私のこれまでのN響演奏会の体験中、もっとも完成度の高いものだと思った。初めて聞く音楽であるにも関わらず、70分の間中私の心は、絶えず音楽に酔いしれ、立体的な合唱や打楽器を駆使したリズムに体をゆすった。舞台後方に7列にずらりと並んだ合唱団は、かすかに消え入るかのような透明な声を、まるでひとつの演奏体から発せられるような統一感を持って3階席の奥まで響かせた。
合唱だけではない。今回の独唱に起用されたロシアの若手歌手の二人、すなわちスヴェトラーナ・シーロヴァ(メゾ・ソプラノ)とアンドレイ・キマチ(バリトン)は、いずれも指揮者トゥガン・ソヒエフが音楽監督を務めるボリショイ歌劇場で活躍する新鋭である。二人はいつのまにか、オーケストラ右手後方の、丁度チェロの後あたりに立ち、指揮者を斜めから見る。この二人の出番はそれほど多くはないが、歌が聞こえてくる時には、その声量も十分であり、低い声を駆使するロシア音楽の神髄ともいうべきものを表現するのに十分である。
NHK交響楽団もまた、これほど完璧にこなしたことはないのではないか、と思われるほどであった。決してあおるような指揮ではなく、そしてまた、異様な集中力が支配するものでもない。余裕があったかどうかはわからないが、そのように感じられるような安心感というか、何か非常に身についたものがあるように感じられる。それは簡単な話ではないだろう。なぜならこのような曲は滅多に演奏されるわけではなく、そして何とプロコフィエフなのである。
オラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)は未完に終わった作品で、そもそもは第二次世界大戦中に作成されたフィルムのための音楽だそうである。すなわちソビエト社会主義共和国連邦の音楽で、その作風は共産主義の賛美一辺倒であるかの如くだ。だが、この作品はスターリンによって批判を浴びることとなる。絶賛された第1部とは変わり、第2部は凋落した作品とみなされてしまうのだ。このような経過があったことが、むしろその後の復活に大きな意味を与えたのかも知れない。
フィルムを作成したのは映画監督のセルゲイ・エイゼンシュタインという人で、彼は日本趣味に傾倒した人であった、と解説書には書かれている。そして俳句、歌舞伎といったものを愛し、戦前のソビエトにおける歌舞伎公演にも触れている。だからこの作品は、ロシア史上最初にして圧倒的な専制君主であった人物(イワン4世)を題材としているにもかかわらず、随所に日本を感じ取ることができる部分があるという。
だから今回の公演では、ナレーターに起用されたのが歌舞伎役者片岡愛之助だったということにも通じる。すなわち、これは単に人気取りのための器用ではなく、このような作品の背景を元にしている。歌詞はロシア語だが、語りは日本語で、それは今回、歌舞伎の語りであった。歌舞伎役者の話す日本語は独特の大袈裟なイントネーションを伴っているが、それがロシアの寂寞とした音楽に奇妙に溶け込む。
ソヒエフの指揮する音楽は、いつも素晴らしい。そつがないという風ではあるが、職人的な見事さに集約されていて、隙がない。かといって醒めた演奏ではない。なかなかこういう演奏に出会えるものではないとも思う。昨年聞いた「白鳥の湖」でもそれは如何なく発揮されていたが、今回、珍しい作品だったにも関わらず、その板についた指揮ぶりは我が国のオーケストラと合唱団をしても、十分に感動的であった。
第2部あたりだろうか。合唱が無伴奏となって会場に轟くシーンが何回かある。合唱は最初の2列が東京少年少女合唱隊で、彼ら・彼女らは一部始終、微動だにせず行儀よく座っている。その後方3列に女声合唱、さらにその上、最上段2列が男声合唱であった。合唱は東京混声合唱団。この配列も興味深かったが、テノール・パートが男声の左側に配置され、このパートは時にソプラノのパートと共に歌う。ソプラノ・パートは中央列の右側に配置され、この時は対角線に位置する二つの合唱のみが起立して直方体を点対称にしたような図形となる。
だからだろうか音楽が立体的で、その十分な声量は類まれな統一感を持ちつつも舞台の奥から会場へと響き、さらにはオーケストラや独唱、語りとうまく融合して時間差がない。バランスの妙味と、作品を把握する点での曖昧のなさは、もしかするとソヒエフの天性ともいうべき才能ではないか、とさえ思った。コンピュータによって計算されたような機械的なものでは決してないのである。
兎に角なんと表現しようと、私の表現力では当日の素晴らしさをうまく伝えることはできない。最初、もう少し前の方で聞いた方が良かっただろうか、と思い始めていた。最近そういうコンサートが多かったからだ。だが音響がすぐれないと言われるNHKホールでも、才能ある指揮者にかかれば、実にその音楽はどこで聞いていても魅力的であった。唯一残念だったのは、3階席から見る字幕が小さすぎて読みにくいこと、それからマイクなしで語るナレーションの声が、ちょっと分散しすぎて聞き取りにくかったことである。だがそういったことも、これほど完全な演奏を前にしては、まあどうでもよかったことにしてもいいのではと思う。歌詞を追わなくても、音楽のみで十分に感動的であった。
後半になるにつれてオーケストラのアンサンブルにさらに磨きがかかってくると、合唱の響きは無伴奏の中にあっても、時空を超えて超越的な美しさを長く保った。その音楽に触れている恍惚した瞬間に、私はこみ上げてくるものがあった。歌詞がどうの、というものではない。純粋に美しい音楽に触れただけで起こる不思議な瞬間が、そこにはあった。滅多にできない感動を味わった人は多かったに違いない。終始物音ひとつしないマナーの素晴らしい客席からは、間をおいてからは熱狂的な拍手が鳴りやまず、それは音楽を愛するがゆえに大きく、そして献身的であった。
いい演奏を聞いたと思った。すべてを聞いているわけではないが、もしかしたらこの演奏は、今年のN響のベストではないか、と思った。
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