2018年5月31日木曜日

マーラー:交響曲第8番変ホ長調(ゲオルク・ショルティ指揮シカゴ交響楽団他)

空前絶後の規模を誇るマーラーの交響曲第8番は、「一千人の交響曲」という異名を持つ。それは実際にこの交響曲を演奏する演奏家が1000人にも達するほどの数に上るということから、誇張ではない。私はこの交響曲を中学生の頃に知った。レコード芸術誌の別冊に名曲名盤を紹介した本があって、それが我が家にもあったのでが、主要な作品について3つの録音が取り上げられているというものだった。確か1980年頃のことである。

マーラーの交響曲第8番は、当時数えるほどしか録音がなく、それもそのはずで、これほどの規模の作品となるとなかなかレコード会社を悩ませるものだったのだろう。で、その時に紹介されていたのは①ショルティ盤、②ハイティンク盤、③朝比奈隆盤の3種類だったように思う。これが当時入手可能なレコードだった、というわけである。そして朝比奈隆がこの曲を日本初演した際には、大阪フェスティヴァル・ホールに実際、1000人を超える演奏家が登場したと解説されていた。

そんな作品だから、レコードはおろか実演に接する機会などない、と思っていたが、その時は案外早く訪れた。会社員となって東京に引っ越したばかりの頃、読売日本交響楽団の定期会員となった1992年の秋に、第300回となる記念の定期演奏会として、この曲が取り上げられたからである。土曜日の夜、私はサントリーホールの2階席で、この曲を聞いた。指揮者のズデニェク・コシュラーが小さな体をいっぱいに広げ、顔面を紅潮させながら必死に指揮する姿と、演奏が終わった時に声を出して安堵のため息を漏らしたオーケストラのプレイヤーの表情を鮮明に覚えている。

80年代に入り録音が相次いだこの曲も、今では普通に取り上げられることが多くなった。だが私がこの曲を実演で聞いたのはこのときだけであり、録音に至ってはテンシュテットの生前の歴史的録音を購入した時だけであった。一般に大きな曲ほど圧倒的な迫力のみが注目されるが、この曲は同時に極めて精緻な曲であると言える。そのことがかえってわかりにくくしている。滅多に触れることのない曲だけに、戸惑うことが多いのだ。

だが録音で聞いてみると、少年合唱団を始めとする歌声に大きなウエイトが置かれ、その緻密で確信に満ちた音楽は、冒頭の一気にほとばしり出るようなパワーや、クライマックスとなる終結部以外の全編にわたって続くことがよくわかる。実演では出演者の規模に圧倒されるが、実際はCDなどで聞く方が音楽がよくわかる。いや実演であっても、素晴らしい演奏を何度も聞けば、次第に等身大の「一千人」に触れることができるのだろうけれども・・・。

そのような大宇宙的空間を持つ交響曲を、マーラーは自身の最高傑作と位置づけた。1910年の自身の指揮によるミュンヘンでの初演は大成功に終わったようだ。マーラーがウィーンでの職を解任されたことがきっかけで、二つの大陸を股にかけた指揮者兼作曲家として精力的に活動するようになった時期である。

第6番から第8番に至る3つの大作は、難解と評されることも多いが、実際にはもっともマーラーらしい作品と言える。信じられないことに何とこの交響曲第8番は、わずか数か月で作曲されている!

記念碑的作品でもあるこの曲は、第6番や第7番で見られたようなアイロニカルな趣向は影を潜め、ストレートな作品となっていると思う。ベートーヴェンが第九で到達したような、宗教を越えた全人類的賛歌を、マーラーはこの曲で表現したのだろう。それゆえに、それまでのマーラーの「毒」は薄められているとも言える。その後に作曲された「大地の歌」や第9番ほどの新しい境地もまだ明確には表れていない。何度か耳を傾けて行くうちに、この曲が規模がでかいだけの見せかけではなく、多くの表情に富んだ素晴らしい作品であるということを発見した。

