリナーの右に出る者はいない。もともとロッシーニを得意とし、完全な序曲集の録音でも知られるだけにほとんど完璧な演奏で、今もってこの曲の代表的な演奏である(録音は60年代)。従来のモダン楽器による厚みのあるサウンドだが、決して重厚なマトンを羽織ることはなく、生き生きとしてスッキリしている。その微妙な感覚を持ちつつ他の演奏にはまねのできない完成度に達している点が、驚きに値するのはいつものことだ。特にそれが、この曲で成功していると思う。

どの曲をどこから聞いても似たような感じだが、さらさらと流れるヴァイオリンの合間にときおり低弦が機知に富んだ独奏を見せる箇所や、ヴァイオリンがほとばしるような部分がユーモラスで飽きない。最も有名なのは第1番か第3番だそうだ。短いが緩徐楽章の歌うようなメロディーは、この作曲家の後年のオペラに登場するものに似ていたりして、メロディーの宝庫とでも言うべき天才の早熟さを感じさせる。例えば第1番の第2楽章などは、丸でヴェルディの初期のオペラに出てくるような、悲しみに沈む主人公のアリアの導入部のような趣だ。一方、第4番は全体的にしっとりとした感じである。私が気にいっているのは第6番で、その終楽章は「セヴィリャの理髪師」の嵐のシーンの下書きになったのではないか、などと発見して面白い。

なお、このCDにはさらにドニゼッティの「弦楽四重奏曲第4番ニ長調(管弦楽版)」、ケルビーニの「ホルンと弦楽のためのエチュード第2番ヘ長調」(ホルン独奏:バリー・タックウェル)、さらにベッリーニの「オーボエ協奏曲変ホ長調」が収められている。いずれも1800年代初頭のイタリア人作曲家による珍しい管弦楽作品である。

2020年5月26日火曜日

ウェーバー:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品11、第2番変ホ長調作品32(P: ゲルハルト・オピッツ、コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団))

ベートーヴェンほど豊穣で壮麗ではなく、ショパンのように華麗で繊細ではないものの、ウェーバーのピアノ協奏曲は十分にロマンチックで、それでいて構成力がある。古典派とロマン派が同居していて、適度なさわやかさと重厚さが交互に現れる様は、聞いていて楽しい。にもかかわらず、ウェーバーのピアノ協奏曲の録音は非常に少ない。有名なクラリネット協奏曲や、ピアノ協奏曲第3番になるはずだった「コンチェルトシュトゥック(小協奏曲)」などに比較すると、一層その少なさは明らかである。これは大変惜しいことで、私たちはウェーバーが作曲した2つのピアノ協奏曲を、ほとんど身近に知ることはできない。

けれどもそれは昔の話。今ではストリーミング再生が全盛の時代となって、毎月いくばくかの料金を支払えば、聞き放題のサービスが沢山ある。そのうちのひとつで検索すれば、たちどころにいくつかの録音に出会うことができる。そして私は既に、ペーター・レーゼルがピアノを弾き、ヘルベルト・ブロムシュテットがシュターツカペレ・ドレスデンを指揮した一枚を持ってはいたけれど、さらにもう一種の素敵な演奏に出会う事ができた。ゲルハルト・オピッツがピアノを弾き、コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送交響楽団によるRCA録音である。メジャー・オーケストラによるメジャー録音は、これくらいしか見当たらななかった。あとひとつは、強いて挙げるとすれば、ナクソスが録音したアイルランドのオーケストラによる一枚(ピアノ:ベンジャミン・フリス)で、この二つの演奏は対照的である。

ウェーバーの古典的な側面をよく表現しているのはオピッツによるものだと思った。第1番第1楽章のピアノが入るところなどは、丸でモーツァルトのようだ。一方、フリスの演奏は、何かショパンを通り越してシューマンかグリークを聞いているような印象を持つ。どちらがいいかは好みの問題でもあるのだが、大変残念なことにナクソス盤は録音が悪い。低音がもごもごしている。明らかにマイクセッティングの問題だろう。せっかく個性的な演奏をしているのに残念である。クラシック音楽のディスクでは、しばしばこういう問題が生じる。小澤征爾のドボコン(ロストロポーヴィチによる3回目の録音)などはその最たる例と言えるだろう。最新録音でもひどいものがある一方で、50年代のステレオ初期でもすこぶるヴィヴィッドな録音が存在する。

そういうわけでウェーバーのピアノ協奏曲は、デイヴィス盤が私の好みにあった唯一のディスクとなった。忘れないように言っておけば、レーゼルによる演奏も悪くない。こちらのほうは「コンチェルトシュトゥック(小協奏曲)」で取り上げた。

オピッツのCDでは、まずその「コンチェルトシュトゥック」から始まる。この短いが数々の充実した要素を持つ作品は、ウェーバー作品の中では飛びぬけて有名である。この曲だけでウェーバーの特徴を表し切れているようなところがある。しかしこれとは別の、2つのピアノ協奏曲を聞いてみると、「コンチェルトシュトゥック」しか知らないのはもったいないと思う。これらの曲は、「コンチェルトシュトゥック」には及ばないかもしれないが、たしかにウェーバーの活躍した初期のドイツ・ロマン派の特徴を有した協奏曲として稀少である。私たちは通常、ベートーヴェンの次のピアノ協奏曲と言えば、オーケストレーションがやや平凡なショパンと、若書きのメンデルスゾーンくらいしか思い浮かばない。

