2019年5月11日土曜日

新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会・ジェイド#606(2019年5月10日、サントリーホール)

これまで在京の6つの主要なオーケストラを、折に触れて聞いてきたが、新日本フィルハーモニー交響楽団だけはどういうわけか、感動したコンサートがなかった。といっても数えれば、ほんの数回しか聞いていないので、まあ運が悪かっただけなのかとも思っていたが、最近は特にプログラムや指揮者にこれという魅力が感じられず、結果的に私にとって、これまでにもっとも印象に残らないオーケストラだった。

その新日フィルは、日本フィルハーモニー交響楽団から分裂する形で、1972年に小澤征爾らによって設立された、比較的歴史の浅いオーケストラである。だからなのか、昔から楽団員に女性が多いという印象が、私にはあった。テレビ番組「オーケストラがやって来た」で舞台に上がるのは、山本直純が指揮する新日フィルだった。音楽監督は初代が小泉和裕、第2代が井上道義、第3代がクリスティアン・アルミンク、そして現在は上岡敏之となっている。近年は墨田区に拠点を移し、錦糸町にあるすみだトリフォニーホールを中心に活動をしている。

私は、上岡敏之という指揮者のことをほとんど知らなかった。私よりも6歳年上の、やや痩身の彼は、随分昔からドイツの歌劇場などを中心に活動をしていたみたいだが、これまでに聞く機会もなく、それに加えて外国でも特に大きな評判となるような指揮者でもなかった。2016年に新日フィルの音楽監督に就任してからは、我が国での演奏の機会も増えたようだが、専らドイツ音楽に定評があるその指揮も、総じて地味な印象だった。けれども、演奏会を知らせるチラシを読むと、歌劇場での下積みを着実にこなし、大器晩成型を思わせるその経歴に、私は興味を覚えた。コンクールで優勝するような若い指揮者にはない、本場物の味わいがあるのではないか、そのように思ったのである。

もっとも私は今回の、ワーグナーの主要作品ばかりを並べた定期演奏会に行くことを決めたのは、開演のわずか20分前のことで、サントリーホールのチケット売り場で、当日券があることを知った時だった。チケットは非常に多くが売れ残っており、実際、会場に入ってみると約5割か、それ以下の入りだったと思われる。期待を抱く人が少ない演奏会だとしたら、その出来にも影響を与えるのではないかと少々不安にもなったが、オペラではない形態でワーグナーの曲ばかりに耳を傾ける機会は、案外そうあるものでもない。オペラハウスでは視覚的な要素が優先され、それはワーグナー自身も望んだことだが、オーケストラはピットの奥に入って音響効果も悪く、いわば主役をドラマと、それを演じる歌手に明け渡すような部分があるのは否めない。オーケストラと指揮者も、歌手や演技に合わせるだけの注意を持つのそうでないのとでは、おのずと音楽自体の完成度に影響が出ることは自然なことではないか。

プログラムの最初は歌劇「タンホイザー」から序曲とバッカナールで、これはパリ版に基づくということになる。「タンホイザー」の序曲は、中世の巡礼の道に深く入り込んでいく旅路への荘重なプレリュードだが、ドレスデンを追われたワーグナーが、亡命先のパリで演奏するために書き換えられたこの序曲は、終盤からドンチャン騒ぎになっていく。不本意にバレエを挿入する慣例に従ったワーグナーは、むしろ余計な部分を最初にまとめ、以降は純粋に音楽に浸れるようにしたのではないか、という気がする。

ここでは少しオーケストラにまだ硬さが見られたが、こういう賑やかな音楽は、次の楽劇「トリスタンとイゾルデ」の「前奏曲と愛の死」に向かうための、いい準備運動となったようだ。「トリスタン」の不協和音が響き、それが最後まで合わさることなく進む斬新な音楽である。この重要なモチーフをオーケストラが鳴らしたとき、私は身震いのようなものを覚える。上岡の指揮する新日フィルは、こういう精緻な部分にまで神経を行きわたらせるもので、外見上の派手な動きも、音楽的な効果も抑制的なのだが、それでいて芯があり、さらには計算された原典への判断が垣間見える。

私は「トリスタン」がかくも美しく聞えたことはなかった、とさえ言おうと思う。新日フィルの、ちょっと技術的な問題を差し置いても、この徹底的に細部にこだわった客観的なアプローチは可能であることを示していたと思う。会場にいる、おそらくはこの演奏を聞きたいと思う人だけで構成された聴衆が、物音ひとつ立てず音楽に聞き入る様は、ちょっとした芸術的な瞬間をも生み出した。音楽が消え入るように終わるたびに、私は目を閉じて静寂の長い時間を味わった。もういいだろうと目を開いても、指揮者は腕を下さない。その時間が魔法のように続く。何十秒かして沸き起こる拍手には、派手なブラボーこそないものの暖かさに満ちており、それはまた演奏者と聴衆の満足感が一体化したひとときでもあった。

休憩を挟んで演奏された楽劇「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」で、私はヤノフスキが東京・春・音楽祭で見せた流れるような演奏を思い起こした。レコードで聞く大袈裟な演奏とは一線を画す等身大のワーグナーは、そのように慣習的な効果を排除した結果、むしろ新鮮で新たな発見に満ちている。「ジークフリートの死と葬送行進曲」は、ワーグナーが作曲したもっとも素晴らしい曲だと思うが、ここを演奏する金管楽器奏者の緊張感は、今はやりの言葉で言えば「半端ない」だろう。やや余裕がなかった感もあるものの、新日フィルはちゃんとこの部分をこなした。ただやはりこの曲は、5時間余りに及ぶ、いや「ラインの黄金」から聞いて来た後にやって来る音楽だ。ここだけを聞いても、その感動は中途半端である。

長い楽劇の序曲と最終部をつなぐ暴挙を、ワーグナー自身が「トリスタン」でやっているので、まあ他の曲でも同様の試みがあってもいい、ということなのだろうか。プログラムの最後は舞台神聖祝典劇「パルジファル」の第1幕への前奏曲と、第3幕のフィナーレであった。このような曲を、どんな小さな音が鳴り響いても(それは例えば、チャイコフスキーの「悲愴」のフィナーレを何分の一かに小さくしたような音だった)、それを演奏している緊張感を持ちながら進む様は、奇跡的であるとさえ思うほどで、実際、聴衆がざわめいてもいけないわけだから、そういっても過言ではない。「パルジファル」の厭世的とさえ言えるような虚無感に溢れた音楽が滔々と流れ、私の心の中まで染みわたっていく。今日のコンサートは前後左右に人もおらず、ゆったりと聞くことのできる理想的な環境だった(採算の面では心配だ)。

最後の「空白時間」は30秒以上にも及んだと思う。そして指揮者は各パートを個別に立たせ、聴衆の拍手は切れることなく続いた。新日フィルのコンサートで経験した初めての感動。それは、オーケストラというよりも上岡の丹念で飾りのない音楽づくりに起因するものではないかと思われた。この指揮者でブルックナーを聞いてみたいと思った。もちろんそれは、そう遠くない時期に実現するであろう。


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