卑近な例に例えれば、歌劇「イル・トロヴァトーレ」という作品は逆転に逆転を繰り返す野球の試合を見ているようだ。しかも主役の歌手が揃ってうまいとなると、エースが次々と三振を奪い、主砲が本塁打を打ち合うような手に汗を握る展開となる。METライブ・シリーズも10年目に入る今年、最初のライブ配信に選ばれたのは「イル・トロヴァトーレ」で、ヴェルディ中期の円熟した音楽に支えられて、これでもかこれでもかと続く歌の連続に、ほとんど興奮状態であったのは私だけではないだろう。
3ヶ月余りの夏季休暇を経て今シーズンの最初を飾る演目に、METがこの作品を選んだのはなぜだろうと思った。なぜならこの作品はすでにMETライブ・シリーズに登場したことがあるしキャストもよく似ている。演出が天才的なデイヴィッド・マクヴィカーであることも、指揮がマルコ・アルミリアートであることも、2011年の公演と同じだ。異なる部分としては、レオノーラを歌うのが、今もっとも注目すべきヴェルディ歌いではないかと思われるアンナ・ネトレプコ。彼女は昨シーズンの幕開きを、やはるヴェルディ中期の傑作「マクベス」で夫人役を演じ、驚愕すべき成功を収めたからだろうか。
今回の上演も、まず何を置いても語るべきは、ネトレプコであったと言わねばならない。それは舞台が半分回転して薄暗い城内に登場しただけで沸き起こる拍手にも象徴されていたし、私は最初のレチタティーヴォを聞くだけでこんなに興奮することはないとさえ思うほどだった(もしマリア・カラスに今接することができたなら、おそらくそういう気がしただろう)。舞台における存在感は、まず第1幕のネトレプコから始まった。だが、この上演はそれにとどまらない。まだ1回の表に、一番打者がヒットを売った程度のものだからだ。
ルーナ伯爵を歌うディミトリ・ホヴォロストフスキーは、前回の上演でもこの役をこなし、ロシア語なまりとはいえ表現力のある歌声と、それになんといっても高貴さを兼ね備えた長身の容姿によって、もしかしたら主役ではないかとさえ思わせるに十分な存在であった。だが今回はどうだろう。以前にもましてその充実ぶりは明確だった。登場した時から拍手が鳴り止まず、しばし音楽が中断するほどだった。その理由は、幕前のゲルブ総裁の紹介でも明かされた。夏に脳腫瘍であることを公表し、その病をおしてまで登場したからだ。そのことが今回の役作りに反映されたかどうかはわからない。だが見ていると、何か圧倒的に役になりきっているようなところがあった。
マルコ・アルミリアートによるテンポのいい音楽は、このようなヴェルディ作品において欠かすことのできないものである。彼はMETのオーケストラとコーラスから、集中力を絶やさないばかりかメリハリがあってしかも時にロマン性を持たせる職人的指揮によって、この上演の隠れた成功の要因であったと思う。だが他に書くべきことの多すぎる今回の公演にあっては、その存在感も際立つことがない。
アズチェーナを歌うメゾ・ソプラノのドローラ・ザジックは、METデビューでもこの作品だったというし(その時のマンリーコはパヴァロッティ!)、もう250回以上も歌っているという十八番で、この役を歌うのは彼女を置いて他にない。私も幾度と無く彼女のビデオを見ているし、低い声で歌う時のしびれるような迫力は、まさにジプシー女の怨念が渦巻く復讐劇の影の主役に相応しい。今回も軽々とこの役をやってのけているように感じられた。
これだけの歌手が揃うと、表題役であるマンリーコを歌うテノールは、どれだけ大変か察するに余りあるほどである。これまで多くのスーパー・テノールが「見よ、恐ろしき炎よ」を頂点とする高音を轟かせてきたことか。その困難な役に抜擢されたのは、なんとアジア人のテノール、ヨンフン・リーという人で、私は彼を聞くのが初めてであった。パヴァロッティやドミンゴのような歌手に比べると細いし背も低い。にもかかわらず彼の歌声は繊細にして芯が太く、訳ありの出自を持つ少し陰のある吟遊詩人にピッタリだ、と見始めてから思った。もしかしたらこれまでの数々の名演は、このトロヴァトーレの役があまりに輝かしくて、ストーリーが持つ本質的な暗さと陰惨さを減じさせてきたのではないか、とさえ思った。
つまりはこの韓国人テノールの存在感は、体格的なハンディを歌声と技術でカヴァーする、類まれなものだった。そういうわけで、彼の登場する部分が他の大歌手との重唱部分であっても、はたまたアリアであってもほとんど完璧にその役をこなしていた。
後半の2つの幕は、このようにまずルーナ伯爵、次にマンリーコ、そしてレオノーラが次々に繰り広げる歌の饗宴にに釘付けとなった。どの歌手のどこがと言い始めたらきりがないし、それに私はただ1回だけ見ただけなので、もう一度最初から見てみたい気がする。こんな風に感じる上演は、それほど多くはないのだ。今回の「イル・トロヴァトーレ」はまさにそのような素晴らしいものだった。だが音楽の素晴らしさに比べて作品の持つ支離滅裂で陰惨なストーリーは、時にこの作品を完成度の点でやや見劣りのするものに位置づけられる理由にされてきた。マクヴィカーの演出は、終始舞台を薄暗くし、色というものがほとんど出てこない、丸でモノクロ映画のようなものだった。回転する舞台も上手に城や牢屋を描いているとはいえ、特に指摘するほどのものではないように感じられた。だがそのように暗さのみを強調することで、却って歌そのものに焦点が当てることに成功し、複雑なストーリーの持つ滑稽さから意識を遠ざける結果となった。
マンリーコとレオノーラという主役の二人が相次いで落命し、ルーナ伯爵も弟を失う。結果的にはすべてアズチェーナの計略にはまったということになるのだが、だとしてもこのオペラには勝者はいない。もしかしたら愛に生き、そして死んでいくレオノーラが勝者なのかも知れない。けれども今回の上演では、病をおしてまで圧倒的な演技を繰り広げたホヴォロストフスキーこそが主役であった。彼がカーテン・コールに登場すると舞台に一斉に投げ込まれた花束と鳴り止まない拍手が、そのことを表していた。
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