シェーンベルクはマーラーの後を継ぐ新ウィーン学派のひとりで、ベルクやウェーベルンと並び称される20世紀の大作曲家である。出会いは「浄夜」だったか。カラヤンがこれらの作曲家の作品を集めた2枚組のCDを、私は結構若い頃に買った。だが実演となると、むしろベルクの歌劇「ヴォツェック」や「ルル」といった曲の方が早かった。これらの音楽は調性を無くした無調音楽で、それはつまりクラシック音楽の破壊、終焉を意味していた。だから聞いていてさっぱり楽しくない。少なくとも私は、その魅力を感じるだけの資格がない。でもこれらの音楽は、マーラーの後、クラシック音楽が向かうその先を見定めるために、何としても「聞かなくてはならない曲」として私の前に立ちはだかっていた。
だから、そのシェーンベルクの作品と聞いて、これは我慢のコンサート。2時間余りに及ぶ超大曲を、必死になって聞き続ける試練の時間となる覚悟だった。だがそれは、最初の一音が大野和士のタクトによって開始された瞬間に裏切られた。何と、これは実に聞きやすい曲なのだ!
オペラを思わせる音階は、誤解を恐れずに言えばワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を思わせた。確かに不調和音はあるものの、聞けない曲ではない。そして長く続く切れ目のない音楽の後に登場するヴァルデマール王(クリスティアン・フォイクト)のヘルデン・テノールと、トーヴェ(エレーナ・パンクラトヴァ)のソプラノの歌唱は、この1時間にも及ぶ第1部の間中ずっと続く。この第1部には合唱はまだ登場しない。時に賑やかな部分もあって、そこだけは何となくリヒャルト・シュトラウスを思わせるが、それもそのはずで、シェーンベルクの財政的な支援と音楽的なアドバイスを行ったのは、シュトラウスだったようだ。
シェーンベルクがこの曲を作曲し始めたのは1900年とされており、この時点でマーラーはまだ交響曲第5番あたりを作曲していたから、その絶頂期にあったと言える。それから11年の年月を経て「グレの歌」が完成された。だから、これはまだ十二音階技法が確立する以前の作品となっている。オペラ風の第1部の後、休憩を挟んで演奏される第2部は非常に短く、そのあとは膨大な人数を必要とする大規模なカンタータ風の作品となるあたりは、非常にバランスを欠いたものとも言えるし、統一感がないような気もする。結果的にこの作品はロマン派に所属し、その最後を飾る超大作となった。
物凄い人数の演奏者を必要とするので滅多に演奏されないはずだが、我が国では結構毎年のようにどこかの団体が演奏している。今年は3月に読響が演奏したばかりである。CDにも名演が多く、定評のあるアバドやラトルを始めとして小澤征爾もその中に名を連ねている。どれだけの人数を必要とするのか、Wikipediaを参考に以下に記すと、
- ピッコロ4、フルート4、オーボエ3、コーラングレ2、クラリネット(A管およびB♭管)3、バスクラリネット2、小クラリネット(E♭管)2、(以上編入楽器はすべて持ち替え)、ファゴット3、コントラファゴット2
- ホルン10(うち4つがワーグナーチューバと持ち替え)、トランペット6(F管、B管、C管からなる)、バストランペット(E♭管)1、アルトトロンボーン1、テナートロンボーン4、バストロンボーン1、コントラバストロンボーン1、チューバ1
- ハープ4、チェレスタ、ティンパニ6、テナードラム、小型と大型のバスドラム各1、シンバル、トライアングル、タンブリン、グロッケンシュピール、木琴、ラチェット、チェーン、タムタム
- 弦楽五部(第1・第2ヴァイオリン各20、ヴィオラ16、チェロ14、コントラバス10)
- 語り手1、ソプラノ1、メゾソプラノ1、テノール2、バス・バリトン1、3群の男声四部合唱、混声八部合唱
- 指揮者
そういう大規模な曲だから「一千人の交響曲」と同様、コンサートの限界を越えつつある。一斉にトゥッティを鳴らす第3部のコーダなどは、ホールの残響が加わると何がなんだかわからないようになるが、第1部は非常に精緻に作られた曲という印象。
その第1部では、春の心地よさが睡魔を誘い、眠たくもなってしまったのだが、それを一気に吹き飛ばしたのが山鳩(藤村美穂子)の歌声だった。彼女は張りのある声を会場に轟かせると、見事に雰囲気が変わった!これほど見事に存在感を浮き立たせ、かつ深遠な悲しさを表現した演奏を知らない。あとでいくつかの録音を聞いてみたが、この山鳩は瞠目すべき出来栄えだったと思う。実際カーテンコールの際には、会場がどよめくほどのブラボーが沸き起こったのだから。
それに比べると、ジークフリートも歌うヘルデン・テノールが期待されたクリスティアン・フォイクトは、第2部において、次第に精彩を欠く出来に終始したことが非常に悔やまれる。一方、第3幕になって登場する3人のソリストは、それぞれが個性的で見ごたえのあるものだった。まず、農夫(甲斐栄次郎)が登場。威勢のある歌声で実力を示す。そして次には、酔っぱらった格好で演技も交えた道化師クラウス(アレクサンドル・クラヴェッツ)が会場の注目を集めた好演。最後に登場した語り手(フランツ・グルントヘーパー)は、杖をついて舞台右袖からゆっくりと登場した時には、これもまた演技かと思ったが、どうやら本当に足を悪くしていたみたいで、公演が終わった後も指揮者に支えながら退場した。
おそらくエキストラも大量に動員されたのだろう。木管の一群だけは舞台に早々と居座って練習に余念がなかったが、それも一夜限りの一発勝負とあっては力が入るのも当然で、聞く側もそれ以上に真剣である。一方、期待された東京オペラ・シンガーズはやや粗い面も残ったが、それでも定期演奏会にはない気体と興奮が会場を満たし、詰めかけた聴衆はみなこの曲の演奏に期待を寄せていた。いつもは定期会員やスポンサーの招待で醒めた客が多い中、今日のコンサートは違っていた。それを演奏する側も感じ取ったのであろう。難しい曲ながら聞き手を飽きさせることなく、音楽的な純粋さを持って曲の魅力を引き出した名演となった。
鳴り止まない拍手に応えて、パートごとに起立をさせてゆく指揮者に笑顔がこぼれる。それでも音楽は、鳴っては消えてなくなる芸術。だから桜の咲く春が似合う。でも今年の桜は、もうほとんど散ってしまった。 そして今年の東京・春・音楽祭は、この公演を持って一連の演奏会を終了したことになる。
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