2018年10月15日月曜日

モーツァルト:歌劇「魔笛」(2018年10月14日、新国立劇場)

ヨーロッパで探検ブームが沸き起こり、ナイル川の源流を求めて探検家が活躍するのは19世紀に入ってからだが、フランス革命直後の18世紀末頃には、すでに知識レベルでの異郷の地に対する流行が生じていたらしい。そういう事情があってなのか、モーツァルトはシカネーダー一座のリクエストに応えて「魔笛」を作曲した時、その舞台に選ばれた架空の地は、古代エジプトであった。それも、エジプトを南下してスーダンやエチオピアまで達する地域。そこはブラック・アフリカの入り口でもあり、シバの女王の伝説やアスワンの神殿などのある地域である。

神秘的で謎に包まれた神話の世界に、これまた謎めいたフリーメイソンの秘儀が重なり、「魔笛」の解釈は複雑極まりない。そこに付けられた、死を2か月後に控えたモーツァルトの限りなく純粋で美しい音楽が、かえってその不思議なコントラストを強調する。だから「魔笛」の解釈は、いくらでも難しいものにすることができる多面的で奥深い作品である。

ウィリアム・ケントリッジは南アフリカ出身の現代美術家で、木炭を用いたドローイングを使用するアニメーションで有名である。彼が最初に取り組んだオペラ演出が、2005年、ベルギーのモネ劇場から委託された「魔笛」であった。そのスペクタクルな舞台は評判となり、世界中で上演されてきた。ケントリッジもその後、ショスタコーヴィチの「鼻」やベルクの「ルル」など、数年に一度の割合でオペラ演出を手掛けている。「魔笛」に関していえば、ミラノ・スカラ座でも上演され、その公演はビデオとして売られているし、放送もされたようだ。

その評判の舞台を、作品の上演権と舞台装置丸ごと買い取り、東京に持ち込んだのが今シーズンからの音楽監督で、当時モネ劇場の音楽監督だった大野和士である。彼は様々な機会で、就任第1作となる今シーズンの「魔笛」を、それはきれいな舞台だから、とあちこちで言っており、私もその言葉に乗せられて、発売日にS席を購入してしまった。数ある舞台の中でも最強の価格設定となり、S席は何と2万7千円。妻と二人だから、5万4千円という出費である。これは私が過去に出かけた300回にも及ぶコンサート中、最高額の部類に入る。

当日券も残っていたS席を発売と同時に購入したのは、その席が前の方、すなわち最前列から5列目の中央という、これも私のオペラ鑑賞史上初めての経験となる至近距離の席を確保するためであった。どうせ見るなら、この演出は前の方で見る方がいいに決まっているし、歌手の声がダイレクトに響き、それを一挙手一投足指揮する指揮者とのやりとりも見てみたい。いつもは3階や4階の席にしか縁がなかった私も、齢50を過ぎれば少しは大きな出費も覚悟しなければ、人生に何度もない経験は得られない、と思った。

「魔笛」に妻を誘ったのは今から23年前、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で初めてデートをした際に見た演目だからでもある。彼女はモーツァルトと同じ1月27日の生まれで、そういうこともあってモーツァルトが大好きである。だが、それから「魔笛」からは二人とも遠ざかっている。第一揃ってオペラに出かけるなどということは、余程のことがないとできない贅沢でもある。「ドン・ジョヴァンニ」、「コジ・ファン・トゥッテ」それに「フィガロの結婚」というダ・ポンテ作品を数年に一度の割合で初体験した以外は、モーツァルトのオペラを長らく楽しんでいない。

そんな我々に、ケントリッジの「魔笛」がやってきたのである。そして終演後には代々木のイタリアン・レストランを予約し、満を持して出かけた本公演は、一連の千秋楽、日曜日のマチネーである。会場はほとんど満席ではなかったかと思う。会場に入ると、一面に白黒で描かれた部屋の中が舞台にあり、東京フィルハーモニー交響楽団が熱心に練習している。そしていざ序曲が始まると、今では主流となった古楽器奏法で一気に演奏されるローランド・べーアの指揮のテンポが、大変好ましい。それは私が最高だと思うアバドの新録音を思い出させるもので、古めかしくかび臭い「魔笛」の、昔のだらだらした演奏とは一線を画す。オーケストラも良くついてくるし、ほとんどミスのない演奏は、大変充実したものだった。