私の場合、それをわからせてくれた演奏が、ショルティの演奏である。ここでオーケストラはシカゴ響だが、録音はデッカによって演奏旅行中のウィーン・ソフィエンザールで行われた。時は1971年。その理由は、優秀な独唱者や合唱団を集めやすかったことが挙げられるのだと言う。すなわち、ウィーン国立歌劇場合唱団、ウィーン学友協会合唱団、ウィーン少年合唱団、そして8人の独唱者(ルチア・ポップ、ヘザー・ハーバー、アーリーン・オジェー、イヴォンヌ・ミントン、ヘレン・ワッツ、ルネ・コロ、ジョン・シャーリー=カーク、マルッティ・タルヴェラ)である。

ショルティはいつものように血気盛んに指揮をして、圧倒的なスケールを物凄い熱気でドライヴしている。録音がデジタルだったら、と思う。ライヴさながらの尋常ならざる起伏が、ちょっととらえきれていない。むしろ静かな局面で、この演奏の真価は感じ取れる。ウィーン少年合唱団の透き通る歌声は、この録音のもっとも素晴らしい特徴のひとつだ。

第1楽章と第2楽章に相当する第1部はラテン語で歌われる。ただでさえ大きな規模をさらに大きくしているオルガンがいきなり鳴り響き、「来れ、創造主なる聖霊よ」と歌われる。以後、何が何だかよくわからなくなるのだが、とにかく第1部は、オラトリオかミサ曲のような、とても賑やかで祝祭的な音楽である。

一方、第3楽章と第4楽章にあたる後半の第2部は、より変化に富み多彩である。冒頭オーケストラのみで、夜のしじまを歩くような雰囲気に囚われる。時に起伏が訪れ、第9交響曲で聞かれるメロディーも登場する。合唱が入ると夜の波止場は澄んで厳かとなるが、やがて突如としてバリトンの歌声が響き、さらには少年合唱が登場すると、明るくメルヘンチックな陽気に誘われる。このあたり、この曲の味わいが一気に増す。ドイツ語の歌詞で「ファウスト」の最終シーンが歌われるのだ。

混成合唱と独唱も加わって、曲調は天に上るように崇高で美しく、安らぎと幸福に満ちた曲となってゆく。もしかしたらマーラーの書いた最も美しい曲かも知れない。最後は全員が参加して、圧倒的なコーダとなる。全部で80分程度の長さ。初演時にはヨーロッパ中の知識人が詰めかけたと記録にはある。

ショルティのマーラー全集は、アナログ時代のものとしては最高峰だろう。一方、私が最初に聞いたテンシュテットの演奏は、闘病中にあったこの指揮者の渾身の演奏で、今もって評価が高い。バーンスタインは新しい録音を第8番のみ残して世を去った。このため全集では1975年のザルツブルク音楽祭ライブが採用されている。この演奏はまだ聞いたことがない。デジタル録音された最近の演奏では、何といってもブーレーズの演奏に惹かれる。シュターツカペレ・ベルリンを指揮しているのも興味深い。

2018年5月20日日曜日

モーツァルト:歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」(The MET Live in HD 2017-2018)

手元にカール・ベームがフィルハーモニア管弦楽団を指揮して録音した歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」のCD(3枚組)がある。言わずと知れた本曲の決定版と称されるものだが、その輝きは半世紀以上たった今でもまったく色あせない。そればかりか、未だにこれまで聞いてきたどの演奏よりもよく聞こえる。これは不思議なことだ。

歌手の良さだけでこうなるとは思えない。歌手に限って言えば、以降に発売されたいくつかの演奏には優れたものが多い。スタジオ録音のアドバンテージも、この録音に特有のものではない。むしろ録音の古さという点で、このベーム盤は不利とさえいえる。にもかかわらず、ベームの演奏がいまなお輝きを失わないのは、それはんもうベームによる演奏であるから、ということに尽きるのではないか。

カール・ベームにしかできなかった自然体で、優雅な演奏は、古く良き時代の演奏とされる。だから近年はもっと新しい演奏をけけばいい、というわけで今となっては、別の演奏を薦める評論家も多くなってきた。私も他の演目ではそのように考えることが多いが、この「コジ・ファン・トゥッテ」に限っては、どうもこのベーム盤以外に相性の合うものに出会うことがない。