ウェーバーの作品の面白さなは、ところどころまるでシューマンのようだと思ったり(第1番第1楽章)、ショパンのようだと思ったり(第2番第3楽章)、いろいろな作曲家の特徴にふと出会いながら音楽史を行ったり来たり。この折衷的な雰囲気こそその魅力なのだろうか、と思ったりする。いやこれは勝手な聞き手の都合なのだが。二つの作品は、ともに第1楽章で堂々とした古典的協奏曲を感じさせながら、第2楽章ではベートーヴェンをもっとロマンチックに進めたムード音楽になっている。一方、第3楽章は華麗で踊るようなリズムが、丸でマズルカやポロネーズを聞いているような感覚に見舞われる。

オピッツとデイヴィスは、これらの曲をきっちりと演奏して、他の大作曲家の作品の演奏と同様な充実を感じさせてくれる。このような演奏で聞く限り、他の作品と比べても遜色はなく、私は10回は繰り返し聞いただろうか、今では鼻で歌えるようになった。そうなると実演を含め、他の演奏でも聞いてみたいと思う。クラシック音楽を聴く楽しみのひとつは、最初はとっつきにくかった曲も次第に自分の耳に馴染んでくることである。特に演奏を変えて聞いてみると、最初は何も感じなかったメロディーが心にすうっと入って来る。その作品が自分なりに、わかったような気がしてくる。

ウェーバーは目立たない存在だが、このように他の作曲家にはない魅力が感じられるのもまた事実である。このCDには2つのピアノ協奏曲、「コンチェルトシュトゥック」のほかに「華麗なるポロネーズ」作品72という曲も含まれている。この曲もまた短いが華麗な愛すべき作品である。この曲はもともとピアノ独奏曲で、リストが編曲したものもあるが、ここでは管弦楽版として演奏されている。

2020年5月24日日曜日

ベルリオーズ:オラトリオ「キリストの幼時」作品25(コリン・デイヴィス指揮ロンドン交響楽団他(06年)、ロジャー・ノリントン指揮シュトゥットガルト放送交響楽団他)

エジプト人の友人を訪ねてカイロへ行ったのは1990年9月のことで、丁度イラクがクウェートに侵攻した湾岸危機の頃だった。テロを警戒する観光地は閑散としており、私はそのあとバスに乗ってイスラエルに行こうとしていたが、あまりに危険だと言われ断念した。

友人の家はカイロ郊外の団地にあって、そこを拠点に博物館やピラミッドに出かけた。エジプトと言えばイスラム教の国で、街中にコーランが響き渡り、モスクがあちこちに点在している。けれども友人は数少ないキリスト教徒だった。それもコプト教という古くから伝わる原始キリスト教の一派で、彼はそのことを誇りに思っており、同時にイスラム教をやや軽蔑していた。ある日、彼は私をキリスト教会へと案内した。何の変哲もない溝を指さしながら、ここを通ってマリアが幼いイエスを連れて逃げたんだ、などと熱く解説してくれた。確かにキリスト教はイスラム教が広まるはるか前からこの地に布教されていたし、ピラミッドに象徴される古代エジプトは、それよりさらに3000年も前から存在していたのだ。

夏のカイロは暑い。もとより砂漠の中にある内陸の街だから、熱気が籠る。そして砂ぼこりが舞い上がり、街の排気ガスとともに空気は霞んでいる。雨がほとんど降らず、ゴミも捨てられたまま。湿気がないのでカビないのだろうと思った。そんな猛暑の中を、私は古い教会やモスク巡りにつきあわされ、最後にピラミッドに到着したときには軽い熱中症にかかっていた。地下道の中で倒れそうになり、そのけだるさは街中の屋台で売られていた搾りたてのオレンジジュースを大量に飲むまでは解消されなかった。

キリスト教徒でもない私は当時、聖書の知識を有していなかったから、イエスがマリアとともにエジプトに逃れ、点々としながら逃避生活を強いられていたことなど知らなかった。新約聖書「マタイ伝」(第2章)には、この様子が記述されている。それによればイエスが誕生したとき「この子は必ずや王位を脅かすであろう」と神託が下ったため、この預言を恐れたヘロデ王が国中の男児を皆殺しにしようとしたので、聖母マリアと夫ヨセフは天使の助言に従ってエジプトに逃亡したというのである。

カイロを始めエジプト各地には、この時の逃亡地が数多く残っている(本当かどうかは定かではないのだが)。聖家族はやがてサイスという街に到着する。このサイスという街は、エジプトのどこにあるのかさっぱりわからない。ただここで聖家族はイスマイル人の家庭に身を寄せることができ、静かに暮らすことができた。

