2019年2月17日日曜日

ヴェルディ:歌劇「椿姫」(The MET Live in HD 2018-2019)

暗い舞台の真ん中にベッドが置かれている。前奏曲の冒頭から、そこにはヴィオレッタが横たわっていて、肺病に苦しんでいる。これから起こる出来事は、すべてが回想である。前奏曲が終わると一転、華やかな舞台に登場するパーティの参加者たち。色とりどりの衣装を着た人たちが、グラスを片手に歌いだす。

ミュージカルで有名な演出家がオペラを手掛けることが、ここ数年のMETの潮流になりつつある。その賛否はともかく、トニー賞を受賞した気鋭の演出家、マイケル・メイヤーのカラフルで豪華な舞台は、多くの聴衆がこの作品に抱くパリの豪邸とそこに集う人々のイメージをそのまま再現している。若干、アメリカ的趣味ではあるとしても。

私はこの舞台を見て、あの名作、フランコ・ゼッフィレッリの映画を思い出した。その冒頭のシーン、どんよりと曇ったノートルダム寺院の無音部分が終わると、一人の少年が美しい女性の肖像画に見とれるシーンから始まるのだ。テレサ・ストラータスの演じるヴィオレッタは、咳込みながら迷宮に迷い込む。聞こえてくる歓声に戸惑いながらも吸い寄せられ、一気に社交界の花形の舞台に躍り出る。困惑する間もなく、あれよあれよといううちに現れるアルフレード、そして二重唱。すべてが夢の中で繰り広げられる魅惑の日々。私がオペラと言うものを初めて経験し、そしてノックアウトされたその映画については、かつて何度か触れた。

METのライブ・シリーズとしては何度目かだが、新演出にしてヤニック・ネゼ=セガンを芸術監督に迎えてのデビュー作品となる「椿姫」にヴィオレッタ役として起用されたディアナ・ダムラウは、幕間のインタービューで何とこの映画について触れている。彼女もまた若干12歳だったかの頃、オペラを初めて体験したのがこの映画だったというのだ。彼女がその後、世界的ソプラノ歌手に登りつめるきっかけと成った作品が、私も大阪・梅田の小さな映画館で、ある雨の降る日に見たのと同じ作品だった、というわけだ。虚無と焦燥に満ちた日々。そこに出現した「トラヴィアータ」という作品。この映画が私に与えたインパクトは強く、以降、私が「椿姫」を見るたびにどうしても頭から離れられない作品なのである。

このインタービューによって、俄然私の今日の作品を見る目が変わった。それまで何となく締まりのないものに感じていた今回の公演が、目に見えて良く思えて来たのだった。ダムラウのヴィオレッタは、演技と歌ががっぷりに組んだ見事なものだったが、特に第3幕での演技は圧巻である。もうほとんどの歌が空で歌えるくらいに聞いてきたと言うのに、どうして何度見ても見入ってしまうのだろうか。誰がどう演じたとしても、ここの第3幕、すなわち前奏曲とアリア「過ぎ去りし日々」そして「パリを離れて」は、あらゆるヴェルディ、いやオペラ作品の中でも右に出るものはない、とさえ思う。自らの肖像画の入ったペンダントを渡し、「清らかな乙女が 貴方に心を捧げたとしたら、 その人にこの絵姿を渡してください」と伝えるシーンを、涙なくして見ることはできようか。

全体にカラフルな新鮮味はあったものの、聞きなれた「椿姫」の総合的な印象というものを覆すことには重点は置かれず、むしろイメージ通りの進行に合わせる今風の保守性を感じる結果となった。そのことで私を少々がっかりさせたが、ダムラウを始めとする出演陣は、フレーズの中から、それまで意識されていない部分を探し出し、スポットライトをてようと努力していたように思う。そのことが成功したかどうかは、わかりにくい。ただ、ダムラウの歌のフレーズの一つ一つが、そういったこだわりのある新鮮味を持とうとしていたことは感じられた。

いやむしろ驚いたのは、クイン・ケルシー演じるジェルモンである。彼ほどヴェルディを感じさせる歌唱をジェルモンに与えたことはない。特に「プロヴァンスの海と陸」を歌った頃からだったと思う。この有名なアリアが、これほど見事なヴェルディ・バリトンによって歌われたことはない。その容姿を、もっと威厳のある父親風に仕立てれば、完璧だった。これは衣装の担当であるが。もしかすると、今宵もっとも成功していた歌手は、ケルシーだったかも知れない。

ヴィオレッタとアルフレードが別々にパリに舞い戻り、フローラの館で催される舞踏会が始まるシーンは、私がもっとも好きな部分だ。次々と現れるバレエ・ダンサー、そして賭けのシーン。心臓が高鳴り、緊迫感を出すこのシーンは、手に汗を握るほどである。そして私はまた、ゼッフィレッリの映画を思い出し、涙さえも禁じ得ないのだ。

今回の演出では、久しぶりにちゃんとバレエが楽しめた。しかしネゼ=セガンの指揮は、なんとなくぎこちなく、丁寧でしっかりとはしていたが、あのヴェルディの迫力を感じることはなかった。この指揮者は、もっと流麗で小気味いいテンポの演奏をするものと思っていたが、そのあたり少し意外である。

アルフレードを歌ったペルーのテノール、フアン・ディエゴ・フローレスは、ベルカント・オペラの第1人者ではああるが、そのやや能天気なまでの白痴性が、アルフレードの直情径行でプライドの高い人物像とあまり相性がいいとは言えない、と思った。歌としては完全だが、存在感がないのだ。彼はやはりドニゼッティやロッシーニにおいて真価を発揮すると思う。だが、このオペラの主役は、一にも二にもヴィオレッタである。そのことを考えれば、フローレスのアルフレードもまあ許容範囲ではある。

総じて及第点の舞台も、終わってみればそれなりに見どころは多く、楽しめたことは違いない。だけど、あのヴェルディのゾクゾクするようなリズムとメロディーがやや後退し、変わって万人受けする舞台と予定調和的な演出が、どことなくネット文化主流の今風の時代迎合的に見えてしまうのは残念である。世界的に、こんな風な舞台が主流になってゆくのだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...