我が国を舞台にしたストーリーではあるものの、西洋人のステレオタイプな偏見に満ちているという点で、日本人として違和感を感じるために、このオペラが好きでないという人があるが、私はまったくその逆である。むしろ親近感を覚えるし、美しくも悲しい物語に心を打たれる。もしかしたらこれはプッチーニの最高傑作ではないかと思うほどだ。音楽の白眉は第2幕の間奏曲のシーンである。ただ待つだけのシーンは動きもなく歌もない。なのにどうしてこんなに美しいのだろう。音楽に耳を傾けているだけで、ゆっくりと時間が経過してゆくその様に涙さえ浮かぶほどだ。見ると蝶々さんを歌っているクリスティーヌ・オポライスも泣いている。こみ上げる感動に、幕が下りているというのに感極まるばかり。インタビューが始まると彼女は告白する。「早く泣き始めないように我慢していた」と。
蝶々夫人の舞台には、当然のことながら日本の家屋が登場する。長崎の港を見下ろす幕末の家には、障子、畳、あるいは日本式のお庭がセットさせるのが普通だ。だがこのオペラは心理の移り変わりを描いたオペラだ。下手な大道具が登場すると興ざめである。むしろ舞台はシンプルな方がいい。そしてカレル・マーク・シションの演出は、障子が左右にスライドする以外は至ってシンプルである。代わりに文楽(人形浄瑠璃)や歌舞伎の要素がちりばめられている。黒子がまるで本当の子供であるかように3人がかりで人形を操るかと思えば、空を舞う鳥の群れが舞いながら飛び去る。その美しいこと!
この上演の素晴らしさは、定評あるロベルト・アラーニャやプッチーニ歌いとしての名声を確立したオポライスにあることは第一に評されるべきだろうが、まあそれは当然と言えば当然である。意外性に満ちたこのオペラの新鮮な発見は、やはりその演出にあると言えるだろう。和音階を随所に取り入れたプッチーニの音楽を十全に表現したアンソニー・ミンゲラの指揮の素晴らしさを讃えることを忘れるくらいに、演出の素晴らしさが際立つのだ。
最近METライヴもマンネリ化し、どうも感動する作品が少ないと感じ始めていた。正直なところこの上演を見る気力が失せていたのだ。歌手はいいし一定の水準であろうことは想像できる。ビデオ上映する以上、まるで失敗ということもないと思う。いつも案内役が言うように「実演で見るのに勝るものはありません。是非METか、もしくはお近くの歌劇場でお越しください」というのは事実である。もしかしたら大きな損失を被ることを覚悟してもなおチケットを買い求め、ハラハラしながらも歌を聞くときの期待と緊張感、そしてそれが良かった場合の感動は何物にも代えがたい。
でも今回のシション演出の「蝶々夫人」は、そんなあまりに当たり前のことを忘れさせてしまうほどに感動的であり、感情の移入に自分でも驚くほどである。精緻な演出は一挙種一挙動にまで及んでおり、洗練されているだけでなく細部に磨きがかかっている。もしかしたらビデオで見ることで、細かい動きにまで気付くのかも知れない。浄瑠璃で表現される3歳の男の子の仕草などは、その代表だろう。
第2幕で3年間を待ちわびた蝶々さんは今日も長崎の港を見下ろしながら暮らしている。そこでアメリカの戦艦が現れると、彼女はそこに夫であるピンカートンがいると信じ込むのだ。彼女はなんと結婚衣装に着替え、期待に胸を膨らませながら時間が過ぎるのを待つ。ここで彼女はあくまで待つのだ。女中のスズキ(マリア・ジフチャク、彼女は本当にいそうな旅館の女将のようないでたちである)と少年と3人で居間に正座する。暮れ行く長崎の空は赤みを増してゆくその中に、滔々と流れるきれいなメロディー。ただ待つというシーンを、こんなにも美しいオペラにしたプッチーニは天才的だと思った。
テレビも電話もない時代。港に現れた戦艦に夫がいるかどうかすら確かめようがない。彼女はじっと待ち、そして時間だけがゆっくりと過ぎ去る。まるで昔の松竹映画を見ているように、動きが少ない中にも落ち着いた時間である。彼女はそわそわと感情的になることはしない。そういったところにプッチーニは日本人の慎ましさを表現したのだろうか。だとするとそういう部分は何とも誇らしく、嬉しい。おそらく蝶々さんは、少し前に領事のシャープレス(ドゥウェイン・クロフト)が言いかけたように、夫に捨てられることを悟っていたのかも知れない。だがたった一人残された子供までを引き渡すよう言われることまでも想像していなかったと思う。
まだ十代で異国の妻となった元芸者の蝶々さんは、もはや元の生活に戻ることなど考えられない。すべてを失い、希望も消え失せた彼女に残されたのは、短剣で自らの命を絶つことだけだった。そのシーンを見られまいと子供に目隠しをし、遊ぶようにと促すそのシーンに至って、感興は一気に頂点に達する。流れた血の色が彼女の来ていた着物の帯の色であることを思い出すのはこの時である。劇的な音楽は一気に幕切れに向かう。音楽が鳴り止むのを待ち切れず盛大な拍手が沸き起こってもなお、私は物語の中に身を置いていた。この上演はもう一度見てみたいと思った。10年にも及ぶMETライヴの中で、感動的なものは数えきれないくらいあったが、もう一度見たいと思った作品は少ない。だが間違いなくこの上演は、私のオペラ経験の中でも特異なほどにランクインするものとなったのだった。
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