以上が、ベルリオーズのオラトリオ「キリストの幼時」のあらすじである。この物語は3つの部分から成り、第1部「ヘロデの夢」でエルサレムを脱出するまでの経緯が語られ、第2部「エジプトへの逃避」で美しい「羊飼いたちの聖家族への別れ」が長く続く。第3部「サイスへの到着」では、これまた非常に美しい「若いイシュマエル人による2本のフルートとハープのための三重奏」が含まれる。全部で90分以上。語り手としてのテノールのほか、マリア(メゾ・ソプラノ)、ヨゼフ(バリトン)、ヘロデ王(バス)などの登場人物がいる。

毎週のようにCDを買いあさっていた30代の頃、年に1つはまだ聞いたことのない曲の最新録音をボーナスが出たときに買うと決めていた。その日は長らくタワーレコード渋谷店をさまよい選んだのはベルリオーズの「キリストの幼時」だった。演奏はロジャー・ノリントンがシュトゥットガルト放送交響楽団を指揮した2枚組だった。

けれども私はCDでこの「キリストの幼時」を注意深く聞いたことはなかった。静かな曲な長く続くフランス語の歌曲。この曲を聞くのは根気のいる作業だった。趣味というのは楽しむためにするものだが、私にとってのクラシック音楽がしばしばそのような試練の側面を持つものでさえあった。結局、お金をかけて購入した2枚組のディスクは、長く私のCDラックに収納されたまま再生される機会を失っていった。

2000年代に入って、ベルリオーズの作品に耳を傾ける機会がやってきた。ベルリオーズの第一人者であるコリン・デイヴィスが、30年ぶりに再びロンドン交響楽団を指揮して次々と再録音していったからである。LSO Liveというレーベルは、独自制作レーベルのさきがけだった。凋落していくメジャー・レーベルをよそに、数々のヒットを飛ばすことになる。すべてがライブ録音、値段は1枚千円。しかもSACDハイブリッドだった。C.デイヴィスはすでに80歳にも達していたので、いくつかの録音はかつてのものを上回ることはなかった。しかしこの「キリストの幼時」に関しては、過去の録音を上回る完成度を持つと思われる。

ベルリオーズの曲の魅力のひとつは、少ない楽器で一切の贅肉をそぎ落としたような牧歌的メロディーが続くようなところである。これは、それまで見向きもしなかった「幻想交響曲」の第3楽章が、実は大変好きな曲に思われてくる経験があればわかるだろう。このような部分こそベルリオーズの真骨頂であるとわかった時、この「キリストの幼時」が実は大変な名曲であることに気付いた。よく考えて見れば数多くの名指揮者が過去に録音している。

ノリントンとデイヴィスはともに同年代のイギリス人だが演奏は対照的である。デイヴィスは従来のモダン楽器による演奏で、熱く武骨な演奏を繰り広げる。時にフランス音楽に不可欠な要素を欠くことも多いデイヴィスのベルリオーズは、抑制的で破たんのない演奏として地味すぎるという評価もできる。だが「キリストの幼時」ではこの欠点がほとんど感じられない。これはバロック音楽にも通じる曲調のおかげだろう。しかも悪評高いバービカン・センターでの録音の欠点を補うため、各楽器をアップで捉えておりヴィヴィッドである。

一方のノリントンは、得意のノン・ビブラート奏法をフルに活かして精緻な演奏を繰り広げる。左右に分かれたバイオリンや合唱が、さわやかな風のように耳元をよぎっては消える。時にサービス精神に富んだ挑発的ななユーモアは影を潜め、音楽に忠実でありバランスも良い。テンポを速めにとっていて、控えめな表現でも緊張感が程よく持続する。フィナーレの合唱やそこに交わる独唱の声は透き通るようにこだまし、録音で聞いていてもこれほどほれ込むことは珍しい。この演奏がライブであることは、拍手を聞くまで気付かない。

この二つの演奏に登場する独唱陣も不足感はない。その布陣は以下の通り。

<コリン・デイヴィス盤(2006年録音)>
 ヤン・ブロン(T: 語り手、百人隊長)
 カレン・カーギル(Ms: マリア)
 ウィリアム・デイズリー(Br: ヨゼフ)
 マチュー・ローズ(Bs-Br: ヘロデ)
 ピーター・ローズ(Bs: 家長、ポリュドールス)
 テネブレ合唱団
 ロンドン交響楽団

<ロジャー・ノリントン盤(2002年録音)>
 マーク・パドモア(T: 語り手)
 クリスティアーネ・エルツェ(S: マリア)
 クリストファー・マルトマン(B: ヨゼフ)
 ラルフ・ルーカス(Bs-B: ヘロデ)
 ミハイル・ニキフォロフ(Bs:家長)
 ベルンハルト・ハルトマン(Bs:ポリュドールス)
 フランク・ボセール(T:百人隊長)
 シュトゥットガルト声楽アンサンブル
 シュトゥットガルト放送交響楽団

「キリストの幼時」は宗教的三部作と言われ、全11曲から成っている。このうち最初に作曲されたのが第2部である。ベルリオーズは第2部の「羊飼いたちの別れ」を17世紀のバロック時代の作曲家の作品を装って発表した。この曲が古風なムードを持っているのはそのせいである。この時の評判は上々で、やがて自分の名を明かすことになるが、評判が下がることはなかった。

