クラシック音楽のコンサートにおける日本の聴衆は、礼儀正しく大人しい。特にコロナ禍に見舞われてからは、正しくマスクを装着し、ブラボーを叫ぶ人はいない。しかし、今回のコンサートは違った。我慢しきれず、自粛が呼びかけられたブラボーを発する人が少なくなかっただけでなく、終演と同時に立ち上がる人が多数。会場が興奮に満ち溢れ、会心の出来と思われた指揮者、オーケストラ、それに歌手たちが満面の笑みを湛える。東京交響楽団が音楽監督ジョナサン・ノットとともに上演したリヒャルト・シュトラウスの歌劇「サロメ」(演奏会形式)の類稀な大成功は、伝説的な名演として長く語り継がれるであろう。
その様子をここに書き記すことは、大変な労力である。全編に亘って交感神経が張り詰め、近代のドイツ文化が到達したある種の頂点は、丁度サッカーのドイツチームが超攻撃的な攻めを見せるように、私たちを圧倒する。だがそれだけではない。シュトラウスの音楽は精緻で、セリフのすべての物にそのモチーフが付けられている。丁寧にそのひとつひとつを押さえながらも、全体としては一つの流れを終始維持し、緊張が途切れることはない。全一幕の約100分は、そうだとわかっていてもあっというまに経過し、舞台に出入りする歌手の一挙手一頭側に目を凝らしながら、時折字幕を追う。
表題役はリトアニア人のソプラノ、アスミク・グリゴリアンである。彼女は細身の美貌でありながら、強靭な声を終始絶やさず、まさにサロメの当たり役と言える。登場したときは、確かに上手いと思う程度だったが、その声量と歌唱は次第に完成度を増し、さらにはそれを超えてどこまでも圧倒的に聴衆を引き付けた。「7つヴェールの踊り」に至るまでのヘロデとの丁々発止のやり取りは、聞いていても興奮する。踊りのシーンはオーケストラのみの演奏だったが、そこから終演までの歌唱は、鳥肌が立つほどだった。真っ赤な布をヨカナーンの頭部に見立て、その布をスカーフのように身にまとう演出は、猟奇的な生々しさを緩和する一方で、真の愛情に飢えた少女の心情を際立たせるに十分だった。
グリゴリアンの圧倒的な歌唱を支えたのは、他の3人の主役級歌手が、それに劣らず素晴らしかったからだ。すなわち、ヨカナーンを歌ったバスバリトンのトマス・トマソン、サロメの母ヘロディアスを歌ったメゾソプラノのターニャ・アリアーネ・パウムガルトナー、そして巨漢ヘロデ王を歌ったテノールのミカエル・ヴェイニウスである。ヨカナーンは井戸の中から歌うシーンでは、P席上段のオルガンの横にいて神々しく歌い、舞台に上がった時には人間味のある演技である。彼は頑なにサロメの欲求を退ける。
一方、ヘロデとヘロディアスの会話は、この二人の歌手が素晴らしいだけに圧倒的で、激しい夫婦喧嘩もシュトラウスの音楽で聴くと迫力満点。サロメの意地っ張りな態度は、母親譲りということだろうか。真の愛情を知らない親子は、ナラボートを自殺に追いやり、預言者ヨカナーンを処刑し、自らも死刑になる。近親相関と異常性欲が凄まじいエネルギーの中で交錯するオスカー・ワイルドの台本も、その前衛性が物議を醸し、長らく出版が禁じられた。だがシュトラウスは、さらに「エレクトラ」で前衛的手法を押し進めていく。
今回はコンサート形式による演奏だったが、このような演奏は予算の低減につながるため、昨今の流行りではある。オーケストラが舞台上にいるため、音楽の構造がよくわかり、よく聞こえる。半面、歌手の歌声がかき消されることも多いが、今回の上演ではその心配は吹き飛んだ。1階席前方で聞いていたこともあるのだろう。すべての声は直接耳に届く。歌手はむしろ演技を最小限に抑えることで、歌により集中することもできるという効果も生まれる。最近は舞台演出でもごく最低限のものしか置かないような、バジェット的演出が多いため、結局は想像力がいる。そう考えると、コンサート形式でのオペラも悪くはない。とにかく安いのがいい。ただ、「サロメ」は視覚的要素の強い作品だから、一度は舞台で見たいとも思った。
ブックレットによれば今回の上演には演出監修がいて、それは何とトーマス・アレン。彼はモーツァルトのドン・ジョヴァンニを歌っていたバリトン歌手で、私もよくビデオで見たが、何と彼は来日をしており、カーテンコールに登場した。カーテンコールの最中、指揮者ノットは終始興奮した笑顔で、今回のコンサートに大いに満足した様子である。何度も呼びもどされ、それはオーケストラが舞台から去ってもなお続いた。客席が総立ちのまま、何枚もの写真をスマートフォンに収めるのに忙しい。長いオベイジョンが終わって会場を出ると、雨が降っていた。気が付くともう11月も後半である。今年も残すところ、あと1ヶ月余り。コロナウィルスの非日常生活も、3年になろうとしている。
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