2022年10月26日水曜日

ヴェルディ:歌劇「ファルスタッフ」(東京フィルハーモニー交響楽団第976回サントリー定期シリーズ、2022年10月20日サントリーホール、チョン・ミュンフン指揮)

ヴェルディ最晩年にして最後のオペラ作品である歌劇「ファルスタッフ」は、これまで少し苦手で、CD などで聞いていてもどこか捉えどころがなく、歌が(重唱が多い)長々と続くだけの作品だと思ってきた(ワーグナーに似ている)。しかし、こういう場合、往々にして作品に真正面から向き合っていないことが多い。特に「ファルスタッフ」のような玄人好みの作品になると、その良さを体感できるような一定の技術的水準の名演奏に接することができない限り、その良さが伝わりにくい。

昨年、2022年の定期演奏会のラインナップを知った時、チョン・ミュンフン指揮による「ファルスタッフ」が目に留まった。この演奏会が最大の魅力に感じられた。なぜなら私は、数年前にベートーヴェンの「フィデリオ」を、やはり彼の指揮する同じ東フィルのコンサート(演奏会形式)を経験しており、その演奏は「フィデリオ」の素晴らしさを余すことなく伝え、今もって記憶に残る大名演だったからである。

会社での仕事を早々に切り上げ、満員の地下鉄に飛び乗りコンサート会場へと急ぐ日常が、久しぶりに戻ってきた。昼から忙殺される資料作りや会議などにストレスは高く、これをわずか1時間のうちにクラシック音楽向けの脳に切り替えるのは、なかなか難しい。

会場はほぼ満席。通常 P 席と称されるオーケストラ背面、すなわち舞台向正面の席は、おそらく合唱団が使うのだろう、黒い布で覆われていた。そしてオーケストラは、いつもより舞台後方にぎゅっと詰められており、さながらオーケストラピットのようである。その前に大きくスペースが設けられ、総勢10名もの歌手が出たり入ったりと忙しい。英国ウィンザー城を舞台としたコメディは、何やら小道具がいっぱい使われるが、それらはこの舞台にも用意されているようだ。

19時の開演とともに、オーケストラに引き続いて舞台に登場したのは二人の従者、バルドルフォ(大槻孝志、テノール)とピストーラ(加藤宏隆、バス・バリトン)、それに医師のカイウス(清水徹太郎、テノール)、さらには太鼓腹の巨漢ファルスタッフ(セバスティアン・カターナ、バリトン)である。

チューニングも終わって指揮者を待っていたら、舞台右袖から一人の掃除婦がホウキを掃きながら登場した。彼は居酒屋「ガーター亭」の主人であり、ファルスタッフに酒を注いだりしている。背が低く、いささか貧相な風貌、などと書くと大変失礼な言い方だが、その主人こそマエストロであった。前掛けを指揮台の下にしまい、前奏曲もなくいきなり第一幕の音楽が勢いよく流れてきた時、その明るくて力強いオーケストラの響きにあのジュリーニの名演を思い出した。チョン・ミュンフンは、そういえばジュリーニのアシスタントを務めていた指揮者なのだ。だが、チョンにとって「ファルスタッフ」は、初めて指揮する作品らしい。

ファルスタッフ役のカターナは、その風貌もぴったりのルーマニア人とのことだが、彼の経歴を見ると面白く、何とカーネギー・メロン大学で化学工学を専攻している。しかし歌声は、これほどファルスタッフにぴったりな歌手はいないと思えるような素晴らしさで、その声量は一頭上を行っている。

今回の歌手は、表題役のファルスタッフを除き、すべて日本人。その数は総勢9名である。この日本人歌手たちをどう選んで配役につけたのか、そういった裏方の仕事は、私のような素人には想像もできないが、彼らは全員甲乙がつけがたいもので、今回の演奏の水準が大変なレベルであることを示している。最初、女声陣の声が少し弱いなどと感じたが、それは時間を経ると次第に良くなった。

