2026年4月11日土曜日

ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98(カルロス・クライバー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

ブラームス最後の交響曲である第4番ホ短調は、彼の最高傑作であることに、おそらく疑う余地はないだろう。音楽的な知識をさほど持ち合わせていなくても、あるいはブラームスの本質を知らない人が聴いても、そう感じさせるだけの力を持っている。無駄のない骨格、ロマンティックで豊穣な響き、緻密にして多彩に変化するリズムやハーモニー。どの側面から見ても完成度は申し分なく、演奏を変えて聴いても常に味わい深い。後半の楽章に至っては、興奮を禁じ得ないほどである。

そのような曲だけに人気も高く、古今東西の名演奏・名録音は枚挙に暇がない。私がクラシック音楽を聴き始めた頃、我が家には何枚かのレコードがあった。思い出すままに記すと、フルトヴェングラー、トスカニーニ、セル、クレンペラーなどなど。そこに当時の新盤、バーンスタインのウィーン・フィル盤も加わった。知人の家に行けば、さらにS=イッセルシュテット、カラヤン、ワルター、あるいはケルテスの名盤もあり、私はそれらを広い居間で聴かせてもらったのを覚えている。

同じ曲を、演奏を変えて何度でも聞く。クラシック音楽の楽しみのひとつは、この「聴き比べ」にあると言える。それには一定数のディスクが必要であり、過去の名演奏を一通り網羅していることが望ましい。でないと、より詳しい人からは軽く見られるのが落ちである。「もっといい演奏があるのに、この人は知らないのだな」という、軽蔑をもにおわせる無言の視線が注がれる。クラシック音楽とは、このように恐ろしい趣味でもある。

さて、そのような我が家の「ブラ四」(通はこう呼ぶ)コレクションに、また一枚のLPが加わった夜のことを、私は忘れることができない。ちょうどデジタル録音が始まった頃、ドイツ・グラモフォンの黄色いジャケットに、どこかニヒルな表情の顔写真。誰だ?この人は。私の父は、まだ中学生だった私がすでに床に就いているにもかかわらず、自宅のステレオ装置を鳴らした。

一家7人が暮らす昭和の木造住宅である。ふすま一枚を隔てただけの隣室にも、その音はダイレクトに届いた。しかも大音量で。そこで聴こえてきたのは、ブラームスの交響曲第4番。だが、私はこの曲をまだあまり知らなかった。多くの人がそうであるように、私は第1楽章冒頭の、前奏なしで始まる主題だけを知っていた。よく聞いていたのはワルター晩年の演奏で、それはとてもゆったりとしていて、ロマンに満ちた、まるで映画音楽のような演奏(と私には思えていた)だった。

だが、父が再生した演奏は、そのようなものではなかった。音楽が始まるや否や、ぐいぐいと引き込まれていく。テンポはかなり速く感じられた(実際にはそれほどでもないのだが)。第1楽章の途中で私は興奮状態に置かれ、目は冴え、それどころか布団の中で汗ばむほどに高揚していった。

第2楽章の静かなメロディーでさえ、集中力を失わない緊張感と生き生きとしたバランスに圧倒されたが、第3楽章の冒頭が鳴り響いた瞬間、まるで最終コーナーを回った競走馬のような疾走ぶりに、私は完全に放心状態となってしまった。

この演奏こそが、当時の最新盤であったカルロス・クライバーのものだった。カルロス・クライバーはまだ若手の部類に入っていたが、すでに「伝説の指揮者」と呼ばれていた。何しろレパートリーは極めて少なく、実演も録音も滅多にお目にかかれない。しかし、ごくたまに現れては歴史的名演を残す。それまでにリリースされていたのは、ウェーバーの歌劇「魔弾の射手」(デビュー録音)と、ベートーヴェンの交響曲第5番、第7番くらいであった。

しなやかでありながら圧倒的な集中力。類まれな興奮と、まるで鍛え抜かれたアスリートが放つような生物的な美しさ。それは独特の指揮姿にも表れていたが、当時のファンにはそれを知る術がなかった。知られていたのは、あの巨匠エーリッヒ・クライバーの息子であるということくらいである。後に知ったことだが、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」、ヴェルディの歌劇「椿姫」、あるいはシューベルトの「未完成交響曲」といった、完成度の高い名曲ばかりを取り上げていた。そのクライバーが選んだブラームス作品が、この第4交響曲だったのである。

ウィーン・フィルが顔を紅潮させ、身を乗り出すようにして熱演を繰り広げている様子が、スタジオ録音からも手に取るように伝わってくる。そのようなことは滅多にない。彼は100%の完成度でなければ音楽を世に出さないのである。その職人気質にウィーン・フィルのメンバーは心底惚れ込み、以後、さまざまな問題があってもなお、この指揮者に熱い思いを寄せ続けた。それが後のR・シュトラウスの歌劇「ばらの騎士」やニューイヤー・コンサートの名演につながっていく。

第1楽章はソナタ形式で書かれている。この曲は19世紀の終わり頃に作曲されたにもかかわらず、どこか古風な印象を残す。その最大の理由は、この冒頭のメロディーにあるのではないだろうか。ヴァイオリンが休符を挟んで上下の音を行き来する。専門的には3度の下降、6度の上昇。このモティーフは楽器を変えながら幾度となく現れる。分離と融合が自然に流れる心地よさ。ロマンティックでありながら、どこか理性を失わない確固たる構造を持つ。そこにブラームスの精神性が感じられる。

第2楽章では「フリギア旋法」という用語が登場する。私の知識では十分に理解できているとは言えないが、ピチカートが印象的である。ホ長調に転じて明るさを感じさせつつ、ゆったりとしたアンダンテが続く。単純でありながら複雑な世界である。

さて第3楽章は、トライアングルが鳴る非常に印象的な楽章である。ブラームスの交響曲における第3楽章は、いずれも個性的である。第1番の切れ目のない構成からすでにそうであり、第3番には単独で取り出したくなるような美しい旋律がある一方、この第4番では絢爛で豪快な性格を持つ。興奮に満ちていくこの楽章を、クライバーは一気呵成に畳みかける。

そして終楽章である。構造は極めて複雑とされるが、理屈を考えながら聴く必要はないだろう。シャコンヌ(パッサカリア)という、バロック時代に由来する技法が用いられているというが、決して古風なだけの音楽ではない。むしろ斬新で劇的である。古典的な骨格を保ちながら、その内実は極めてロマン的であり、しかも革新的である――それこそが最終到達点としてのブラームスの魅力である。

最後に一言。この曲を「人生の秋」を感じさせる、憂愁を帯びた作品とする見方がある。しかし本当にそうだろうか。ブラームスがまだ53歳の頃の作品であり、自ら「最高傑作」と認めていたものが、達観に基づく音楽であるとは私には思えない。この作品において彼は一つの頂点に到達し、その先へ進む必要がなくなったのではないか。これは最も完成度の高い、そして野心に満ちたブラームスの作品であると私は考える。カルロス・クライバーによる演奏は、その若々しさと情熱が、年を重ねてもなお漲っていることを示す、極めて斬新なものである。

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