前置きが長くなったが、今回久しぶりに聞いたMET Line in HDシリーズの今シーズン8回目の演目は、モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」の新演出であった。この公演をどう感じ、どう評価するかについて考えるのは、なかなか大変なことだ。その理由は、これはこれで一つの「コジ」の今風な世界を表現することに成功しているにもかかわらず、かつての古風な味わいが、もしかしたら感じにくくなっているという点に戸惑いを覚えるからに他ならない。

演出はフェリム・マクダーモットという人。指揮がデイヴィッド・ロバートソン。以下、フィオリディリージ(姉)にアマンダ・マジェスキー(ソプラノ)、ドラベッラ(妹)にセレーナ・マルフィ(メゾ・ソプラノ)、グリエルモにアダム・プラヘトカ(バスバリトン) 、フェランドにベン・ブリス(テノール)、デスピーナにケリー・オハラ(ソプラノ)、ドン・アルフォンソにクリストファー・モルトマン(バリトン)。ケリー・オハラはミュージカルの歌手で、イタリア語でこの小姓役をこなしてはいるが、あの小憎らしい機知に富んだ利発さを感じることは少ない。真面目なモーテルのハウスキーパーである。

最も心に残ったのは、ドン・アルフォンソを歌ったモルトマンで、安定していて艶のある声は、フィガロなどにも向いていると思う。女声の姉妹は、共通的な声と、やや異にする性格をどう表現するか、とても注意深く選ばれているとは思うが、そのように考えれば考えるほど特徴がつかみにくい。二人の夫役もまたしかりである。歌声においては、欠点はなく、みな素晴らしいと言えるが、誰かが突出しているわけでもない。それがこの重唱だらけの歌劇の難しい点かも知れない。

結局のところ今回のステージの評判は、これが新演出であることに尽きるだろう。その内容は専らミュージカルを意識したもので、舞台は1960年代のコニー・アイランド。序曲が始まると舞台に設けられた玉手箱の中から道化師たちが次々と登場。彼らはみな英単語の書かれたカードを持っており、その組み合わせの文章でこの作品のテーマが予告される。序曲はオーケストラ音楽に耳を傾け、気持ちを舞台に合わせていくための時間と考えていると、意表を突かれる。早くも舞台では音楽に合わせたパフォーマンスが演じられているからである。このような演出は最近非常に多いが、今回は特に序曲を味わっている余裕がない。

舞台には遊園地とそこで人々を楽しませるサーカスの一団・・・蛇使いや炎の魔術師、剣を飲み込む道化などが登場。コーヒーカップや回転木馬も登場すれば、背景には観覧車のシルエットも映し出されている大変カラフルで動きが多い。言ってみれば読み替え演出のひとつだが、どちらかと言えば表面的で、心理の内面に踏みこむことのない保守的な演出であるとも思える。

港町ナポリののんびりとした光景と、そこで交わされるコミカルでたわいない会話・・・この「コジ・ファン・トゥッテ」のそもそもの持ち味は素朴なものだと思う。それを評論家は、自由を得た市民社会の到来と結びつけ、女性の人権に照らして蔑視されていると嘆くのは、そのこと自体が教条主義的な評論に影響され過ぎているのではないだろうか。けれども昔風の演出には新鮮味がなくなってきており、そのままでは3時間余りのこのストーリーを楽しませるだけの集中力を保持しえない、と今の演出家が考えるのも無理はない。

だからこそ私は、ベームのCDで聞く純音楽的な「コジ・ファン・トゥッテ」から離れることが出来ないのかも知れない。すなわち、そもそも荒唐無稽な舞台を今風のアレンジに置き換えたところで、所詮テーマは変わらず、音楽はひたすらモーツァルトそのものである以上、余計なことはやめて音楽に集中すればいい、という考え方である。私の「コジ・ファン・トゥッテ」に対するアプローチは、そういう意味で新しい境地に達することに失敗していることを白状している。その点は認めざるを得ないのだが。

なお今回の指揮のロバートソンは、大変な充実ぶりであった。それだからこそ、あまり凝った舞台にとらわれることなく、音楽を楽しめるものであれば、それでよかった、などと考えてみたりする。モーツァルトが描こうとした普遍的な人間心理は、どう表現されても同じである。むしろ音楽の豊かさに身を委ねていたい。そういうしっとりとした演奏は、古いCDでしか聞くことのできないものなのかもしれない。