さて、あまりに書くことの多い本公演について、一体何から書き始めればいいのだろうか。私は一部始終舞台に釘付けとなり、めくるめく舞台の映像と、歌手の見事な歌声(それはすべての歌手が素晴らしかった)、そして本公演に特別に付けられたフォルテ・ピアノの伴奏に乗った台詞や、稲妻と炎の燃え盛る音、会話の節々にコミカルに響く木魚のような効果音。長いセリフも飽きないどころか、これほど無駄なく、流れるように展開する「魔笛」に惚れ惚れしていく。

総じて日本人歌手の気合の入った歌声が目立つが、それはそれで熱い思いが伝わってきて私は好感を持つ。それも技量が伴うからで、筆頭格はパミーナの林正子。彼女の声はドラマチックで、パミーナの純情性に相応しくないなどと言う批判は、実にくだらない。むしろ力強い女性の意志こそが、「魔笛」には相応しい。何といっても彼女は夜の女王の娘なのだから、むしろ当たり前といえば当たり前である。

その夜の女王は、安井陽子の超高音でも安定した歌声がこだまして、それに呼応する星の煌めき!3D作品を見ているように前後に動くと、プラネタリウムでも見ているような、どこか別の世界にでもいるような錯覚を覚える。コロラトゥーラの歌声は、新国立劇場の定番で、以前の公演にも彼女が出演しているようだが、完璧に決まるその歌に酔いしれる。2つのアリアは、この演出版の最大の見せ場でもあり、そしてその感動のレベルは、疑いなく最高のものであった。

オペラというのは見る人によって随分と印象が異なるようで、事前に探ったTwitterやブログでは、あまり評価の芳しくない意見が多いのはよくわからない。それもその文章から、そこそこの音楽好きで経験豊富と見受けられる人まで、様々な意見が飛び交っている。だが、私は素直に本公演が素晴らしいと思った。本公演が良くないというなら、一体その人はどのような公演を聞いてきたのだろうか、それとも余程の暇とお金を持ち合わせている人とも思った。オペラがすべての観点から、いいと思える機会などそうそうないのである。ひどい場合には、まるでダメな公演も多い。そんな中で、私は本公演に90点を付けたいと思う。あとの10点は、3人の童子がボーイ・ソプラノでなかった点だ。でも我が国でこの役を原語で歌える少年を3人も探し、平日の昼間から舞台に立たせるのは、至難の事であると思う。だからこれは極めて贅沢な不満である。

3人の侍女(増田のり子、小泉詠子、山下牧子)は、最初からパワー全開で、身震いがする。彼女たちとタミーノ、パパゲーノが歌う5重唱などは、私も涙が出るほどに美しかった!身震いがするほどの見せ場は、次々と映し出されるプロジェクション・マッピングに呼応して、感心することに余念がない。月や太陽、蛇にライオンなどの動物たち、モノスタトスとパミーナの影絵、くるくる回る星や三角定規から映写機を描き出すアニメーション、鳥かごにいる小鳥たちの仕草や、少年たちが乗って登場する黒板の中にも、次から次へと描かれては消えてゆく。それを追うだけで楽しく、字幕(英語もあった)を追うことすら忘れてしまうほどである。客席に座っているだけで、目と耳のすべての感覚がモーツァルトの音楽と舞台に馴染んでいく。その魔法のような時間!