続いて作曲された第1部は、エジプトへの逃避を決断するに至る経緯が語られ、ベルリオーズらしいドラマチックな物語は第4曲「ヘロデの夢」でクライマックスを迎える。一方、最後に作曲された第3部では、彷徨った挙句やっと暖かく迎え入れてくれるイスマイル人の家庭で催される室内楽「若いイシュマエル人による2本のフルートとハープのための三重奏」が白眉である。ノリントンの早めのテンポで駆け抜ける演奏も素晴らしいが、デイヴィスのダイナミックな表現も説得力がある。ここの6分余りのメロディーは、しばし幸福な気分にさせてくれる。さらに後日譚が語られるフィナーレでは7分以上におよぶア・カペラが用意されている。実演で聞いたら涙を流すほどに美しい音楽だろう。

「キリストの幼時」のような作品が我が国の音楽会で取り上げられることはあるのだろうか。私の知る限り、出会ったことはない。地味な作品なので仕方がないとは思うが、何度か聞きこんでこの作品の素敵さをすることになった身としては、一度どこかでライヴ演奏に接してみたいと思っている。だがその機会も、このたびのコロナ禍でしばらく遠のいてしまったと言わざるを得ない。

2020年5月10日日曜日

ウェーバー:交響曲第1番ハ長調作品19(J50)、第2番ハ長調J51(ウォルフガング・サヴァリッシュ指揮バイエルン放送交響楽団)

1786年生まれのカール・マリア・フォン・ウェーバーは、1770年生まれのベートーヴェンよりも16歳年上ということになるが、ベートーヴェンは古典派に属し、ウェーバーは初期ロマン派に属すると分類されている。だがもちろん、作曲された曲の多くが同時代であるし、ウェーバーの初期の作品はベートーヴェンの晩年の作品より前に作曲されている。

ウェーバーが20歳の時に作曲された交響曲第1番ハ長調は、1807年に完成しているが、この時期にベートーヴェンはハ短調交響曲(第5番)などを手掛けているころだから、まだまだということになる。しかも驚くべきことに77歳まで生きたハイドン(1809年没)はまだ存命である。

ハイドン、モーツァルトやベートーヴェンが今日、ドイツの国境を越えて国際的な作曲家としての地位を確立しているのに対し、ウェーバーはどちらかというとドイツの国内に閉じた作品を書いたローカルな作曲家と思われている。ヨーロッパ中で一世を風靡した歌劇「魔弾の射手」でさえ、今日ではドイツ以外で上演されることはまれである。ましてやその他の作品となると、インターナショナルなリリースをされる録音もめっきり少ないのが実情である。

ウェーバーの若き日の作品、交響曲第1番と第2番もまた、録音は非常に少ない。 交響曲第1番ハ長調は、青年ならではの瑞々しい感性の中に、伸びやかである。第1楽章はモーツァルトの交響曲第31番ニ長調を参考にしていると言われている。そう言われて聞いてみたら、冒頭はなんとなく似ていなくもないが、でもやはり違う。そして、少しゆっくりになったりすると、そこは演奏のせいかもしれないのだけれども、旋律が歌うようなメロディーになっていく。

音が隣のすぐ上の音に移る。歌謡性のメロディーはシューベルトにおいて一気に開花するが、ウェーバーの音楽の魅力はそんなロマン性と古典派の骨格との同居である。その傾向は第1楽章で顕著だが、第2楽章になると、いっそうロマン性が深まるのもこの曲の特徴である。オーボエが、フルートが、弦楽器が、深々とした旋律を歌ったかと思うと、そこに古典派の和音が鳴り響く。

一方、第3楽章と第4楽章は初めて聞いた時、ハイドンのザロモン交響曲を聞いているのではないか、とさえ思うような感覚に囚われた。特に第3楽章はスケルツォとされているが、メヌエットと言ってもいいかもしれないようなムードである。

交響曲第2番ハ長調は、第1番とほぼ同時期に作曲された。聞いた印象では第1番以上に古典的で、どちらかというと第1番の方が充実した曲のように思える。第3楽章は短調だが、トリオの部分で長調に転じる。このあたりのはっきりとしたメヌエットの形式は、同じ3拍子の第4楽章とともに、どこかのんびりしている。そして何ともあっさりと終わってしまう。これらの交響曲はウェーバーがまだ若いころの作品で、数あるウェーバーの作品の中では地味である。

今となっては懐かしいドイツの巨匠サヴァリッシュは、ウェーバーの2つのハ長調交響曲を、壮大で骨格のある大きな交響曲として演奏している。聞き比べたわけではないのでほかの演奏がどうなのかはわからないが、サヴァリッシュはテンポを落としてじっくり聞かせている。ウェーバーのロマン性に焦点を当てているように思える。オルフェオがリリースした当CDの録音は、1983年10月ヘラクレスザールとクレジットされている。

2020年5月9日土曜日

ベルリオーズ:劇的交響曲「ロメオとジュリエット」作品17(Ms: クリスタ・ルートヴィヒ、T: ミシェル・セネシャル、Bs: ニコライ・ギャウロフ、ロリン・マゼール指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、フランス国立放送局合唱団員、ウィーン国立歌劇場合唱団)

