2014年4月18日金曜日

国鉄時代の鉄道旅行:第14回目(1986年9月)②

当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や幸福といった駅で「人気スポット」となった広尾線でもわずかに6往復だった。


このような哀愁を帯びたローカル線の多くが、いわゆる「盲腸線」というやつで、終点まで行くとそのまま引き返して来なければならない路線である。最も長いのが日高本線で、さらにその支線として富内線のような路線もある。一方、宗谷本線は天北線や羽幌線といった路線へ浮気をすると完乗することができない。つまりローカル線は、ただでさえ運行本数が少ない上に、効率的に乗車することが極めて困難なのである。

暇とお金があれば、これらの廃線間際のローカル線を乗りに出かけただろうと思う。もし今、このような路線が現役で活躍していたら、どれほど多くの鉄道ファンが押し寄せていることかと思う。それほどにまで現在の路線は魅力を失ってしまった。そしてそうなることは、当時でもすでに計画され周知されていた。国鉄が民営化されると、このような赤字路線は廃線の憂き目にあうことが目に見えていたのである。

私は休みが1週間しか取れず、しかもお金のない学生だったから、これらのローカル線の多くを乗ることができなかった。まずは北海道へ行って、できるだけ多くの路線を廻ることのみ考えた。その結果、少数の例外を除いて今でも現役の路線を踏破しただけに終わるのである。けれども私の北海道に対する思いは、それだけでも十分に満たされた。ただ残念だったことは、旅行の期間中ずっと天気が悪かったことだ。最初の数日を除いて、北海道は秋の長雨にたたられた。しかもその降水量は例外的に多く、雨で列車が延着することもあったくらいなのである。

早朝の函館に降り立った私は、しばし駅前を歩きまわった後、さっそく札幌までの鈍行列車に乗り込んだ。旭川行きで、今では考えられないような長距離列車である。しかも函館本線を下るその列車は、まず大沼と森の区間で、遠い方の路線を走る。大沼公園を経由しない方である。この結果、駒ケ岳を海沿いのルートで回っていく。そのローカルな雰囲気は、一気に私をして北海道を実感させた。

長万部で1時間程度の停車時間があったので、海岸へ出てかにめしなどを食べ、さらに列車は室蘭本線を経由しない正規の函館本線へと進んでいくのだった。周知のように長万部から小樽までの区間は、函館本線とは言え極めて雪深いローカル線である。途中倶知安という駅が唯一大きな駅だが、それでも驚くほど小さい(いまでもそうである)。だから私は快晴の秋空を行く単線の客車列車の窓を全開にし、吹き抜けていく乾いた空気を心ゆくまで味わった。私が気持ちよくうたた寝をしている間に、列車は小樽に着いたと思う。そこから札幌までは、比較的混んでいたように思う。

札幌で私は、北海道大学の近くにあったユースホステルに泊まり、夜は定番通りラーメン横丁などに出かけた。このようにして私の北海道旅行は始まったのだが、それからは連日雨にたたられ、従って私も夜行列車を駆使して道東と道央を往復する毎日を過ごすことになった。とても残念だったが、今回の旅行はひとりだったし、まあそれでも良かった。9月ともなると旅行者も少なく、私はもう寒い北国を、あてもなく列車に乗って過ごした。丁度7月に出かけた初めての海外旅行(韓国)のあとだったので、言葉の通じる国の旅行がいかに楽なものか、実感する旅行であった。



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