2018年5月9日水曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第907回サントリー定期(2018年5月8日、サントリーホール)

東フィル定期の「フィデリオ」(演奏会形式)について書き記すにあたり、どうしても触れないわけにはいかない点は、序曲に「レオノーレ」第3番を取り上げた理由だろう。指揮者のチョン・ミョンフンはプログラム・ノートの冒頭で、「フィデリオ」の深遠な音楽の魂はすべて、「レオノーレ」序曲第3番に集約されているからだと、述べている。そして言葉が思いつかないほどの感動を味わうことになったこのたびの演奏を聴き終えた今、そのことを心の底から実感している。

冒頭の第一音から、いつも聞くオペラの序曲とは違った緊張感が感じられ、一気にベートーヴェンの世界に引き込まれていった。弦楽器によって主題がおもむろに奏でられるとき、そこには何かとんでもないエネルギーが、ドラマの中心に渦を巻いているように感じられた。まるで今回の演奏は、オーケストラが主役であることを主張するように、丁寧で情熱的な序曲が、私を、客席を釘付けにしていった。

ただそれでも、舞台にヤキーノ役の大槻孝志(テノール)とマルツェリーネ役のシルヴィア・シュヴァルツ(ソプラノ)が登場し、第1幕が始まった時は、まだ今回の演奏が特別なものになるとは思っていなかった。チョンも自ら拍手を促し、アリアの合間には休止を挟もうとした。台詞は多くが省略されているし、歌手は出たり入ったりするので、どこで拍手をしていいかわからない。そういった気まずさは、しかしながら最初のわずかの間だけで、以降の指揮は一切の拍手を挟む余地を残さず、一気に最後まで突っ走った。

音楽は集中力を欠かすことなく総じて速い。かといって音楽的なフレーズは十分で、その感覚はクラウディオ・アバドのような洗練さと、スポーツ感覚を併せ持つほどにしなやかで、それでいて音楽性に富んでいる。チョンはジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者だから、そのあたりの歌わせ方が上手いのか、などと納得する間もない。

今日の公演前半の白眉は、レオノーレを歌ったマヌエラ・ウール(ソプラノ)である。彼女は男装して刑務所に忍び込む間は、黒っぽい衣装を着ていたが、長大なレチタティーボとアリア「人でなし!どこへ行く気?」では、その声を2階席後方にまで轟かせ、強靭な意志を持つ女性としての心の動きを、身震いしそうなほど見事に表現した。

彼女があまりに素晴らしいので、ロッコを歌った大柄なフランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ(バス) でさえも目立たなくなってしまうほどだが、その声は貫禄があるうえに上品でもあり、どう考えても刑務所長ドン・ピツァロを歌ったルカ・ピサローニ(バス)を大きく凌駕していた。年齢的にもピサローニの方が若く細身で、よく考えてみると若手エリート官僚とたたき上げの担当者のような関係を彷彿とさせる。ピサローニはやや力不足にも思われたし、神経質にも感じられたことが、かえってそういった印象を強めたのは面白い。

チョンはオーケストラを一気果敢にドライブし、すべての楽器のセクションが集中力を絶やさず、音楽に無駄がない。第1幕を終わった時点ですでに8時半を回っており、定期演奏会の中では破格の長さだが、そういう感覚を生じさせない。

第2幕の冒頭でいよいよフロレスタンが登場。往年の名歌手とも言えるペーター・ザイフェルト(テノール)である。彼は冒頭から舞台に立ち、牢獄の暗鬱とした不気味な光景を表現するオーケストラの音に注意深く耳を傾けていたが、その姿勢には何かを感じさせるものがあった。歌わないときから彼の存在感は際立っていた。そして一声「おお神よ(Gott!)、何という闇だ!」を叫んだ時の、鳥肌が立つほどに圧倒的で、美しくも力強い歌声に、私は全身がしびれた!

