ロシア最大の作曲家チャイコフスキーは一体何曲のオペラ作品を残しているのだろうか。手元にある「クラシック音楽作品名辞典」(三省堂)によればその数は11となっている。最も有名なのは「エフゲニー・オネーギン」で次が「スペードの女王」。だが有名なのはこのくらいで、辛うじて「マゼッパ」という作品名を知っているくらいである。そして最後の作品「イオランタ」は1891年の作品。1幕もののオペラである。
「イオランタ」は作曲から100年以上を経て実にMET初演という。だがその音楽はチャイコフスキーらしい叙情的なもので大変美しい。ストーリーはお伽話のように親しみやすくハッピーエンドである。舞台は南仏プロヴァンス。盲目の少女は父親に幽閉され、見ることがどういうことかもわからないまま大きくなった。人里離れた城にかくまわれ、近づいてきたものは処刑にされるとされていたのだ。
彼女は乳母や侍女たちに囲まれそれなりに幸せに暮らしていたが、光と言うものを見たことがない。「瞳は、涙を流すためだけにあるものなの?」と歌うあたりは痛切である。この盲目の少女イオランタをロシア出身のソプラノ、アンナ・ネトレプコが演じたのだから悪かろうはずはない。彼女は最近、この作品をCDでリリースしたばかりである。
この城にヴォテモン伯爵が訪ねてくる。彼は城(というよりは何か小さな庭のついた田舎の家)に入り、イオランタと知りあう。彼女の目が見えないことに最初は驚くが、彼女の心に打たれ、やがてイオランタもロベルトに思いを寄せていく。このあたりの展開は美しい。ヒロインがネトレプコであるなら、その相手はポーランド人のテノール、ピョートル・ペチャワである。このコンビは昨年、うっとりするような「エフゲニー・オネーギン」で共演しているし、今ではMETの(いや世界中の)ロシアン・オペラの名カップルである。
だが父親である レネ王(バスのイリヤ・バーニク)は、最後の望みをかけ彼女に眼の手術を行うことを決意する。ムーア人の医師ハキア(バリトンのイルヒン・アズィゾフ)は「治る保証はできない」といいながら、彼女に患者としての自覚と強い意志がないと治療はうまくいかないと告げるのだ。おおよそ病気と言うのは治す意思がないといけない、ということだろうと思う。けれども麻酔などないこの時代、別室に入って手術を受けるイオランタのことを思うと、やりきれない思いであった。
ヴォテモン伯爵はレネ王に「イオランタの目が治らなければ処刑だ」と言われるが、彼はそれほど強く彼女のことを思っている。そのことを理解するイオランタは、何が何でも治って見せる、と思ったのであろう。こうしてレネ王が描いた筋書き通りに二人の意志が高まり、そして手術は成功するのだ。
けれども簡単に話はおわらない。 彼女にはロベルト(バリトンのアレクセイ・マルコフ) という若い騎士にして許嫁がいて、レネ王は、処刑は免れたとしても結婚が許されないと言いだすのだ。ところがロベルトはヴォデモンの親友であると同時に、すでに結婚を誓った女性がいるという。丁度いいタイミングで尋ねてきた彼は王に婚約の解消を求め、それにかわってイオランタはめでたくヴォテモンと結ばれるのである。
ジードの悲劇「狭き門」のように、光を得た主人公は自殺などしない。そしていささかわざとらしいストーリーもチャイコフスキーの奇麗なメロディーに彩られると気にならないから不思議である。もちろん歌手陣が充実しているのと、指揮をするワレリー・ゲルギエフとの息がぴったりであるということも大きな理由である。ポーランド人の演出家マウリシュ・トリンスキーは、ところがどういうわけか、この作品をバルトークの歌劇「青ひげ公の城」と二本立てで上演することを提案したという。というわけであまりに奇麗な前半(だけでも二時間近くはあるのだが)が終わって休憩時間をとったあと、「どうしてこんな作品と一緒にしたの?」という感覚に見舞われることになる。イオランタが得た「光」は、青ひげ公の城に差し込む時には恐ろしい「光」となってしまう。だがその話は別に書くこととしよう。
2015年3月31日火曜日
2015年3月30日月曜日
読売日本交響楽団第546回定期演奏会(2015年3月27日、サントリーホール)