ベートーヴェンが第九交響曲によって解き放った管弦楽の流れのひとつは、ベルリオーズを経てワーグナーに受け継がれたようだ。ワーグナーが逃亡先のパリで耳にした交響曲「ロメオとジュリエット」は、彼をして感銘の中に埋もれさせ、その音楽的な語法を「タンホイザー」や「トリスタンとイゾルデ」などに応用した。「トリスタン」はベルリオーズに献呈されている(だがベルリオーズの、この前奏曲を聞いての第一印象は芳しくなかったようだ)。

ワーグナーはベルリオーズから大きな影響を受けたことは、「幻想交響曲」に用いられるモチーフの使い方に関する継承からもうかがえる。ベルリオーズは「ロメオとジュリエット」をパガニーニに献呈している。パガニーニは「イタリアのハロルド」を聞いて大金を贈り、「ベートーヴェンの後を継ぐのはあなたしかいない」と手紙に書いている。

「ロメオとジュリエット」は 「合唱、独唱及び合唱レシタティーフのプロローグ付きの劇的交響曲」と銘打たれ、合唱や独唱が最初から挿入されているにもかかわらず、オラトリオでもカンタータでもない形式をとっている。あくまで交響曲であり、合唱や独唱はその中心ではない。第2部から第4部までの中間楽章はほぼ管弦楽のみで演奏される。言わずと知れたシェークスピアの戯曲に基づいている作品だが、その物語を忠実に再現したものではなく、ベルリオーズがこの物語から得たインスピレーションを自由に音楽表現した作品と言える。

1839年に作曲された「ロミオとジュリエット」は標題音楽のひとつの最高峰であり、ベルリオーズの作品の中では、現在でも比較的しばしば演奏されるが、その規模と長さ(1時間半!)からか、なかなかとらえどころがないと感じられ、私も最初は随分敬遠していた。CDだと当然2枚組の価格となるのも痛い。ベルリオーズでも「幻想交響曲」については、どの演奏がどう素晴らしいかを記したWebのサイトを見つけるのは難しいことではないが、「ロメオとジュリエット」となるとその比較試聴記なるものは皆無に等しい。これは残念なことだ。

私が初めてこの曲に投資したのは1990年代だった。演奏はコリン・デイヴィスがウィーン・フィルを指揮したフィリップス盤だった。コリン・デイヴィスはベルリオーズの第1人者だが、当時はミュンヘンで指揮棒を振っており、ウィーンへはバイエルン放送合唱団を連れて行った。ウィーン・フィルのベルリオーズというのも珍しく、ここではフランス風の響きがウィーン風の重すぎない中音と混じり、独特の音で鳴っているのがまず面白い。例えば、第1部「序奏」は速い弦楽器で始められ、続いてトロンボーンを主体とする管楽器のユニゾンへと移るが、この金管楽器の響きはウィーン風に柔らかい。

しかし、この演奏はライブ録音なのか、大音量をうまくとらえきれておらず音が割れており、特に後半は単調な感じがしている。それに比べるとやや時代は遡るが、同じウィーン・フィルを指揮した録音でも、ロリン・マゼール指揮による1972年のデッカ盤が指揮、演奏、それに録音といずれも素晴らしいと思った。ところがこの録音は名盤の誉れ高いものの、すでに廃盤となっているようで、ダウンロードすることもできないしストリーミングでも聞くことができない(2020年4月現在)。管弦楽部分のみを演奏したより古い(モノラル)のベルリン・フィルとの演奏が聞けるのは嬉しいけれど。そういうわけでいまやこのCDは、大変貴重なものとして私の手元にある。

モンターギュ家とキャピュレット家の壮絶な戦いを描く序奏に続き、第1部からいきなりコントラルトと合唱が登場する。語られるのは物語のあらすじである。後に登場する音楽のモチーフがここでで登場する。この予告的なモチーフは、交響曲としては異例なことで、あの第九の第4楽章での回帰するメロディーを重い起こさせる。間もなく印象的なハープの伴奏に乗って歌われる愛の歌がとても美しい。うっとりとしていると、その後にはテノールが合唱を伴ってレチタティーヴォとなるあたりも見事だと思う。

第2部からは、聞きどころの連続だ。第2部は前半「ロメオただ一人」で静かなメロディーが幻想的に奏でられ、あの「幻想交響曲」の第3楽章のような心地よい音楽が6分も続く。やがて後半に入るあたりからテンポは速くなり、「キャピュレット家の饗宴」となる。ここの躍動感は聞いていてすこぶる楽しい。

第3部は有名なバルコニーのシーンである。ここにわずかだが男声合唱が入る。宴会の余韻を味わいながら家路につくキャピュレット家の若者たちの歌である。続く「愛の場面」は単独でも演奏される美しい曲で、ワーグナーをして「今世紀における最も美しいフレーズ」と言わしめたほどだ。ベルリオーズはギターの名手だったので、ギターを用いて作曲したということをどこかで聞いたことがある。そのため独特の高音中心の響きが続き、しかも少ない数の楽器でのアンサンブルが多いため、あの無駄な部分をそぎ落としたようなスッキリした音楽になっている、というのだ。