声というものがこんなにも説得力を持ち、演奏会のすべてを決するものかと思った。彼はオーボエの旋律に乗って朗々と、長いアリアを歌う時の愉悦に満ちた喜びを、一体どう表現したらいいのだろう?ベートーヴェンの音楽が、止めどもなく流れてゆく。「フィデリオ」のもっとも美しい音楽は、同時にベートーヴェンの神髄そのものと言える。物語として低レベルと言われながら、どうして「フィデリオ」が世界中のオペラハウスで今でも人気があるのか?その答えは、この作品がベートーヴェンの作品だからである。最も幸福に満ちた音楽が「レオノーレ」序曲に集約されていると語るチョンの言う通り、ここからの展開は明るさが、次第に勢いを増してゆく。

第2幕の終盤にかけての盛り上がりは、東京オペラシンガーズの迫力に満ち、一糸乱れぬアンサンブルが加わると、唖然とするほどの力を持ち、まるで戦車のように舞台から押し寄せてくる。絶え間なく溢れる自由のエネルギーと愛への賛歌は、この作品が流行りの救済劇などという二流の仮面を脱ぎ捨て、大いなる人間賛歌へと変貌を遂げる。その有様は、ベートーヴェンにしかできないものだと確信する。

ベートーヴェンがこの作品で表現したかったのは、ありふれたオペラのテーマとは次元を異にする。だから「フィデリオ」は特別な時に演奏される。第2幕の終結部、第九の終楽章以上の破格とも言える音楽である。私はマーラーが始めた、「レオノーレ」序曲第3番の挿入が、チョンの言うように理解できないものに初めて思えた。最後の大合唱は、最後に登場する長官ドン・フェルナンドを歌う小森輝彦(バリトン)を加えた主役6人の声でさえ聞こえにくい程の爆発的フィナーレとなり、最高潮のフォルッティッシモになっても破たんせず、一気にほとばしる様は、圧巻の一言に尽きる大名演だった。

会場がどよめき、ブラボーが乱れ飛ぶ。東フィルの定期はほとんど来たことがなく、チョンの指揮も年末の第九ただ一度だけという経験だったが、私は指揮によるところの大きい今回の演奏会に、惜しみない拍手を送りながら、ちょっと考えを改めなければと思った次第である。

今月は奇しくも新国立劇場で新演出の「フィデリオ」が上演される。こちらは東フィルではなく東京交響楽団だが、同じ劇場で競演する二つのオーケストラの聴き比べとなる。舞台の予習を兼ねて聞きに行ったコンサートだが、これ以上望めないほどの名演に接してしまった。もしかしたら舞台上演がつまらない結果に終わることにはならないか、今から少し心配なほどである。

2018年5月6日日曜日

交響楽団はやぶさ第3回演奏会「宇宙への招待」(2018年5月6日、オペラシティ・コンサートホール)

息子が地元の小学校の音楽発表会でホルストの組曲「惑星」から「木星」を演奏し、随分気に入ったようである。彼は他にスーザの行進曲が気に入っているくらいで、ほとんどクラシック音楽には関心を示さないが、「木星」だけは演奏会で聞いたみたいなどという。だが「惑星」全曲のコンサートはたまにあっても、「木星」だけを取り上げることはまずない。だから、これはいつまでたっても機会がないとあきらめていた。

ところが別のコンサートでもらってきた大量のチラシの中に、「木星」だけをプログラムに載せたコンサートに目が留まった。何でもアマチュアのオーケストラの演奏会で、地球と星空、それに国際宇宙ステーションが描かれた写真とともに「宇宙への招待」などと謳われている。どうせこんなコンサートしかない、と思って見過ごしていたら、息子は行ってもいい、などと言いだす。ゴールデンウィークの最終日、5月6日は予定がない。妻も行くと言う。それでチケットを検索してみたら、まだまだ余裕があるではないか。S席でも4000円で、アマチュアであることを考えれば、少し高い気もするところである。

演奏家の団体名を「交響楽団はやぶさ」という。日本の人工衛星プロジェクトにちなんで名づけられたようだが、利害的な関係はないようである。ただ、第3回目となる今年の演奏会は、JAXAすなわち国立研究開発法人宇宙航空研究開発機構が協賛している。そしてコンサートには宇宙飛行士の古川聡氏が特別講演を行うことになっているという。指揮は曽我大介で、ブザンソンでも優勝したプロの指揮者だから、これは結構本格的なオーケストラだろう。