私は甥に音楽を実演で聞く良さについて3つのことを挙げた。まず自由に視線を動かして見たい楽器を見られるということ。CDでは奏者の表情は想像するしかなく、ビデオで見るオーケストラもサッカーの試合でボールばかりを追いかけるようなもので、 全体を見渡すことが難しい。主旋律が必ずしも明確でないクラシックの場合、これは結構重要なポイントだろう。
次にかなりの技術的水準にある人たちが何十人も集まって一生懸命練習した後一斉に音を鳴らすという限りない贅沢な瞬間。落語家の独演会でも何千円もする中、これほどコストパフォーマンスのいい興行はちょっと考えられない。もしかするとオーケストラはもっとも「安い」芸術なのかも知れない。
そして第3に、音楽と言うものの特性である一期一会という宿命・・・空気の振動は時とともに減衰する物理的法則に逆らうことはできない。どれほど素敵な音楽も、消えていく花火のように再現することはできないはかなさ。その場に居合わせた人にしかその体験を持つことはできないのだ。どんな音楽でも。
私はこの3つのことを今回ほど実感することはなかった。もしかすると私も興奮していたのかも知れない。だがこの日の指揮者、南アフリカ出身のジェラール・コルステンもオーケストラのメンバーも、満面の笑みをうかべて充実した演奏に満足した様子であった。そのことが手に取るようにわかった。もしかしたら客席が少し(いつも思うのだが読響の客は、N響の客よりも保守的で醒めている)乗りが悪い。いやそもそも満開の桜が咲く春休みの週末の東京で、7割程度の入りというのがショッキングである。こんなにポピュラーな演目なのに、である。
最初の歌劇「劇場支配人」序曲の生き生きとした出だしを聞いた瞬間から、私は今日のコンサートが「行ける」と思った。若い頃の小澤征爾を思い出すような軽やかで瑞々しい響き。それに少しビブラート控え目な解釈は、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」で真価を発揮した。すべての繰り返しを行い、人数を厳選したオーケストラからは、本場のオーケストラにも迫るような集中力とアンサンブルが実現された。第2楽章の小休止のたびにため息の出るような感覚にとらわれる。残響が空中に消えていくような感覚にしばし気を取られたかと思うと、第4楽章は一気にフーガで駆け抜ける。そう思えば中学生の頃何度この曲をレコードで聞いただろうかと思った。
十分に音楽を楽しんだと思った後で、シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」が始まる。舞台に勢ぞろいしたオーケストラは百人を優に超えているのだろうと思う。シュトラウスとマーラーはどんな時でも出かけてみたくなるが、今回の「英雄の生涯」は何とも気合いの入った演奏に思えた。プログラムによればこの演目は、東日本大震災の時にキャンセルを余儀なくされた時のものだそうだ。だから指揮者にも相当な思い入れがあったのだろうと想像すると胸が熱くなる。
管楽器やソロ・バイオリンの困難なメロディーが横溢するこの曲を演奏する我が国のオーケストラで、これほどにまで磨き抜かれ目立ったミスのない演奏もそう出会えるものではないだろう。 それどころが微に入り際に亘って音楽は精彩に溢れた表情を見せた。力強さと精密さを兼ね備えたその演奏は、できることならもう一度見てみたいと思ったが、それはできないというのが生のコンサートの宿命である。最後の管楽器のアンサンブルも見事に決まって、指揮者のタクトが下されるまでの数十秒を、誰一人として音を立てない静謐な時間が覆った。それはどこまでも続いていくように感じられた。
凡そ百年の時を隔てて音楽史に名を残す二人の偉大な作曲家の、さらにはその最も充実した才能を感じさせるふたつの偉大な名曲・・・「ジュピター」と「英雄の生涯」は、続けて演奏されたことでその時間的な隔たりを感じさせることとなった。おそらくそのことがこのコンサートのプログラムに込められたひとつの視点なんだろう、などということを話した。流行音楽とは違いどちらかと言えば頭で聞くクラシック音楽も、音楽である以上は感覚的なものに支配される。その理性と感情のはざまで、音楽を見ながら考える・・・その時間こそが生の演奏会の魅力である。そして「英雄の生涯」をはじめとするシュトラウスの限りなく豊穣で耽美的な時間は、現在聞くことのできるあらゆる音楽の中でも最高の美的感覚を持っている。モーツァルトの時代とはまた違った形の完璧な美というものとの対比、それはやはりこういうクラシック音楽の演奏会でしか聞けないレベルのものでもある。