第4部は「マブ王女のスケルツォ」として有名だが、劇の中ではちょっとした間奏曲といった感じである。途中に変わった音が聞こえてきたと思ったら、これはアンティーク・シンバルという楽器だそうだ。マゼールはこのスケルツォを、ややテンポを落として丁寧に指揮している。音楽は、そのあとに続く第5部「ジュリエットの葬送」に対するちょっとしたアクセントになっているからか尻切れトンボのように終わる。昨年ソヒエフ指揮N響で聞いたコンサートでは、全体のプログラムがここで終わってしまい、少なからず欲求不満が残った。

第5部「ジュリエットの葬送」は、思うにベルリオーズらしい音楽だ。まず重々しいメロディーが低弦で示され、それがバイオリンや木管に引き継がれていく中、合唱が"Jetez des flueres…"と繰り返していると、急に雲の合間から日が差すように明るくなっていくのがとてもすてきだ。特に中盤はごくわずかな伴奏を伴う合唱主体の部分が続く。合唱が消えると管弦楽のみが残って、葬儀の列が静かに消えていくように遠ざかる。

ここから引き継がれるのが管弦楽のみで演奏される第6部である。激しく急速なテンポと、静かで厳かな部分が交錯する。ここから8分間に亘って描写されるのは「祈り、ジュリエットの目覚め、忘我の喜び、絶望、いまはの苦しみと愛しあう二人の死」である。どことなく「断頭台への行進」を思いおこさせるような標題音楽のひとつの頂点である。

いよいよ終曲第7番である。モンターギュ家とキャピュレット家がそれぞれ別の合唱となって激しく罵りあう中、 ロランス神父(バス)が登場、最大の聞かせどころでもあるアリアを歌って両家を諭す。最後には両家が和解し、壮大なコーラスが大規模な管弦楽とともにコーダを迎えて終わる。

若きマゼール(42歳)による演奏に登場するソリスト陣は豪華だ。コントラルトのクリスタ・ルートヴィヒはウィーン育ち?の歌手だが、やや陰りのある歌声がここでは魅力的で、第1部のプロローグで悲劇を予感する。一方、ミシェル・セネシャルはフランス人で、独特の高音を活かしてロメオの心情を瑞々しく歌う。そしてフィナーレに登場するブルガリアの巨匠ニコライ・ギャウロフは、もはや何も言うことはないだろう。戦後最大のバス歌手は、丸でヴェルディのオペラを聞くようなドラマチックな歌を二つの合唱団と塗れながら披露する。その合唱団は2つ。ウィーン国立歌劇場合唱団とフランス国立放送局合唱団員が、それぞれ両家に分かれて熱唱を披露する。

2020年5月7日木曜日

ウェーバー:舞踏への勧誘(ベルリオーズ編)、序曲集(ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

ベートーヴェンの亡きあと、音楽の中心はパリに移っていたのではないか。もちろんウィーンは音楽の都であり続け、シューベルトもいたし、ロッシーニやパガニーニだってウィーンを訪れている。しかしそのロッシーニは結局、パリで成功し晩年はパリに住み着いた。少なくともオペラに関する限り、絢爛豪華なグランド・オペラ様式を確立したマイアベーアらの活躍するパリこそが、その中心地だった。

だからドニゼッティもベッリーニもパリの観客ためにオペラを書いたし、ワーグナーもフランスの音楽から影響を受けた。そのパリではモーツァルト以降のオペラを継承し、ドイツ・ロマン派のオペラ様式を確立したウェーバーの作品もまた、聴衆にもてはやされた。ウェーバーの「魔弾の射手」を見てベルリオーズは作曲家を志したとさえ言われている。「オペラの運命」(岡田暁生著、中公新書)によれば、パリは「十九世紀オペラ史における首都」であり、グランド・オペラによって「イタリアの旋律の甘さと、ドイツの重厚な管弦楽と、フランスのきらびやかさ」が融合された。

ウェーバーによって作曲されたピアノ曲「舞踏への勧誘」が、ベルリオーズによって恐る恐る編曲され、見事な管弦楽作品となったことは有名である。私が子供の頃などは、男性が女性を勧誘してダンスを踊り、再び会釈をして別れるというストーリーが見事に表現された作品を、よく耳にしたものだった。どういうわけか今ではほとんど聞かなくなってしまったが、「舞踏への勧誘」は音楽を聞き始める入門者にうってつけの作品として知られていた。

カラヤンによる「舞踏への勧誘」がFMで放送されたとき、私はカセットテープに録音して何度も聞いた覚えがある。そして今私の手元にある一枚のCDには、この作品とともにいくつかのウェーバーの序曲が収録されている。久しぶりに聞く「舞踏への勧誘」は非常に懐かしい。