というわけで、3人分の席を購入し、オペラシティ・コンサートホールへ出かけた。会場には多くの家族連れや、楽器を手にした学生が大勢つめかけ、たいそう賑やかにに並んでいる。何でもこのはやぶさなるオーケストラは、全国の医歯薬系の学生が中心となったオーケストラだったのである。

招待だろうが、親類だろうが、とにかく会場は満員である。花束贈呈の列には長い行列ができており、いつもとは違う雰囲気にのまれながら開演を待った。ところが、その音楽はアマチュアとしては最高水準の、つまりは何十年か前の日本のプロのオーケストラ水準の出来栄えであったばかりか、アマチュアならではの熱演ぶりに圧倒された2時間半を過ごすことに なろうとは予想もしていなかったのである!

プログラムの最初はジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ」組曲で、最近では日本ハムの清宮選手が登場する曲として知られている。舞台に並んだ演奏家はおそらく100人以上、弦楽器のセクションはあまりに後ろの方まで並んでいるものだから、指揮者が登場するのもやっとの狭さである。丁寧なチューニングが終わると登場した指揮者は、何と緑色のペンライトをかざし、それを指揮棒にして一気に冒頭を奏で始めた。

おそらく何度も練習を繰り返したであろうオーケストラからは、ブラスのセクションもまあまあで、これはアマチュアとしては十分聞ける演奏。弦楽器もそりゃプロに比べれば薄く感じられるが、そこは人数でカバーしている。なかなか決まった感のある演奏が終わると、盛大な拍手が 鳴り響いた。私も大きな拍手をしたが、よく見るとまだ曲は終わっていない。組曲としてすべて演奏されることになっている。それで再び静かに始まった第2曲以降、なかなか新鮮な味わいであった。

オーケストラが入れ替わる間に登場した司会の女性は、主催団体の代表のようで、ここで宇宙飛行士の古川聡氏を紹介。制服姿で舞台にひとり現れた彼は、舞台上部に掲げられたスクリーンを使って宇宙開発に関する講演を行い、質問にも答えた。ここは音楽とは関係ないが、なかなか興味深いものであった。会場には医療関係者も多く、専門的ではないにしろ、素人向けでもない内容。最後にホルストの組曲「惑星」から「木星」を演奏して20分間の休憩となった。

オーケストラの大半が入れ替わったような印象だったが、実際にはそうでもなかったようだ。けれども演奏の出来栄えは、後半において大変良くなった。いや実際には前半もそれなりに良かったので、後半はもしかするとプロ顔負けの演奏だったと言うべきか。

リムスキー=コルサコフの交響組曲「シェヘラザード」は、ソリストの活躍する美しい曲だが、コンサートマスターやオーボエ、フルート、バスーンのソロなど結構な出来栄えで感動的。楽団にはそれなりにエキストラがいるのでは、などと勘ぐったものの、プログラムに記載された団員のリストを見ると、ハープなど数人を除いて皆学生である。ただでさえ入るのに難しい有名な大学の医学部に在籍しながら、これだけの楽器を演奏する余裕があるものだと感心するばかり。50の大学から集まった団員が、どのように時間をやりくりして練習をしたり、親睦を深めたりしているのだろうか、興味深い。何せ臨時編成のアマチュアとは思えない水準である。

そういえば宇宙飛行士の古川氏も医師であり、そしてまた宇宙を志した人物である。古川氏と指揮者の曽我氏はともに私と同年代で、そのことも演奏を感慨深いものにした。そして第3楽章の「若い王子と王女」になると、一糸乱れぬ熱演になった。その様は、やはり音楽の魔法的な力が働いて、演奏する個人に魂が乗り移ったような時間であった。曽我のわかりやすい指揮者が、とても上手かったと思う。例えば第2楽章の「ガランダール王子の物語」後半、打楽器が入って来るあたりからはテンポを若干早くして、気持ちを寄せ集めてゆく。けれどもそれに応えるだけの技術的な水準をクリアしているから、ということが前提にあることを忘れるべきではない。

