2018年10月4日木曜日

読売日本交響楽団演奏会(2018年10月3日、東京芸術劇場)

マーラーの交響曲第8番は、そう何度も実演に接する曲ではないのだが、私は2度目である。もっとも前回は1992年のことで今から四半世紀以上も前、ということになる。この時も今回と同じ読売日本交響楽団だった(第300回定期演奏会)。これは偶然である。

ただ25年もたつと私も50代になり、楽団員も大多数が入れ替わっている。その時指揮したズデニェク・コシュラーはもうずいぶん前に亡くなった。だから同じオーケストラで聞くといっても、ほとんど違う演奏家だということになる。指揮者の井上道義は、当時すでに人気を確立していた名指揮者だったが、もう70代にさしかかったそうだ。スキンヘッドの容姿と長い手を表情豊かにくねらせて大きく指揮する姿は昔から変わらず、元気で茶目っ気たっぷりだが、数年前に病気を患ったようで、そのことによって音楽に変化があったかどうか、そのあたりは私もあまり聞いていないのでわからない。

読響がこの一日だけのコンサートに、どうしてこの曲を選んで演奏したのかは不明である。ただこの日の演奏会は東京芸術劇場の主催だった。そのため黒い表紙のプログラム・ノートが配られた。雨続きだった東京もようやく秋の気配が濃厚となり、涼しい風も吹き始めた10月。池袋に私は会社を終わると直ちに駆けつけた。チケットは売り切れ。長いエスカレータを乗り継ぎ、今日はS席でこの大規模な曲を味わう。

マーラーの交響曲はこれまですべて一度は聞いているが、深遠な長い旅路へ連れ出してくれる演奏に出会うかどうか、それは聞いてみなければわからない。この第8番はその規模に圧倒されて、演奏する側も相当気合が入るし、聞く方も身構える。けれども壮絶な第1部と、終結部以外に長い第2部の物語が存在する。ここの精緻でロマンチックな部分が聞きどころだとわかったのは最近のことである。思えば26年前に接したこの曲も、オーケストラと指揮者、それに合唱団が繰り広げる迫真の演奏とは裏腹に、等身大の曲の魅力を味わうだけの余裕が、少なくとも私にはなかった。だから、今回はそういう時間を経た後での再挑戦と言うことになる。

第1番「巨人」、第2番「復活」、第3番、それに先日聞いた第4番、さらには「大地の歌」で私は、もうこれ以上望めないだろうと思うような演奏に接している。第8番でも同じことが起こるかどうか、それは聞いてみないとわからない。今回の演奏は、しかし私を十分に満足させる感動的な演奏であったことは確かである。客観的に考えれば、もっと完璧な演奏は存在すると思う。だがそこに私が接することができるかどうかは、相当怪しいのであって、そういう意味で私のマーラー演奏会史に深い印象を刻んだことは間違いない。

もっとも素晴らしかったのは、TOKYO FM少年合唱団だったと思う。舞台に向かって右上の2階席前方に位置した彼らは、みなが小学生だったのではないかと思うような顔をしていたが、大きく口をあけて一生懸命ラテン語とドイツ語で歌う歌詞を、すべて暗譜で歌っていることに驚いた。この曲における特に第2部の少年合唱団の印象は、涙が出るほどにきれいだ。

次に素晴らしかったのは4人の女声陣たち。ソプラノの菅英三子、小川里美、森麻希、アルトの池田香織、福原寿美枝。早々たる布陣の歌声が会場にこだまする時、その声は大勢の合唱やオーケストラにも負けない迫力が際立っていた。

彼女らは第1部では舞台の後、合唱団の最前列に並んでいたが、後半になると男声陣が指揮者の前に移動し、森麻希は舞台上のオルガンの位置に移動。残った3人がそのまま合唱団の前に残っていた。その舞台上のオルガンの横には、金管楽器が何人も並び、クライマックスのトゥッティをさらに強調する。その凄まじさ!

男声陣は少し弱かったが、それも相対的な話であって、まあこの長い曲を無難に歌ったと言える。テノールは、フセヴォドロ・グリフノフ、バリトンに青戸知、それにバスがスティーヴン・リチャードソン。

舞台後方と2階席前方に並んだ数百人の合唱団は、首都圏の音楽大学に通う学生たちで、この日のために結成された合同コーラスだったが、人数も多く熱演である(指揮は福島章恭)。ここは少しアマチュアの香りがしたが、よく練習していて、それぞれのパートが引き立ち聞きごたえがある。特に向かって左側2階席に並んだ女性の十数人は、第2部になって白いジャケットを身に付けると言うヴィジュアルを意識した力の入れよう。さらには舞台上方に日本語の字幕まであるという至れり尽くせりの演出である。

思えばCDなどで聞くこの曲の合唱では、どこのパートをどの人たちが歌っているかなど、細かいことはよくわからない。けれども実演で見ると手に取るようにわかり、その楽しさは十分である。歌わないときの表情までも含め、音楽は実演に勝るものはないと今回も実感した。そして井上のダイナミックな指揮ぶりは、やや一本調子のようなところがないとも言い切れないが、聞きごたえ、見ごたえは十分。弛緩することはなく、全体を良くとらえており、特に第1部の後半と第2部のコーダは見事という一言につきる。私は背筋を伸ばし、しばし圧巻の音量に身を委ねる。

第2部での中間になると、随所に聞きどころとなるメロディーが続く。ハープ、チェレスタ、それにマンドリンまでもが加わる。そういったフレーズのひとつひとつを、微妙なニュアンスまでも磨きにかけ、表情付けが行われたかと言われれば、実際はもう一歩とも思った。だが、そういう細かい部分も、後半の怒涛のような盛り上がりになれば、一気に身は引き締まり、このパワーに負けてはならぬと構えて聞く。

読響は明らかに26年前のオーケストラとは、比べ物にならない程数の技量であることは確かであった。そして、マーラーの演奏会もごく当たり前となった今、余裕させ感じられる。ソロパートをもう少し印象的に聞かせたり、といった細かい部分は、指揮に負うものだろう。ということは今回のコンサート、全体的に十分満足の行く完成度だった。

割れんばかりの拍手が10分は続いたと思う。嬉しそうな出演者と、満足そうな観客が一体となって、このマーラーでもっとも明るく祝祭的な曲の魅力を味わうことができた夜だった。機会があれば、勿論他の演奏も聞いてみたいが、残り少ない人生の中で、一体そういう機会が訪れるのかどうか、それは神のみが知るところである。だから私はこの演奏会を大切にしたいと思ったし、それは見事に達成されたのだった。

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