2017年10月21日土曜日

ハイドン:オラトリオ「四季」(カール・ベーム指揮ウィーン交響楽団ほか)

ハイドンがその晩年にオラトリオ「四季」を作曲するのは、前作「天地創造」から数年後の1800年頃のことである。1800年と言えば、モーツァルトはすでに他界しており、ベートーヴェンが交響曲第1番を初演する年である。この頃音楽は急速に大規模化し、次第に自由な形式へと進化してゆく。「四季」は「天地創造」よりも30分も長く、「天地創造」が旧約聖書をモチーフにしたのとは対照的に、中欧の自然の移り変わりを明るくのびのびと表現した、牧歌的で親しみやすい作品である。

ところが残念なことに「四季」の実演に接する機会は少ない。録音も「天地創造」に比べれば少ない。私もこれまで、わずかに1回、それもアマチュアの団体が演奏した実演に接したのみである。とはいえ「四季」は、ハイドンの作品の中でも群を抜いて精彩を放つ作品と言える。私もこの作品を愛してやまない。初めて聞いたカラヤンの演奏以来、何十回となく聞きこんできたが、そろそろここにまとめて書いておこうと思う。

「四季」に登場する独唱は3人で、小作人シモンにバスが、娘ハンネにソプラノが、そして若い農夫ルーカスにテノールが、それぞれ割り当てられている。けれども特に物語があるわけではなく、ハイドンが長年住んだオーストリアの農村部の四季の情景が、混成四部合唱ともに歌われる。歌詞はドイツ語で、「天地創造」と同様、ヴァン・スヴィーデン伯爵による台本を元にしたものだ。伯爵はハイドンの良き理解者であり友人でもあったようだが、この「四季」の作曲にはいろいろ確執も伝えられている。

スヴィーデン伯爵が「天地創造」の成功に気を良くして、何かとハイドンの音楽づくりに口を出し、それは人気取りの側面があったようだ。それを快く思わないハイドンはそれに逆らい、純音楽的な美しさを重視したようだ。だがそんなことは気にならなくらいに、全編を通して高い完成度を保っている。どの部分から聞き始めようと、ハイドンにしか書けないような美しいメロディーに触れることが出来る。

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【第1部「春」】

第1番:序奏。「天地創造」の静かで混沌とした情景の始まりとは異なり、ティンパニを伴った激しい音楽である。と思ったらやはりト短調。これはおそらく冬の名残り。春の最初に吹く嵐の情景。我が国の言葉で言えば春一番といったところだろうか。 骨格の強固な自信に満ちた音楽が、ハイドンを聞く喜びを感じさせてくれる。春の訪れを3人の独唱が告げるところから、この曲は始まる。

第2番は農民の合唱。美しいメロディーがほのぼのとした情景を描写する。寒い冬の日々から解き放たれ、春になった時のしみじみとした喜びは、日本人にはよく理解できる。そして少し憂いに満ちた感覚も。春のト長調。

第3番のレチタティーヴォに続き第4番は、 シモンが田園風景を歌う。ここを初めて聞いた時、これは「驚愕」交響曲の第2楽章であることに「驚いた」。こういう転用は何とも憎い。素朴なハ長調。

第5番もレチタティーヴォである。以降、レチタティーヴォにアリアや合唱、またはその両方が活躍する曲という構成が続く。第6番は、そのままルーカスによる歌と合唱となる。「田園交響曲」のヘ長調で、色に例えると緑だろうか。

第7番はソプラノのレチタティーヴォ。続く第8番は2つの部分からなる長い曲である。まずソプラノとテノールの独唱は若者たちの歌であり、これに合唱が加わる。希望と喜びに満ちたイ長調。ここで戯画的な模倣のシーンが登場して、「四季」を聞く楽しさが倍増する。春たけなわといったところ。

第8番の後半は「春」の終曲である。力強くもしもじみとした神への賛歌はミサ曲を思わせ、後半のフーガも含め全体的に宗教的な荘重さを持っている。祈りの変ロ長調。


【第2部「夏」】

「夏」のイメージはけだるさだが、そのような音楽で始まる。だがこれは個人的な主観に基づくもので、実際は第9番はハ短調の夜明け前。

さて第10番である。ホルンのきれいなメロディーで夜が明ける。独唱を挟みながらオーケストラがイメージするのは、鶏の鳴き声。「目覚めた羊飼いは 、喜ぶ羊たちを呼び集め」、「朝焼けに空が赤く染まっていく」。ああ何と夏の夜明けの神々しいことか。 「薄い雲は煙のように消え 、空は群青色に澄み渡り・・・」はやり「四季」を聞くときは歌詞を追いたい。

太陽への賛歌はこれからが本番。第11番はラルゴの二重唱に合唱が加わる。 命の源である太陽は、洋の東西を問わず、崇められる存在である。太陽、そして創造主への感謝は力強く、そしてしみじみとした情感に満ちている。高尚で華美、雄大で宗教的なニ長調。

「夏」の後半は第12番から第18番まで続く。第13番はカヴァティーナ。いよいよ夏のだるさが歌われる。「花は萎れ、草は枯れ、 泉は干上がり、全てのものが灼熱に苦しんでいる」。 生物は生気を失い、農民も一休み。首を垂れる麦畑が黄色に染まったホ長調。

第14番の長いレチタティーヴォに続き第15番はハンネのアリア。オーボエの音色が美しい。涼しい木陰に、さらさら流れる小川。虫は這い、羊飼いは草笛を鳴らす。静かでゆったりした変ロ長調。

第16番は再びレチタティーヴォ。遠くから雷が轟き、やがて雨がポツポツと降り始める。そして第17番はとうとう夕立がやって来る。稲妻が光り、驟雨となる。合唱が歌う。激しい雨は地面をたたきつけ、「大地は揺さぶられ 、海の底まで震え上がる」。ここはやはり激烈なハ短調。