演奏が大団円を迎え、静かにソロがテーマを演奏し終えると、しばしの静寂に会場が包まれた。誰も拍手をしない美しい瞬間が、このようなコンサートでも実現されたことは、限りなく嬉しく思う。拍手に応え、舞台上に団員全員が揃う。入りきらないブラスの何人かは、2階席右手にスタンバイ。ちょっとしたパフォーマンスのあと「スターウォーズ」からの終結部を繰り返す指揮者。最後のフレーズをフォルティッシモのまま長く引き伸ばした時には、もう待ちきれない拍手がコーダに被った。

音楽を演奏すること、聞くことの喜びに満ちた感動的なコンサートが幕を閉じると、初夏の長く陽気が続いた今年の黄金週間も、とうとう終わってしまったという虚無感に襲われた。降り注いでいた陽光も陰り始め、突風が吹き付けるビルの谷間を急ぐ。とうとう明日からは本格的な雨になるらしい、と天気予報は告げている。

2018年5月4日金曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第699回定期演奏会(2018年4月27日、サントリーホール)

ピエタリ・インキネンという1980年生まれの、従って若干38歳のフィンランド人指揮者は、2008年以来時折日フィルの演奏会に登場していたようである。その中にはブルックナーやワーグナーのレパートリーも多かったようだ。だから一昨年の2016年に首席指揮者に就任した後にも、しばしば演奏会に登場していたのは知っていた。だが、今回の演奏を聞くまでは、ほとんどこの指揮者を知らなかった。

オーケストラにとってワーグナーという作曲家もまた、本来はなかなか演奏する機会のない作曲家なのかも知れない。特にオペラを日常的に演奏する団体でない限り、そのレパートリーにワーグナーが含まれることはまずない。しかしプロの音楽家にとって、ワーグナー音楽の独特の世界を表現してみたいと思うのは当然のことだろうと思う。音楽家ならいくつかの有名な前奏曲や、聞きどころを集めたCDなどを聞いてきているだろうから、その音楽を自らの腕で表現してみたいと思うはずだ。

インキネンという指揮者は、ワーグナーの作品をよく取り上げて来たようだ。その中には演奏会形式で、楽劇の一つの幕をそのまま演奏するという形態もあったと知った。オーケストラとしては、評価の高まるワーグナーの演奏を、この若手フィンランド人指揮者とともに演奏することに、徐々に慣れてきていただろうし、信頼関係のようなものも成就されていたのだろう。

さて、このたびのオール・ワーグナー・プログラムは、私が東京・春・音楽祭で楽劇「神々の黄昏」の、大変な名演奏を聞いた直後に知った。よく見るとたった二週間後のことではないか。私は大急ぎでチケットを買おうと思ったのである。なぜならこの演奏会の後半は、マゼールが「ワーグナーの音を一音も付け足すことなくつなぎ合わせた」ニーベルングの指環の音楽で構成される「言葉のない指環」という作品が演奏されるからだった。

ところがその公演は、1年後の同じ月、すなわち今年2018年の4月のことだったのである。アナウンスされてから私はチケット発売日を待った。そしてとうとう今年、2018年の春が来て、私は無事コンサートのチケットを手に入れることができた。しかも前日の購入でB席であった。

会場に着くと空席が目立ち、係の男性も、どうか前の方にお座りになって、などと案内している姿もある。二日連続のコンサートなので、定期会員の中には来ないか振り替えた人も多かったのかも知れない。けれどもゴールデンウィーン前の週末に、少し寂しいとも思った。そしてその思いは演奏が始まると、確信に変わった。これほど見事な演奏を聞き逃しているのは、何ともったいないことだろうか、と。

プログラムの前半は、歌劇「タンホイザー」序曲と、「ローエングリン」から第1幕、そして第3幕への前奏曲を演奏した。いずれもミスのない安全運転の演奏だったと(今となっては)思うが、あのワーグナーのオーケストラを久しぶりに聞いているかと思うと、感動がこみ上げてくる。サントリーホールの音が素晴らしいのと、2階席の前方で聞く音の美しさもあって、私は誘った友人に「な、いいだろう?」と話しかけた。彼はクラシック音楽に興味はあるようだが、実際にはほとんど知らないのだ。

