かつてまだCDやYouTubeもなかった頃、聞きたいと思った曲や演奏に出会うのは、大変な労力を要することだった。私の中学生時代は、まだお小遣いも少なく、図書館にも録音メディアなど置かれていなかったのだが、どの曲がどういう曲で、どの演奏がいい演奏か、などを評した書籍や雑誌は山ほどあって、モーツァルトの27曲あるピアノ協奏曲のうち、特に第20番以降は珠玉の名曲がズラリと並び、孤高の名演奏が目白押しであることは知っていた。
その当時、珍しい短調の曲として知られる第20番ニ短調(K466)、映画音楽にも使われた第21番ハ長調(K467)、「戴冠式」というサブタイトルの付いた親しみやすい第26番ニ長調(K537)、それにこの世のものとは思えないほど美しい第27番変ロ長調(K595)の4曲は、私もSONYの「音のカタログ」などと称した、さわり部分だけを集めたカセット・テープなどを何度も聞きこんでは、一度でいいから全曲を聞いてみたいと思っていた。
FM放送の番組と放送される曲、それにその時間を記した雑誌を買って、ラジカセをスタンバイ。放送が始まるのを待って、わずかな小遣いで買ったテープの、その余白部分を省いた状態で録音ボタンを押すという、今から考えれば涙ぐましい作業も昔話となり、「エア・チェック」という専門用語は死語となってしまった。レコード屋に行けば、数千円でLPレコードを買うことはできたのだが、それが果たして「最も優れた」演奏であるかは評論家の意見に頼るしかなく、それが裏切られることもしばしばであることを想像できた。だから、廉価版と呼ばれる再発物でなければ、なかなか手を出すことはできない。これらは少し古い、あるいは「ニ番手」の演奏が中心なので、どうしても「もっといい演奏があるのではないか」との疑念が晴れることはない。気に入らない演奏に出会うと、再生装置が悪いのかも知れない、などと余計なことを考え、それは限度がない。
そういうわけだから、フリードリヒ・グルダがピアノを弾き、クラウディオ・アバドがウィーン・フィルを指揮したレコードが発売され、評価が高いと知ったときは、一度でいいからこの演奏を聞いてみたいと思ったものだ。もっとも私は当時、K466を知らず、カップリングされているK467の方を聞きたいと思った。この曲の第2楽章はクラシック好きでなくても知っている有名な曲で、そういう部分だけを集めたLPがうちにあったのだが、全曲を通して聞いたことがなかったのだ。
そんな折、私が高校入学のお祝いに、親戚の叔母さんが好きなものを買ってくれることになった。予算は5000円というから、私はカルロス・クライバーのベートーヴェン(第5番)とグルダのモーツァルトを所望した。前者が2400円、後者が2600円だった。近くのレコード屋にはこれらの在庫がなく、仕方がないから大阪・梅田のクラシック専門店(大月楽器)に出かけて買ってくれたのを思い出す。
さて、私はこのLPの演奏を聞くことによって、K466の方の魅力に触れることとなった。それはまず、第2楽章の例えようもない美しさを私を襲うことから始まった。ここで際立つのはグルダのタッチの明晰さである。強さ、響きの正確さ、前後の音との間隔がすべて完璧なのである。それがアバドの、丁度良い程に引き締まり、真面目で無駄なところのない伴奏に絡み合う様は、今聞いてもほれぼれする。そしてこの部分で感じることのできるモーツァルトの孤高の淋しさは、モーツァルトに対する別の側面を浮かび上がられる。
そしてとりわけ私を驚かせたのは、両端の楽章で弾かれるカデンツァが、あのベートーヴェンによるものであると解説にあったことだ。第1楽章の終盤で、まるでモーツァルトの音楽に挑むようなベートーヴェンの曲は、その数年後にピアノの名手としてウィーンに知れ渡るこの世紀の作曲家の面目躍如たる名曲である。モーツァルトの音楽を壊すことなく、尊厳にあふれてしかも自然に、そして雄弁に、その先の音楽を提示している。いわばモーツァルトの中にベートーヴェンが居るのである。
静かに入るピアノの、恐ろしい程の旋律は、第3楽章の冒頭で激情的な冒頭で回帰される。ウィーン・フィルの少人数編成の伴奏が、アバドの現代的で理性的な指揮によって迸る。オーボエのうら悲しいモノローグや、コーダで荘重に吹かれるトランペットによって、音楽的空間は宇宙のような広がりを持つ。グルダのピアノは真剣で敬虔に満ちているが、それはモーツァルト音楽の持つ魅力をできるだけ素直に表現しようとした結果であるように思う。
グルダのモーツァルトは、同時期に録音されたK537とK595のカップリングも出ていたが、こちらの演奏を聞くことが出来たのはさらに4年後、韓国で買ったカセット・テープによってのことだった。気が向いた時に、好きな曲だけを演奏するようなグルダのスタイルは、聞き手にもどかしい思いをさせたが、そのグルダがK537を再録音するのはアーノンクールとの出会いによってであったのも天才的なひらめきだったのだろう。この演奏も大変に素敵で、「戴冠式」という通俗的な曲を面白く聞かせている。大いに気に入って、また次の演奏をと待ち望んでいたが、2000年に70歳で急死してしまった。心臓病で倒れたまさにその日は、敬愛するモーツァルトの生誕の日(1月27日)のことであった。
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