第1幕第2場では、それまでの男性4名に代わって、女性4名の登場である。ファルスタッフが同じ文面の恋文を授けるメグ(向野由美子、メゾ・ソプラノ)、フォード婦人のアリーチェ(砂川涼子、ソプラノ)、それにアリーチェの娘ナンネッタ(三宅理恵、ソプラノ)、さらにはおせっかいおばさんのクイックリー夫人(中島郁子、メゾ・ソプラノ)。この中では、クイックリー夫人が、その低い声と意地悪おばさんの風貌を生かして、とりわけ印象に残った。

今回の演奏では、丁度真ん中の第2幕第1場を終わった時点で、休憩となる。指揮台のそばに置かれていた丸テーブルや、そこに置かれている酒瓶など、小道具だけではあるがこのようなコメディのストーリーには十分である。チョン自らが演出した、とブックレットには記載されているが、なかなかの面白さで笑いを誘う。もちろん字幕もついている。

第1幕のうちに、残りの人物、すなわち富豪のフォード氏(須藤慎吾、バリトン)、ナンネッタの恋人フェントン(小堀勇介、テノール)も登場するが、もう誰が誰だかわかりにくい。舞台で見ていてもそうなのだから、音楽だけを聴いていると誰が誰と歌っているのか皆目見当がつかなくなる。舞台を見ても字幕を追わないといけないし、字幕に集中しすぎると肝心のストーリーがわからなくなっていく。

ストーリーは事前に大まかな予習を済ませ、会場では字幕を最小限に追いながら、目は歌手の動きに、耳は音楽に集中させるのがいいと思う。ここで演奏会形式の場合、オーケストラが舞台上に上がっていると、ピットに入っている場合と違って音量が大きくなる。劇場の上階で聞いていると、オーケストラの音が直接聞こえてくるのに似てはいるが、この場合は響きがデッドである。サントリーホールのような残響で聞けるオペラ音楽は、なかなか聴きごたえがあると思う。

休憩を挟んだ後半の見どころは、何といってもファルスタッフが洗濯籠に入れられてテムズ川へ投げ込まれるシーンである。そしてなんと、大きな籠が舞台に登場。ファルスタッフはそこへ入って歌う。これほどにまで演技が入るのは、演奏会形式とはいえなかなか例がないのではないかと思う。重唱は舞台空間を広く使って大変見事だが、それを支えるオーケストラが、やはりここでは前面に出ている。そのオーケストラは、舞台下の小空間から解き放たれて生き生きしている。

英国が舞台とはいえ、まるでイタリア人の日常会話をそのまま音楽にしたような作品である。だがそれもひと段落して、第3幕の妖精のシーンともなると、新国立劇場合唱団も加わって大いに見応えがある。レクイエムを彷彿とさせるヴェルディの真骨頂ともいうべき音楽は、まず合唱の男声陣が、次いで女声陣、さらにはフィナーレで全員が登場。もちろん舞台には10名の歌手がずらりと並ぶ。「世の中はすべて冗談」と歌われるフーガは、次々と歌手に歌い継がれ、客席にまで訓告されるという手の込んだもの。このあたり、ヴェルディはオペラという劇場空間を飛び出して、丸で人生哲学を語るかのように、しかしあくまで軽やかに描いて見せる。その鮮やかさ、そして音楽の重厚さ。人生は喜劇、というヴェルディの最晩年の境地が、興に乗った会話と洒落た音楽からほとばしり出る圧巻の大団円は、指揮者が手を挙げ、オーケストラが総立ちになって終了した。 

わが国では珍しいスタンディングオベーション。コロナ下で禁止されているブラヴォーを叫びたくなる気持ちをこらえて、満場の拍手が会場を包む。そして何とコーダの11重唱をアンコール!オーケストラが引き上げても収まらない拍手に応え、マエストロとファルスタッフが登場すると、総立ちとなっている客席からはさらに盛大な拍手が沸き起こった。

長時間でも飽きることはなく、昼間のストレスもどこへやら。非常に満足度の高い演奏会の終演は21時30分を過ぎていた。空腹の状態で帰宅しても何かお腹のなかがいっぱいになったようなコンサートだった。

(2年越しの腰痛の間、中断を余儀なくされた街道歩きを再開するにあたり、栃木県那須町芦野へ向かう朝一番の「やまびこ」の車内にて)

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