2015年3月8日日曜日
オッフェンバック:歌劇「ホフマン物語」(The MET Live in HD 2014-2015)

だが不思議なことに前回の演出を覚えていない。そしてこの上演はまた初めて見るのではないかと思われるほど印象的であった。その理由は、何をおいても歌手の素晴らしさにあるのではないかと思う。主役のホフマンは、今もっとも注目すべきテノール歌手のヴィットリーオ・グリゴーロで、小柄ながら美しい声を大きな会場にとどろかせる。4回も失恋を重ねる役にしては、ちょっと賢そうに見えてしまうのだが、かつてこの役を演じた往年の歌手もみな、おしなべて二枚目の雰囲気であったから、まあそれは贅沢な欲求ということだろう。いや歌唱の点で言えば、グリゴーロのフランス語はなかなか良かった。
もっともいいと思ったのは、前回(指揮はレヴァインだった)と同じミューズとニクラウスを歌ったケイト・リンジーである。彼女はホフマンの親友として各幕でずっとホフマンに寄り添っている。メゾ・ソプラノの安定した声は、彼女でなくてはならないかのような存在感が際立ち、見ているものをゾクッとさせるほどであった。
3人の女性はそれぞれ別の歌手によって歌われた。まず機械人形のオランピアはソプラノのエリン・モーリー。ものすごい高音を苦も無く歌う彼女の演技もさることながら、これほど余裕に歌われると、コロラトゥーラ・ソプラノを聞く時のあのはらはら感が減ってしまうではないか、という気までしてしまうからオペラと言うのは贅沢なものである。
続いて登場するアントニアは病弱なソプラノ歌手役であるにもかかわらず貫禄が十分で(そう言えば3年前の時もこの役は何とアンナ・ネトレプコだった!)、ソプラノの質の違いを実感する。ヒルラ・ゲルツマーヴァは最後にステラ役としても登場したが、ここでは歌う部分はない。だからステラ役はまあ誰でもいいのだが、3人の女性の中でもっとも「愛すべき」アントニア役によって歌われるのが、まあ相応しいということだろう。
娼婦ジュリエッタになると妖艶な歌声が必要になるわけで、ここはメゾ・ソプラノになる。クリスティン・ライスという歌手だった。ジュリエッタは登場する時間はさほど長くはないが、いくつかの美しいメロディーを歌う(その一つはもちろん「舟歌」である)。が今回はこれら3人が最終幕でも登場し、ホフマンらとともに重唱を歌ったのは驚いた。最終幕の決定稿はないとされているから、結構自由な表現が可能だったのだろうか。そのあたりの詳細はよくわからない。
4人の悪役はアメリカの重鎮トマス・ハンプソンが、しっかりと脇を固めた。ソプラノ歌手のデボラ・ヴォイトはもう十分に楽しくこの企画の案内役をしていて、今回のインタビューもめっぽう楽しい。指揮はイーヴ・アベル。引き締まった音楽が横溢し、フランス音楽であるために時にメリハリを感じないこの作品において、なかなか充実した指揮ぶりであったと思う。私はとてもいい指揮者に思った。
残念なのは、これだけの高水準の音楽でありながら、なぜか散漫な感じがしたことだ。その理由が何なのかよくわからないのだが、もしかするとそれ演出にあるのではないかと思う。これといった特徴がなく、訴えかけるものがない。シャーはミュージカルの出身とのことだが、だとすればもっと斬新にファンタジックな演出をしても良かったのではないかと思う。舞台装置も予算が足りなかったのか、METとしてはやや不足感が否めない。前回もそうだったが、これだけの大歌手を揃え、満を持して製作する舞台としては、何か思いつきで並べたアイデアのような感じで、ちょっと中途半端だったような気がしないでもない。これは前回にも感じたことだったのだけれども。
エピローグでホフマンは「流した涙の数だけ人は偉くなる」と歌う。何かJPOPの歌詞のようだが、そのことに3時間以上もかけて到達したホフマンは、最後にはステラにまでも振られる。だがもはやホフマンは、(相当酒に酔っているとはいえ)前のホフマンではなくなっているだろう。オペレッタを確立した作曲家が夢見たオペラ作品も、案外このようなところが主題なのかも知れない。だとすれば、ぐっと親しみやすい作品に思えてきてならない。
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