パパゲーノの笛は古楽器風のそれで、ややくすんだ音色が印象的。一方、タミーノのフルートは演技も素晴らしくまるで自分で吹いているかのよう。グロッケンシュピールはオルゴールのような箱。全体に少し低音にしてあるのが、こだわりか。前方の席からは、小道具のひとつひとつまで、手に取るようにわかる。パパゲーナはいつものように最初は頭巾をかぶり、老婆を装っていたが、それを取ると蝶々のような衣装をひらつかせる。九嶋香奈枝は出番こそ少ないものの、可憐で愛らしいこの役に成りきって歌声も澄んでいた。

ザラストロ。この低音の魅力を、何といったらいいのか、長身で若いサヴァ・ヴェミッチというセルビア人。だがこの役は、彼の十八番になるだろうと思う。その存在感は、他のものを圧倒するほどで、そうでなければザラストロではない。ケントリッジの映像は、アスワンにあるイシス神殿のように豪華なもので、最終シーンではそこに登壇していくタミーノとパミーナが、巨大な目の中に吸い込まれ、やがてはシルエットとなって放射状に迫りくる星の中で結ばれると言う感動的なものだった。

本作品の主役はタミーノである。タミーノは高貴で済んだテノールでなければならないが、スティーヴ・ダリスリムという歌手に私は及第点を差し上げたいと思う。最初は少し緊張していたようだが、それでもパミーナとの二重唱などでは不足がない。欠点がないという点で、十分合格点だろうと思う。パパゲーノのアンドレ・シュエンは長身で細身のバリトンだが、やはり私は悪くないと思った。タミーノよりも背が高いので、ちょっと違和感があると言っていた人がいたが、それは容姿の問題で仕方がなく、それにこの二人は音域が異なる。

悪役のモノスタトスは升島唯博。彼の声は、失礼ながらヤッキーノやミーメのような姑息な役にピッタリである。意外と出番が多いというのが、私の今回の印象。やはり及第点の出来栄えで不足がない。その他、僧侶や弁者に至るまで、最終日の公演ということもあったのか、非常に気合の入った歌声が響き、妻はバランスが悪いと言っていたが、私はこのような脇役にまで強力な舞台は大歓迎である。それから何といっても新国立劇場合唱団。彼らの歌は、プロの歌で、その見事な声は前方で聞くとさらに素晴らしい。

ケントリッジの「魔笛」を解くカギは、啓蒙主義の光と影である。アフリカに進出した欧米列強は、またたくまにこの大陸をほぼすべて植民地化し、悪名高き人種隔離政策を生んだ。モーツァルトが「魔笛」を作曲した頃は「啓蒙主義がもっとも輝いていた時期」だが、その後の戦争や殺戮を生んだのもまた啓蒙主義だった、と彼は言う。人間が神から解放されたフランス革命の直後、神に変わって権威を持つのは、このような人間中心主義だったのも事実である。

だからザラストロが「第九」のモデルともなった、人類の調和を高らかに崇高なアリアを歌う時、アフリカで残酷に殺されていくサイのモノクロ映像をぶつける。動物たちはグロッケンシュピールに合わせて踊りだすと、そこには不自然な優勢思想さえ感じさせる。何が善で、何が悪であるかは、実際には決めつけることなどできないのだ。だから白と黒は入れ替わる。ケントリッジの描く白黒の線は、書いては消え、消えては書かれる。まさに価値観の相対性を示している。

死の直前に猛烈なスピードで作曲された「魔笛」は、シカネーダーの一座によってウィーンで初演された。その中に錚々たる実力歌手たちが大勢いて、この一期一会の作品が生まれたのだと大野和士は解説している。夜の女王とザラストロの価値観が入れ替わり、崇高だが他愛もない演劇として上演された作品を、21世紀に生きる我々が同じ気持ちで鑑賞することはできないだろう。この二百年間の歴史の中で起こったことを、私たちは知っているからだ。そのことを思えば思うほど、モーツァルトの音楽が美しく聞えてくるから不思議だ。そして今回の舞台も、様々に複雑な深遠さを持っているにも関わらず、例えようもなく美しい。子供のおとぎ話は、立派に大人の演劇でもある。幻想的で、そこはかとなく暗い「魔笛」の公演は、今後しばらく新国立劇場で上演されるだろう。ただこの舞台は、前方で見るに限ると思う。もし本演出版に欠点があるとするなら、見る人の座席の位置によって、感じ方に違いがあり過ぎるという、まさにそのことだろう。公演をビデオで収録してもよく伝わらず、1階席の少し後方においてでさえ、魅力が半減するような気がする。

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