「オベロン」や「オイリアンテ」といった作品は、「魔弾の射手」ほどではないにせよ少なくともその序曲は有名であり、従って比較的よく演奏される。序奏に続く「オベロン」序曲の、ほとばしり出るような速い主題は、かつてモノクロの映像で見て腰を抜かしたことがある。確かブルーノ・ワルターの指揮だったのではなかったか。それに比べると大人しい演奏だが、カラヤンの指揮するウェーバーの序曲は、どの演奏も丁寧でしかも艶があり、ベルリン・フィルの機能美を活かして極上の音楽に仕上がっている。

私は初めて「アブ・ハッサン」という歌劇の序曲も聞いたが、ここで打ち鳴らされる中東風の音楽も楽しいし、その他の曲もドイツ・初期ロマン派の香りが実に麗しい。ドイツの放送局のクラシック・チャネルを聞いていると、ウェーバーの時代の作品が良く演奏されている。その中にはワーグナーの交響曲などもあって、この時期のドイツ人作曲家の人気ぶりがうかがえる。まだ古典派の骨格を残しながら、ほのかなロマン性を感じるところが良いのだろう。

ウェーバーは数多くの歌劇を残したが、すべての序曲を収録したディスクはほとんどない。そんな中でカラヤンは、その中から懐かしい「舞踏への勧誘」を含め、選りすぐりの作品をオーソドックスに演奏している。ところがカラヤンは交響曲や協奏曲はおろか、歌劇「魔弾の射手」でさえ全曲録音を残していない(と思う)のは不思議なことだ。どこかに録音があれば、是非とも聞いてみたいと常々思っているのだが。ともあれ今日も、初夏の夜風に吹かれつつカラヤンのウェーバー序曲集を聞きながら、しばし近くの遊歩道を散歩をすることとしよう。フラワー・ムーンと呼ばれる五月の満月を見上げながら…。


【収録曲】
1.舞踏への招待作品65(ベルリオーズ編)
2.歌劇「オイリアンテ」序曲
3.歌劇「オベロン」序曲
4.歌劇「アブ・ハッサン」序曲
5.歌劇「魔弾の射手」序曲
6.歌劇「精霊の王」序曲
7.歌劇「ペーター・シュモル」序曲

2020年5月5日火曜日

ロッシーニ:序曲集(オルフェウス管弦楽団、クラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団)

ロッシーニの序曲集にはいい演奏が沢山ある。この理由は、むしろ曲の楽しさとでもいうべきものかと思う。食後のデザートと同じように、ロッシーニの音楽はどれをとっても美味しいからだ。長い今年の黄金週間は、天気が良くても外出できない日々が続く。こんな時、ロッシーニの音楽に耳を傾けてはいかが?ここでは私がこれまでに聞いてきた数々の演奏を紹介したい。

私が住んでいた大阪府北部のある市では、市内にある図書館のひとつにLPレコードの貸し出しコーナーが登場したのは1980年頃だったと思う。中学生だった私は、市内の北の端に住んでいて、市内のバスを乗り継いて最南部にあるその市立図書館に出かけた。学校のない日曜日の午前中だった。市内在住のある音楽評論家が、聞かないレコードを寄付したからだった。貸しレコード屋などほとんどなかったから、私は掘り出しものを見たさに友人とでかけたのだ。そしてそこには、アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団のロッシーニの序曲集のレコードがあった。貸出のカウンターに行くと、図書館の職員は私に、わざわざ来てくれたのですね、と言った。

ロッシーニの序曲集はトスカニーニで決まり、と言われていた時代だからこれは嬉しかった。一切の残響を排し、強直で力強い「ウィリアム・テル」の序曲がその中の白眉だった。私はさっそくその演奏をカセット・テープにダビングし、2週間後、ホロヴィッツとワルターによるチャイコフスキーのピアノ協奏曲と交換するため、そのLPを返却した。

歌劇「ウィリアム・テル」はロッシーニが作曲した最後のオペラ・セリアで、この序曲は嵐のシーンなど4つの部分から成る情景描写など成熟した音楽が特徴的だが、その序曲はロッシーニの中ではちょっと変わった方だ。むしろ、あのロッシーニ・クレッシェンドが全編に横溢する楽しい序曲は、数々のオペラ・ブッファに存在する。その中で最も有名な歌劇「セヴィリャの理髪師」は、実は歌劇「イギリスの王女エリザベス」からの転用である。私の家にあったクラウディオ・アバド指揮ロンドン交響楽団のLPには、歌劇「イギリスの女王エリザベス」序曲と記されていた。

アバドには当時2枚の序曲集のレコードがあった。上記はRCAから発売されていて、ここには「セミラーミデ」序曲や「ウィリアム・テル」序曲が収められていたのに対し、もう一方のドイツ・グラモフォンから発売されていたLPには、私の好きな「泥棒かささぎ」などが含まれていた。どちらもロンドン交響楽団を指揮したもので、収録された曲に重複はないからどちらがいいという議論は意味がないのだが、どちらかと言えば大人しいドイツ・グラモフォンに対し、情熱的なサウンドのRCAといった違いがあった。ただRCA盤しか持っていなかった私は、何とかもう片方の演奏を聞いてみたいと思っていた。

