新国立劇場の17-18シーズンのこけら落とし、ワーフナーの楽劇「神々の黄昏」は、今シーズンで最後となる飯森泰次郎が指揮する読売日本交響楽団という組み合わせ。読響はこの劇場のデビューだそうである。プレミアの10月1日には皇太子もお見えになったという舞台を、2回目の公演である4日に見に行った。この時の感想を、早く書いておかねばと思いながら、なかなか筆が進まない。どういうわけかわからないのでが、今回、そういうわけでブログの更新が遅れてしまった。
このブログを5年以上も続けてきたにもかかわらず、何から書き始めていいのかわからない、というのが正直なところだ。その理由は、これもよくはわからないのだが、まず体調が悪かった。1か月ほど前から座るとお尻が痛く、しかも目がぼやける。この状態で公演に行けるだろうか、と随分前より心配だった。たとえ行けたとしても、6時間にも及ぶ公演時間は、数あるオペラの中でも最長の類に入る。
だがワーグナーの最高傑作を、かのバイロイトにも出演するような歌手で聞く贅沢を考えると、仕事を休んでも出かける価値は十分にある。人生に幾度もない機会だからである。職場から新国立的城は歩いて10分余り。午後から会社を休むつもりだったが、体調を整える必要から計画を変更し、朝から自宅で療養、昼には行きつけのマッサージに出かけた。コンビニでサンドイッチなどを買い込んだのは2時過ぎで、それから初台のバーで一休み。とはいえ飲み過ぎると2時間にも及ぶ第1幕に、トイレに行きたくなったら困る。事前にアマゾンで座布団も購入し、満を持して出かけたが、何とオペラ・グラスを忘れてしまった。
仕事や家庭の事情に振り回され、ストレスの多い毎日である。そんな時にも「指環」は聞かねばならない。4月に聞いたヤノフスキのN響の演奏(東京・春・音楽祭、演奏会形式)を思い出しながら、ベームやティーレマンの歴史的ライヴ録音でおさらいし、さらにはかつてビデオで見たシェロー(ブーレーズ盤)や ルパージュ(ルイージのメト盤)などを思い出してみた。どれも大変な名演である。4月の公演では、ジークフリートが急な交代で力不足だったこと以外は、息もつかせぬ演奏に心を打たれた。メトの大舞台に設えた、縦に回転する何枚もの板の列にライン川の水面やローゲの炎が表現される。そこが何ジークフリートの死で次第に赤く染まっていくシーンなどは、圧巻であった。
それに比べると、今回のゲッツ・フリードリヒの演出は、今となっては少し古く、そしてやや簡素であると思われた。新国立劇場のハイテク装置をうまく使えば、もっと効果的な演出も可能だったのではと思ったのは、どうも3階席ともなると舞台の奥が良く見えない。幕はもっと上まで上がるのではないかといつも思うが、それがまず不満である。やはりオペラは1階か2階の席で見るべきなのだろうか。今回も安い席にしたことを、少し残念に思った。
オーケストラの音量は確かに大きく太い。随分練習を重ねたであろうその音色はワーグナーの世界を表現するには充分であった、とここでは書いておこうと思う。第1幕の冒頭の和音から、それは感じられた。最初は少し緊張感も高かったように思われたが、第3幕の聞かせどころでは完璧に決まった。その「ジークフリートの死」では、舞台上にジークフリートが横たわったまま暗い中にかすかに浮かび上がる。音楽は滔々と高らかに鳴り響き、クライマックスを迎える。むしろ音楽を中心に据えた演出はおそらく古典的なものだが、今ではもっとヴィジュアルなものが好まれるような気もする。
歌手についても、一通りここに書かなければならない。けれどもそれは、実は少々苦痛である。というのは、それらを評価するほどに聞きこんでいないことに加え、どういうわけか今回の演奏は、全体的に興に乗らなかったからである。ごく個人的な感想として、かなり客観性は欠いているかも知れないことを承知の上で言うと、ブリュンヒルデを歌ったペトラ・ヤングは、第2幕まではまずまず好調だったと思う。だが最後のシーンでは少し息切れであった。それに比べると、ジークフリートを歌ったステファン・グールドは第3幕に照準を合わせることに成功し、そればかりか第1幕から安定していたように思う。ただ細身の、若くてたくましい容姿を希望する向きには、ちょっと期待が異なるなどということは、まあ書くべきではないことだろうと思うが・・・。
ハーゲンのアルベルト・ペーゼンドルファーはとても良く、私にはこの日一番の聴きごたえ。さらにグンターのアントン・ケレミチェフは、第2幕の後半で、とてもうまいなあ、と思った。グートルーネは安藤赴美子。及第点の出来栄え。そしてヴァルトラウテのヴァルトラウト・マイヤーは、ブリュンヒルデの妹なのだが、むしろ貫禄十分である。何か母親が来て娘を説得する感じ。彼女は出番こそ少ないにもかかわらず、第1幕のカーテンコールで圧倒的な歓声をかっさらていた。かつて学生時代に受験勉強をしながら聞いたバイロイト音楽祭の録音放送に出ていたような歌手を、生で聞いているかと思えば感無量である。
その他、3人のノルン(竹本節子、池田香織、橋爪ゆか)もほれぼれとするハーモニーを聞かせたと思う。3人は第3幕の冒頭で、舞台の下から出てきて、ライン川を象徴するLEDの幾本ものバーをくぐりながら歌う。この青いLEDは印象的なのだが、ちょっと簡素であり、そしてやや辛気臭い。それは赤い紐や岩山を取り囲む炎など、全体的に言えることで、もう少し贅沢な舞台を期待していた私は少しがっかりであった。お金をかけるべきというよりは、照明や舞台装置をもっと工夫できないか、といつも思う。私はここ新国立劇場で見た照明の美しさに何度も感動しているから(「夕鶴」とか「影のない女」、それに「ピーター・グライムズ」)、いつも期待してしまうのだ(「トスカ」や「アイーダ」もいい)。
やたら主役とばかりに鳴りまくるオーケストラに、今ではちょっと質素な演出。 にもかかわらず私はあっという間の6時間を楽しむことが出来た。第2幕はオペラチックな雰囲気も楽しめるが、そこで「指環」唯一の登場となる新国立劇場合唱団も、いつものように上手い。それから普段あまり気に留めないことなのだが、字幕が現代風でとてもわかりやすい。文語調だった4月の「東京・春」とは対照的である。それがあの、ワーグナーの古風で大時代がかった、まるで時代劇でも見るような雰囲気に相応しいかどうか、実際のところよくわからない。
幕間には40分程度の長い休憩時間もあり、私はいつものように屋外に出て、もうどっぷりと日の暮れてしまった夜空に映える高層ビル群を眺めながら、しばしワインのグラスを傾ける。吹いてくる風はもうすっかり秋めいており、かといって寒さは感じない。ただ少し湿気の多い天候は、ちょっとワーグナーには合わないかも知れない。
今回はどうしても文章に書くことが楽しめない。他の方々の意見も総合すると、やはりこれは個人的な問題、特にストレスと体調によるのではないか、と思っている。演奏の水準は相当高いが、なぜかあまり入り込めなかった演奏。それが個人的なものか、それとも客観的なものか、そのあたりがどうもよくわからない。でも、歌手やオーケストラのせいでレベルの低い公演は想像がつく。そうでなかった、とだけはハッキリ言えるのは確かである。
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