2015年2月11日水曜日

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」(The MET Live in HD 2014-2015)

ナチス時代の演奏会を写した古いモノクロ映画には、これでもかというくらいに楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の第1幕への前奏曲が流れる。フルトヴェングラーもカラヤンも、工場労働者を前に「ドイツの崇高な精神」を鼓舞する。この曲以上に、戦争という異常な政治状況に翻弄されたワーグナーの作品はない。それほどにまでこの曲は高揚感を高めるものなのだろうか。

大学の入学式で、大学の管弦楽団は冒頭どういうわけかこの曲を演奏したのも記憶に残っている。もっとも下手なアマチュアオーケストラだし、そこにいた多くの人がワーグナーなど知らないはずだから、拍手が起こるわけでもなく学長の挨拶が唐突に始まった。ドイツの職人気質が生む高い芸術性と精神性・・・そういったものを大学は尊重したかったのだろうか。でも私には少し違和感が残った。

初めてこの曲を聞いたのは、中学生の冬であった。今でも夏のバイロイト音楽祭の録音は年末にFMで放送されている(そのせいで当時私はバイロイト音楽祭を夏の音楽祭だとは知らなかった)。その年は確か、夕方から始って夜の8時台に終わるような編成だった。そしてその日は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。指揮は確かホルスト・シュタインだったと思う。私がラジオをつけたのは、もう終盤に差し掛かった歌合戦のところだった。何度もうねりながら高まっていく壮大な音楽に私は釘づけになり、ラジオのボリュームを最大にして部屋中に鳴らした。この曲には人の心を昂らせる麻薬のようなところがある。

その「マイスタージンガー」を私はニューヨークで見ている。1995年、METの舞台に立ったのは亡くなる2年ほど前のヘルマン・プライだった。彼はもともと低い体つきで、パパゲーノのような三枚目の役を得意としていたから、当然のことながらこの時の役はベクメッサーを歌ったと記録にある。ザックスはベルント・ヴァイクル。指揮はジェームス・レヴァインで、演出はオットー・シェンクであった。

このとき私は17時に会社を後にし、いつもより2時間も早く始まるMETの公演に急いだ。それでも開始は18時で、終わるのはもう夜半を過ぎていた。このとき猛烈な睡魔が襲い、第1幕はおろか第2幕もほとんど覚えていない。結構高い席で見ていたので、いびきが聞こえなかったか今でも冷や汗が出てくる。ところが、この同じ組合せの公演が今でもニューヨークでは続いているのだ。

今シーズンのMET Line in HDシリーズには、同じレヴァインの指揮、シェンク演出の舞台が再演されるのだ。レヴァインはMETでの34回目の「マイスタージンガー」だということだから、私が見たのもそのうちの一つということになる。そして第2幕の階段状になったニュルンベルクの中世の石畳を再現した舞台を良く覚えている。それと同じものが六本木TOHOシネマズのスクリーンに映った時には感無量であった。

全部で6時間にも及ぶワーグナー最長の楽劇を、一度は「ちゃんと」見なければと思っていた。「ちゃんと」というのはストーリーを把握して、という意味で、そのためには字幕は欠かせない。中断されることなく字幕と音楽に浸ることは、本場で公演を見てもできないというのがオペラの難しいところである(METではこの時から字幕サービスが始まったが、日本語はなかった)。そういうわけで今回の公演は私にとって、 うってつけの場となったのだが、ここでもまたあの睡魔がやってきた。第1幕の後半と第2幕の後半は、そういうわけで音楽だけを夢の中で聞いていた。

ハンス・ザックスはバリトンのミヒャエル・フォレ、ヴァルターはテノールのヨハン・ボータ。この二人の歌声は確かに素晴らしかった。特に第3幕の始めでは、「前奏曲」でも登場するあのメロディーが歌詞つきで歌われる。その詩がどのように出来上がっていくかを、ゆっくり時間をかけて楽しむことができる。エファを歌ったのはアネッテ・ダッシュで及第点の出来栄え、ベクメッサーは長身のバリトン、ヨハネス・マルティン・クレンツレ、以下、ダフィトにテノールのポール・アップルビー、マグダレーネにメゾソプラノのカレン・カーギル、ポークナーがバスのハンス=ペーター・ケーニヒ、コートナーがバリトンのマルティン・ガントナー。

レヴァインは車いす生活にになってから、特別の回転台に座ったままの指揮だが、音楽的な衰えを感じない。それどころか普通に座っていても疲れる長時間の舞台をこなすエネルギーは、一体どこから来るのだろうかと思う。久しぶりにオーケストラ・ピットが長時間映る。バイオリンのセクションに東洋系の顔が多いのに驚く。

120分にも及ぶ第3幕は睡魔に襲われることはなかったが、歌合戦とそれに向かうまでのやりとりは、ワーグナーが書いた人間喜劇の充実ぶりを示している。春が力をくれるから、若い時にはロマンチックな詩が書ける。だが夏が過ぎ秋になり、冬が到来してもマイスターなら高貴な詩が書ける。もうこの時点で飛び入り参加のヴァルターが勝利を収めることはわかっていた。ザックスは彼に詩の法則を教え、自らが年老いた職人としての気高い誇りとともに、彼に座を譲る。こういうあたりがこの劇の渋いところだろうと思う。そして若いということはつくずくいいなとも思う。出来レースとなった、ニュルンベルクの町のたもとで繰り広げられる歌合戦に、ザックスは高らかに職人気質が護るドイツ芸術を讃えて壮大な幕を閉じる。

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