音楽はこのまま終曲である第18番に入る。嵐が去った後の夕暮れ。西日を浴びた畑は黄色に輝き、雫が光る。こおろぎやカエルが鳴く。やがて夕べの鐘が鳴り響き、空には星が輝き始める頃、農民たちは一日の仕事を終え家路につく。平和で牧歌的なヘ長調。安らぎのうちに「夏」が終わる。


【第3部「秋」】

秋になった。乾燥した涼しい風がさわやかに吹き、空は青く高い。温帯性気候の中で育った私は、この「日本晴れ」という、いつのまにか最近耳にしなくなった天候が大好きである。「秋」の冒頭は、そのような日本人にも実感を持って聞くことのできる音楽だと思う。

第19番は序奏(豊作への喜び)。短いレチタティーヴォに続く第20番は、木管楽器が美しいアリアに合唱が絡む。幸福な音楽にほれぼれする。素朴で飾り気のないハ長調。

第21番の短いレチタティーヴォに続く第22番は、 テノールの「Kommt Hier(こちらにおいで)」という歌詞が印象的。ソプラノとの二重唱になり、クラリネットが柔らかく陰影に富んだ魅力的な曲(変ホ長調)である。

第23番のレチタティーヴォに続き第24番は、冒頭バロック風のメロディーになって驚くが、そこでバリトンのアリアが歌われる。ファゴットの活躍するイ短調。だがびっくりするのは、田畑を荒らす鳥たちを打ち落とすシーンでの射撃の描写である。急速な音楽が耳を奪う。

第25番も劇的なレチタティーヴォで、言わばこのあたりからがこの曲のクライマックスであると思われる。第26番ではホルンが大活躍する(ニ長調)。これにフーガを伴った合唱が絡んでいく様は圧巻である。狩りのシーンを描写したものである。ここだけはカラヤンの演奏で聞くベルリン・フィルの演奏に軍配が上がる。壮大な「英雄」の変ホ長調。

これで第3部が終わるのかと思いきや、さらに第27番でのレチタティーヴォに続く第28番でのアレグロの賛歌が威勢よく始まり、その後の3拍子の合唱へとなだれ込んでいく。豊作を祝う農民の祭りである。ハ長調。ここでトライアングルとシンバルが加わり、収穫の舞曲は頂点に達する。


【第4部「冬」】

寒い冬がやってきた。音楽はいきなり寒々とするから不思議なものだ。第29番の序奏は霧が立ち込める情景から。続く第30番でもハンネも冬を告げる。「光は陰り、生命は衰え」、「暗くて長い夜が訪れる」。

第31番レチタティーヴォ。ルーカスまでもが不毛な冬の自然を語る時、オーケストラは凍った湖、降り積もり雪を描写する。 疲れと寒さで人の心からも活力は失われ、迷い、うろたえるのだが、後半は明るい。第32番は悲しいホ短調。ハイドンの音楽はいつも自然で、そして明るさを失わない。ベートーヴェンもシューベルトも、この音楽にどれほど影響を受けたことか、と思う。

第33番のレチタティーヴォに続き第34番は合唱付きの速い曲。暖炉のそばで集う農民。糸を紡ぎ、織って仕立てる。仕事に精を出す歌声は「唸れ、回れ、糸車!」と、オーボエの音色が印象的なニ短調。

やがて仕事も終わり、談笑にしばし和む農民たち(第35番)。ハンネは話し出す(第36番、ト長調)。貴族が村の娘に惚れるが、娘はそんな申し出を一笑に伏す。「ハ、ハ、ハ、ハ」と合唱。

第37番はレチタティーヴォ。続く第38番はラルゴのアリアである。 「重苦しい不安は どこへ行ったのだ、至福の日々は!」と。「希望や幸福は失われ、徳のみが嘆きの時も喜びの時も至高の目的に人々を導く」と。陰気で陰鬱なバスによる変ホ長調。

だがトランペットが鳴り響くと第39番の三重唱と合唱が始まる。調性はハ長調に転じ、神の導きを乞うフーガとなり、次第に壮大さを帯びてくる。曲も終わりに近いことを実感する。「天の門が開き聖なる山が現れる」。感動的なフィナーレは5分余りに亘って続く。苦しみの冬は過ぎゆき、永遠の春が訪れるのだ。アーメン、と締めくくられるコーダは「天地創造」と共通する。

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何度も録音で聞いていたのに、初めて実演に接した時の感動は忘れられない。歌詞を追いながら聞いてゆくと、こんなにも細やかで表情が豊かであり、それと同時に崇高で美しい。演奏は、完成度が高くこの上ない美しさを誇るカラヤン盤と、モダン楽器による細部にまで表情を凝らしたアーノンクール盤に未練を感じつつも、カール・ベームによる古い録音が最も気に入っている。ここでベームは持ち前の強直な指揮をしつつも、音楽に対する愛情を最大限に表現している。その古風で質実剛健な表情が、この録音にしかない魅力となっている。ただ評価の高いヤーコプス盤と、今では廃盤となって入手不可能なコリン・デイヴィス盤(英語)は残念ながら未聴である。

ベーム盤の管弦楽はウィーン交響楽団である(1967年)。そのことがウィーン・フィルとはちがった緊張感をもたらしている。おそらくスタジオ録音だと思われるが、 まるでライヴ録音のように白熱を帯びている。独唱人はグンドゥラ・ヤノヴィッツ、ペーター・シュライアー、マルッティ・タルヴェラという豪華な顔ぶれ。スタジオに数多配置されたマイクの前で、熱い演奏を繰り広げる往年のベームの指揮姿が目に浮かぶようである。

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