オーケストラを実演で聞く素敵な時間を、私はこよなく愛している。そのことを如実に感じさせる演奏会を選んで出かけている。もちろん外れる時もあるが、音楽だから仕方がない。どういう演奏になるかは、出演者とリスナーとの偶然なる出会い、相互関係で決まる。今日の日フィルの聴衆は、いつものように高齢者が多く、70%程度の入りであったが、醒めた中にもマナーは良く、私はどっぷりと作品につかることができたと言ってよい。

マゼールが編曲した「言葉のない指環」を私は作曲者自身の演奏で聞いている。何年か前のN響の定期だった。NHKホール3階席の中央で、私は何度目かの巨匠の奏でる芸術的な指揮に大いなる感銘を受けたものの、そこは若干音響効果も悪く、そして初めて聞く編曲に少々の戸惑いがあったのも事実である。たとえばこの曲の前半は、「ラインの黄金」に始まり「ワルキューレ」を経て「ジークフリート」に至るまでのダイジェストだが、マゼールらしいショーマンシップが発揮された、たいそう盛沢山な音楽であるために、ひとつひとつのシーンはあっという間に過ぎ去り、ちょっと短絡的に編集しすぎではないかと、残念な気持ちになってしてしまう。ここはもっと感動的な部分なのに、というわけである。いわば名場面集を見ているようで、プロ野球ニュースや映画の予告編のように、メロディーが次から次へと現れては消える。

マゼールは、曲の長さをCD一枚に収まる長さとして70分程度としたようだ。だが、音楽の再生メディアとしてのCDが過去のものになりつつある昨今、これは余計なことだったと思う。一晩のコンサートを前後半に分け、もう少し長い120分程度にすればよかったのではないか、そうすれば「ラインの黄金」から「ジークフリート」のハッピー・エンディングまでももう少しゆとりをもって楽しむことができたのではないか、などと余計なことを考えた。

オーケストラはなかなか良かった。いやそれどころか、あの豪華な金管セクションも冒頭、許容される程度のミスがあったほかは、音楽を邪魔しないばかりか、決まるところは決まった。木管の安定感は音楽に浸るには充分であり、対向に配置された弦楽器からは、艶のある堂々としたワーグナーが流れてくる。これは舞台では経験できないことで、オーケストラがそのままストレートに響くワーグナーは、私は大好きである。

インキネンは速めのテンポで一気に流れを進めるが、そういうところがいいと思った。往年のファンは、少し物足りないかも知れない。でも今風のワーグナーの、颯爽としているのが私の好みだ。そして次々と出てくる有名なメロディーは、後半の「神々の黄昏」において十分に聞きごたえのある作品となってゆく。マゼールはやはり「黄昏」に重きをおいて作曲を進めた結果、前半を少し飛ばさざるを得なかったのではないだろうか。

会場が静かに聞き惚れている。「ジークフリートのラインへの旅」に始まる「神々の黄昏」は、聞くべき部分がすべて出ていると思う。そして名人芸的な編曲は、「ジークフリートの死」で最高潮を迎え、「ワルキューレの自己犠牲」まで続く。「ラインの黄金」の最初のメロディーに回帰する時、私はもうオーケストラが完全なる一つの楽器に思えて来た。目を閉じて聞き入る音楽が、消え入るように鳴り止んだ時にも、誰一人として拍手をする者はなかった。それは十秒以上、いや体感上はもっともっと長く感じられた。心を打たれ、誰もが音を一切立てることのない時間は、見事に長く経過し、それは奇跡のような時間であった。静寂もまた音楽の一部である。そのことが実感できた。

インキネンは何度も舞台に登場し、各楽器の奏者を順に指示して拍手喝采を浴びるようにしている間、私は目頭が熱くなるのを抑えることが出来なかった。久しぶりに聞くワーグナーは、私を陶酔の時間へと導いた。日フィルの定期は数年に一度程度しか来ることがない。だが若い奏者が増え、水準も上がっているように感じる。だからもう少し頻繁に来てもいいなと思った。蛇足だが今夜ソロ・チェロを弾いていた男性は、私の高校の後輩であることを最近知った。急に身近なオーケストラに感じられた当夜のコンサートであった。

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同...