METライブシリーズも今年で10周年だそうだが、このシリーズの最大の良さは、それまでに触れたことのない作品に気軽に触れられることである。その中でもシリーズ最大と言ってもいいほど私にとって意味深かったのは、ドニゼッティの「チューダー朝女王三部作」と言われる作品を、圧倒的な感銘を持って味わうことができたことである。すなわち「アンナ・ボレーナ」「マリア・ストゥアルダ」そして今回見た「ロベルト・デヴェリュー」である。
おさらいをしておこう。比較的有名な「アンナ・ボレーナ」でもMET初演となったライブ映像を見たのは2011年だった。この時ヘンリー八世の王妃アンナを演じたのはアンナ・ネトレプコ。私はこの作品でドニゼッティの魅力を思い知ったと言ってよい。「連隊の娘」のように阿呆らしい荒唐無稽さはなく、「愛の妙薬」のようなほのぼぼとした明るさとも無縁である。
次の「マリア・ストゥアルア」はスコットランドが舞台の作品である。メアリー・ストゥアートを演じたのは、アメリカ人のソプラノ歌手ジョイス・ディドナートであった。2013年の公演はまたもや初演。女性同士の対決は手に汗握る迫力で、私はまたもや圧倒されたと言ってよい。これらの感想は、それぞれブログに書いた。「歌声といい、ドラマ性といい、さらには悲劇の主人公たる演技に至るまで、これほど見事に演じたのを知らない」などと書いており、興奮したことを思い出す。3つとも演出はデイヴィッド・マクヴィカー。舞台装置は斬新というわけではなく、かといって保守的でもない。全体に暗いのはイギリスを舞台とした悲劇だから。ただ歌手の演技を引き出すことにかけては彼は天才的ではないか。指揮はメトのベルカント・オペラの第一人者、マウリッツィオ・ベニーニ。
今回の作品「ロベルト・デヴェリュー」の主役であるエリザベッタを演じたのは、シカゴ出身のソプラノ歌手、ソンドラ・ラドヴァノフスキーであった(このオペラの表題役はロベルトだが、彼女の存在感をなくしてこのオペラは語れない)。彼女は齢69歳にもなるエリザベス一世の役を、蒼白の顔面、こわばった表情、そして足元がふらつくという演技を続けながら、90%以上が怒っている状態の難役を見事に歌った。その様は「すごい」の一言につきる。ベルカントの歌声は高音と低音をいったりきたり。こんなに歌っていると声をつぶすのではないかと心配になる。
史実に基づくあらすじは至って簡単である。エリザベッタは自分を裏切った恋人(ロベルト)を死刑にしてしまうというものだ。 高齢であることもあり最後の心のよりどころであるロベルトを失うことに、彼女の心は揺れ動く。だが私はこのストーリーが早くも第1幕で展開されるとは知らなかった。
一体他に何を歌うのかしらん、などと思っていたが、ストーリーはベルカント時代の様式のように、ひとつひとつの心情が次から次へと美しい歌となって続く。これは見た人にしかわからない興奮だろう。ともすれば退屈極まりない作品も、音楽、特に歌手が素晴らしいと実に見ごたえのあるものとなる。今回もそのいい例だと思う。
エリザベッタの恋人で、彼女を裏切って親友ノッティンガム公爵の妻サラを愛してしまうのがロベルトである。この役はアメリカのテノール歌手マシュー・ポレンザーニによって歌われた。彼の歌声は甘くて柔らかく、素朴な風貌が例えば「椿姫」のアルフレードなど好適であろうと思わせる。彼の出番は数多いが、最高に素晴らしかったのは第3幕の長いアリアである。絞首刑になる直前、何をどう歌ったかは忘れたが(こういうところがベルカント・オペラである。歌に聞きほれているうちにストーリーなどどこかへ行ってしまうのだ!)、その歌声は頂点に達し、メトのすべての観客を心底魅了した。私はエリザベッタを歌ったラドヴァノフスキーよりも総合的な安定度において上回っていたと思う。
エリザベッタの恋敵で、ロベルトが恋に落ちるサラは、友人ノッティンガム公爵の妻である。サラはまたエリザベッタがただひとり心を許すことのできるだけの信頼を寄せている人物であるところが話を複雑にしている。だがそのことは最初ノッティンガム公爵は知らず、親友を死刑から救い出そうとする。恩赦を懇願されるエリザベッタもまた、サラこそが恋敵であったことを知るのは幕切れになってからである。ここでサラの役はメゾソプラノで、何と贅沢なことにエリーナ・ガランチャが歌い、その夫、ノッティンガム公爵は、これまた大バリトン歌手のマウリシュ・クヴィエチェンである。このようなところがメトらしく、何と4人が4人とも素晴らしい。主役二人はアメリカ人で固め、脇役を東欧の実力派が担うのだ。
ここでの登場人物は、すべて大切なものを失う。エリザベッタは最後の生きる望みを、ロベルトは自らの命を、ノッティンガム公爵は妻と親友を、サラは恋人と夫を、といった具合である。救いようもないストーリーは後の世代の作曲家ならもっと違う作風にしたであろう。イギリスを舞台にしているとはいえ、このオペラはイタリア・オペラらしく感情の動きが活発であり、それに合わせた音楽もドラマティックである。そしてそれはヴェルディの初期作品を彷彿とさせる。ヴェルディがここから学び発展させたドラマとの融合は、ドニゼッティのオペラ・セリアにその出発点を見出すことが出来る。
この時期の音楽は、たとえ各役柄の間に感情的、あるいは立場の違いがあっても、音楽は見事に調和している。まだ不協和音というものが目立つことはない。つまり殺人をほのめかすような罵り合いも、和音となって重唱となる。ドラマはまだ神の維持する世界の中に納まっている。だからエリザベッタは最終幕でロベルトを愛していることを告白し、彼を赦そうとさえする。高齢の自らの立場を嘆きつつも。この少し創作めいた、やや滑稽な心情の告白は、興業としてのオペラを意識させる。だからこそヴィッカーはこの上演を劇中劇という形でやや客観視しているように思える。
そのあまりに悲惨なストーリーがたとえ事実だとしても、これは演技と歌を楽しむ作品である。その限りにおいて、今回もMET初演となった「女王三部作」の最後、 「ロベルト・デヴェリュー」は、それが完全な形で上演されることによって、それまでに(おそらく)知られていたであろう魅力の何十倍もの可能性を示す結果となった。この素晴らしい経験が、METライブという気軽なもので味わうことの嬉しさを感じずにはいられない。今年のシリーズ中、いやこれまでのMETライブの中でも傑出した上演であったと信じて疑わない。3つの作品を再度見てみたいと思う。それはリバイバル上映で可能だろう。だが舞台でこのレベルの感動を味わうことは・・・経済的、空間的あるいは時間的制約に、字幕といった言語的障壁を考えると一生ないだろうと思う。
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