鉄道自体を目的とした旅行の第1回目は、高校1年の夏に出掛けた横浜・東京方面とすることにした。それまでの旅行にも、ローカル線に乗ったり、特急列車ででかけたことも勿論あるが、鉄道自体が目的ではなかったし、家族と一緒だったりした。友人たちと自分たちで計画した旅行としては、これがその最初のものである。
ただこれは学校の同好の仲間とのグループ旅行だった。我々は鎌倉のいくつかのお寺と三浦半島、それに横浜の近代建築をめぐるという一応の名目を掲げ、そしてかならずしも鉄道に興味のない者も含まれていた。私もそれほど凝る方ではなかったし、誰かが夜行の急行で行こうといった時も、それが安上がりだからというだけの理由で賛成した。
急行列車とは、今はなき「銀河」である。しかも夏の臨時列車で座席車を連結したものだった。つまり東京ミニ周遊券で乗車できる自由席があることがその選定理由だった。そして同じ高校の学生でボックス席の何個かを専有し、大阪駅を出発した。
そこまでは良かった。だがその夜は季節はずれの台風が日本列島を襲い、大雨の中での運行となった。米原を過ぎる頃まではダイヤ通りであった。夜中になり、列車のアナウンスがなくなる頃になって、列車は垂井駅にとまったまま動かなくなった。私たちの列車はそこで数時間を過ごし、そしてとうとう行き先が名古屋に変更された。
朝になって猛烈な暑さの中を、名古屋駅に降り立った。本来なら大船についている時間である。だがこの日の東海地方は、大雨の影響であらゆる列車に影響が及んでいた。それは新幹線も同じだった。私たちが乗り換えた東海道新幹線こだま号も、豊橋駅で何時間も停車し、それからしばらく動かなくなった。ようやく動き出したのは午前9時を過ぎていたと思う。そしてそれから新横浜に着くまでは、私も記憶がない。おそらく熟睡していたのだろうと思う。
新横浜駅から在来線に乗り換えて北鎌倉へ着き、建長寺や円覚寺を歩いたが、夏の暑さと夜行の疲れで私たちは大いに疲労をためていた。
翌日、鎌倉から横須賀線で下り、横須賀駅で降りた時には再び雨が降り出していた。浦賀を観光し、大船まで引き返すと、物好きが高じて根岸線に乗り、石川町まで乗った時には再び睡魔に襲われた。それでも山手地区を散策し、中華街に降り立った頃には、雨があがるかに見えた。ところがその夜の東京発の列車が思いもよらないことになるのである。
雨は再び降り続いていた。行きの夜行のハプニングに懲りた何人かは新幹線で家路についた。しかし鉄道旅行派(私もその一人だった)は、鈍行列車を乗り継いで帰ろうというのである。夕方の東京駅を熱海行きの東海道線は走りだし、そして熱海からは浜松行きの列車に乗り込んだ。ところがここで大事故が起こっていたのである。
折からの雨による増水でその日の早朝に富士川の鉄橋が流されたのである!私たちの列車はその区間を通る。どう考えても運行は途中で打ち切りとなるのではないか。私たちは話し合い、行けるところまでは行こうということになって、ほとんど客のいない普通列車で西へ向かった。富士駅で列車は止まり、全員が降ろされ、そしてそこからバスによる代行輸送となった。鉄橋が流された富士川を国道で渡り、対岸の駅につくとそこには静岡行きの列車が止まっていた。その列車は浜松行きではなかった。そしてとうとう私たちが乗る予定だった後続の大垣行き夜行列車が運休することが判明したのだった。
ほとんど乗客のいない普通列車が夜遅く静岡についたとき、私たちは野宿を覚悟していた。ところが面白いことに大雨で遅れた新幹線がまだ走っており、最終のこだま号新大阪行きが到着するところだった。私たちは大急ぎでそれに飛び乗った。深夜1時を過ぎて私たちは新大阪に戻った。新幹線が遅れると、在来線や地下鉄までもがそれに合わせて最終電車を走らせてくれたのは、国鉄時代だからである。
何とも奇妙な関東までの往復の列車旅行だったが、この経験は私にとても勇気を与えた。なんとかなるという思いが、私を次の旅行計画に走らせた。そしてとうとう、中学時代の友人とふたりで福島までの鈍行旅行を計画したのである。
(※)昭和57年8月2日、台風10号は渥美半島に上陸し、全国で死者は95人に上ったと記録にある。富士川橋梁(下り)が流されたのは、私たちも翌日に乗る予定だった東京発大垣行き夜行列車が、鉄橋を通過する直前だった。富士駅で乗客のひとりが乗り遅れて出発が遅れ、その際に鉄橋の流出で停電して難を逃れた。この時の模様はNHK特集でも取り上げられドキュメンタリーとなった。私が乗ったのはその日の夜のことであったと記憶している。この時の映像が何とYouTubeに投稿されている(http://youtu.be/JkZMZ69rb2I)。
右の写真は晴れた日の富士川から見た富士山(1984年2月撮影)。
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