村上春樹の小説「ねじまき鳥クロニクル」は、第1部が「泥棒かささぎ編」となっていて、この冒頭にアバド指揮の演奏をFM放送で聞いて口笛を吹くシーンがある。しかし私はこの曲を聞くときには、カラヤンの演奏を聞くしかなかった。ベルリン・フィルを指揮した演奏である。カラヤンの演奏は、あのイタリアン・サウンドとはちょっと趣きが異なり、冷静で大人しいように感じていた。それでも小太鼓を伴ったあの三拍子の浮き立つようなリズムは、いつ聞いても、どの演奏で聞いてもウキウキする(なお、アバドのロッシーニ序曲集には、その後ヨーロッパ室内管弦楽団と録音したものもあるようだ。またカラヤンの演奏は別に取り上げた)。

CDの時代が到来して私がいよいよ自分のお金でディスクを買うことができるようになったとき、私が選んだのは新譜として登場したオルフェウス管弦楽団のものだった(録音は1984年、ニューヨーク州立大学パーチェス校)。このディスクは、同オーケストラのドイツ・グラモフォンへのデビュー録音だったようだ。指揮者を置かない民主的なニューヨークの室内オーケストラは、まるでコンピュータが演奏をしたらこうなるのではと思わせるような演奏で、意外にもリズムの切れやフレージングも素晴らしく、しばらくこの演奏をテープに録ってはカー・ステレオで聞いたものだ。ヨハン・シュトラウスのワルツ集と同様、ロッシーニの序曲集は格好のドライブ音楽である。

【収録曲】
1.歌劇「タンクレディ」序曲
2.歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
3.歌劇「幸福な錯覚」序曲
4.歌劇「絹のはしご」序曲
5.歌劇「セビリャの理髪師」序曲
6.歌劇「ブルスキーノ氏」序曲
7.歌劇「結婚手形」序曲
8.歌劇「イタリアのトルコ人」序曲

今聞いてみてもほれぼれするような完璧さと、そこにスポーティーとも言うべき健康的な呼吸が息づいているのがわかる。このリストを見てわかるように、オルフェウス管弦楽団によるロッシーニの序曲集には、大規模な編成を必要とする「ウィリアム・テル」や「泥棒かささぎ」、あるいは「セミラーミデ」といった曲が含まれていない。かつての大指揮者による名演奏に対して一石を投じたような新鮮さがあった。ただ私としてはもう一枚、欠落した作品のためのもう一枚を買い揃える必要があった。

私はどちらかというと新譜を買いたい方だから(クラシック好きには少数派である)、当時発売されたシャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団の演奏を購入した。この演奏には「チェネレントラ」も含まれているなど魅力もあるが、豊富なカタログの中では他の演奏に埋没していると言わざるを得ない。これといった長所がないのである。

私が米国滞在中に購入したヨエル・レヴィ指揮アトランタ交響楽団によるテラークの演奏は、またひとつの選択肢だが、ここには有名な曲ばかり7曲しか収められていない。当時私は全米各地のオーケストラのディスクを集めていて、その中にこの演奏を発見したのだった。悪い演奏ではないのだが(録音もいい)ほとんど聞いておらず、デュトワ同様この演奏ではなくてはならないというところはない。

完全な序曲集はおそらくネヴィル・マリナーによるものか、もしくはシャイーによる新しい録音だろうと思う。これらは世評も高く録音も非常にいいだろう。だが私はもはや、ロッシーニの序曲集に耳を傾ける時間がほとんどなくなってしまった。シャイーは他に珍しいロッシーニの音楽を録音しているので、そちらで取り上げることにしようと思う。またシャイーには歌劇「チェネレントラ」などのいくつかの全曲録音盤にももちろん序曲は含まれており、序曲以降より長時間、花火を見ながらシャンパンを飲むかのようなひとときを過ごすことができるのは請け合いなので、わざわざ序曲集として揃える必要はないだろう。これはアバドについても言える。

コリン・デイヴィスがロイヤル・フィルを指揮した60年代初頭の録音で、今はどこで手に入るのかはわからないが、「ウィリアム・テル」「泥棒かささぎ」「セミラーミデ」「ブルスキーノ氏」それに「アルジェのイタリア女」が収録されているディスクがある。これは掘り出し物の大変素晴らしい演奏である。私の持っているディスクはシューベルトの「グレイト」交響曲、ベートーヴェンの第7交響曲の隙間に収録されていて、期待していなかったがなかなか気分のいい名演に出会え嬉しかった。


【収録曲(アバド指揮ロンドン響-RCA盤)】
1.歌劇「セミラーミデ」序曲
2.歌劇「絹のはしご」序曲
3.歌劇「イタリアのトルコ人」序曲
4.歌劇「イギリスの女王エリザベッタ」序曲
5.歌劇「タンクレディ」序曲
6.歌劇「ウィリアム・テル」序曲

【収録曲(アバド指揮ロンドン響-ドイツ・グラモフォン盤)】
1.歌劇「セビリャの理髪師」 序曲
2.歌劇「シンデレラ」序曲
3.歌劇「どろぼうかささぎ」序曲
4.歌劇「アルジェのイタリア女」序曲
5.歌劇「ブルスキーノ氏」序曲
6.歌劇「コリントの包囲」序曲

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...