プログラムは前半に武満徹の「鳥は星形の庭に降りる」という曲(1977年)と、ベルクの演奏会用アリア「ぶどう酒」という作品(1929年)。ベルクの方は十二音技法の作品で、これを現代音楽と考えると前半はそういう曲が続く。どちらも私は初めて聞く作品で、「ぶどう酒」には独唱(ソプラノの高橋恵理)を伴う。合わせて半時間程度の長さで、丁度いいと思っていたら睡魔に襲われた。残念でならない。
今日も関東地方は快晴で気温が上昇している。眠くなるのは仕方がないが、初めて聞く曲でも一生懸命耳を傾けようと意気込んできたはずである。前日には夜更かしもせず、睡眠を十分にとって目覚め、昼食も軽めに済ませたつもりだった。これはどういうことだろう。だが音楽は過ぎ去ってしまい、もう二度と聞くことはできない。コンサートに集中できないのは、もはや歳のせいなのかも知れない。
コーヒーを飲んで眠気を覚まし、後半の「大地の歌」に挑む。座席は舞台に向かって右側の真横で、オーケストラが半分しか見えない。ハープやマンドリンといった楽器が犠牲になっている。そして歌手は向こうを向いて歌う。代わりに指揮者や木管楽器が良く見える。このような席でもサントリーホールではそこそこ音がいいと思っているが、ミューザ川崎シンフォニーホールではどうもそうはいかないように感じた。いやもしかしたら、これは指揮者の無謀な音作りによるのかも知れない。
私はジョナサン・ノットという指揮者とは、あまり相性が良くないようだ。これまでに出かけた彼のコンサートで感動したことがあまりない。むしろ音量がやたら大きく、指揮が目立ちすぎるのである。この結果バランスが悪く、せっかくオーケストラが好演しても音楽的なまとまりに欠けるような気がするのは私だけだろうか。似たようなことが、バッティストーニ指揮の東フィルにも言える。今回の演奏会の場合、私の着席した位置からは、二人のソリスト(メゾ・ソプラノのドロティア・ラングとテノールのベンヤミン・ブルンス)がオーケストラの音に埋もれてしまう。正面で聞いていたらもう少しましだったかも知れないが、それでもこの指揮者は力強い指揮で音楽の情緒を壊していると感じることが多いから、あまり変わらなかったのではないか。
真横での鑑賞の今一つの問題点は、各楽器の音がばらけてしまう点にある。サントリーホールでは上部に設えられた反射板のお陰か、その欠点はやや補正されている。しかし川崎のホールはむき出しである。にもかかわらず、正面の座席が少ない。2階席からは螺旋状になっており、左右非対称というのも落ち着かないが、いわば大きな筒の中にいるような感じである。そうだ、東響の定期演奏会は通常、サントリーホールでも行われるから、そちらの方で聞くのがいいのかも知れない(チケットは若干高い)。
結局、私はこのマーラーが残した最も美しい作品を、あまり楽しむことができないまま演奏会が終わってしまった。ここのところ、勇んでいくコンサートが期待外れに終わることが多い。客観的にはオーケストラが巧く、欠点は少ないのにそう感じている。原因は、次の3つのうちのどれか、もしくはその組み合わせである。①聞く位置が悪い、②体調が良くない、③耳が肥えてしまった。今後は厳選したコンサートをいい位置で聞くこととしたい。そう切に思った演奏会だった。
なお、「大地の歌」を聞くのは2回目。1回目のインバル指揮都響の演奏があまりに良かったので、その時の感銘を超えることができなかった、ということかも知れない。それにしてもノットの音楽は、どことなく無機的で表面的だと感じている。
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