私が生まれて初めて親しんだ曲は、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲だった。小学校2年生の頃、初めて親に買ってもらった2枚組LPの先頭に、この曲が収録されていたからだ(アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップス管弦楽団)。喜歌劇「軽騎兵」序曲は、小学校の音楽の時間に鑑賞する曲でもあった。教科書にその曲の内容が説明されていた。「騎兵隊が馬に乗って威勢よくやってくる。やがて戦死した兵士の墓に参り、しばしお祈りを捧げた後、再び勇壮に走ってゆく」。
中学生の頃になって、カラヤンがベルリン・フィルを指揮した演奏会(大晦日のコンサートだと思われる)のビデオがNHK教育テレビで放映された。ここでカラヤンは圧倒的な集中力で右腕をゆっくりと振り上げ、手首をくるりと回して拳を突き立てる。するとそこで演奏がピタリと止んだ。序奏の休止の直前。申し分のない演奏に、カリスマ的な映像。カラヤン美学の頂点が、ここに示されていた。ポピュラーな小曲でも真剣勝負で演奏する帝王は、ちょっと距離を置いてみると辛気臭いのだが、見とれてしまうのもまた事実である。カラヤンを主役とするこのようなビデオは、まだ映像作品が少なかった時代にも数多く作成され、今では少し古めかしくはなったが、YouTubeなどで簡単に見ることができる。あらゆる角度からフィルム撮影し編集をするという贅沢な作成過程によって、その迫力と演奏は、いまもって圧巻である。
スッペの序曲集はカラヤンも残しており、この他には「詩人と農夫」「ウィーンの朝・昼・晩」のような有名な曲も楽しい。思えば昔は、ウェーバーの「舞踏への勧誘」だとか、リストの「ハンガリー狂詩曲」だとか、シベリウスの「カレリア組曲」といった軽い小品集を、家族でステレオを囲みながら聞く団らんのひととき、といった時代があった。まだテレビはさほど普及しておらず、ゆっくりとした時間が流れていた。客人が訪ねて来て、レコードを聞くこともあった。テレビが普及した後でも、ドラマやスポーツ中継の合間に放送される演奏会を収録した番組が、週末の夜の楽しみだった。いやクラシックに縁のない家庭でも、洋画やクイズといった、家族共有の娯楽があったものだ。そんな時代が、バブルの時代を境に失われていった。
スッペの序曲集を聞きながら、そんなことを考えた。だが、この演奏は実はSpotifyで聞いている。指揮はネーメ・ヤルヴィ。彼はその録音したレパートリーの多さにおいて、カラヤンを上回るという。私はこの演奏を偶然見つけたわけではない。かつてレコード雑誌などで評価を聞き、購入リストに加えていたものだ。買ったつもりでいたのだが、実際に入手したのはサン=サーンスの管弦楽曲集であると、あとから気付いた。そんなディスクも、簡単に検索、聞くことができるのは画期的なことである。でもその演奏は、もはや誰かと一緒に楽しむこともない。たとえステレオ装置で鳴らしたとしても、音楽を生活の中心にして家族が同じ時間を過ごすことなどあり得なくなった。
代わって音楽の時間を共有するのは、実際のコンサートである。J-POPのような音楽でも、コンサートが占める売り上げが、のびている(このあたりは「ヒットの崩壊」(柴邪典・著、講談社現代新書)」に詳しい)。考えてみれば、これはそもそも音楽を楽しむ手段として、真っ当なことのように思える。音楽とは基本的に、ライヴだからだ。媒体によって楽しむ音楽は、本物の音楽ではない。それを疑似的に楽しんでいた時代は、ここにきてライブという本来の音楽のスタイルをもう一つの中心に据えることによって、本来の音楽の魅力を取り戻しつつあるようだ。無人島へ行くなら仕方がないが、そうでなければ、音楽はライブに限る。
とはいえ、スッペの音楽を生で聞く機会は、大変に少ない。ネーメ・ヤルヴィは時々来日して演奏を聞かせているが、スッペの序曲ばかりを演奏してくれることはまずない。だからSpotifyで聞く意味があるとも思える。スッペの序曲なんて、誰が演奏しても同じではないか、という人もいるかも知れないが、この演奏はちょっとした名演奏だと思う。知らない曲が、次々と出てきて嬉しくなってくる。その合間に、有名曲ももちろん混じっている。「軽騎兵」「美しきガラテア」などだ。
この他に、例えば「ボッカチオ」の行進曲などは、今はなきスポーツ中継の開始音楽のように楽しいし、「軽快な変奏曲」は学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による変奏曲だが、この歌はまたブラームスの「大学祝典序曲」にも使われている。ブラームスはこの曲を「スッペ風のポプリ」と呼んでいたそうだが、ここに意外な接続点があるのがわかって面白い。
愉快な発見はまだ続く。喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲には、シューベルトの「軍隊行進曲」のメロディーが使われている。このように良く聞いてゆけば他にも多くの作品からの転用があるのかも知れない。何せ作品集を見ていると、「フランツ・シューベルト」とか「ヨーゼフ・ハイドン」といった名前のオペレッタまであるのだから。「美しきガラテア」はオッフェンバックの「美しきエレーヌ」に対抗して作曲された経緯もある。ここで同年生まれの二人の作曲家の接点があるというわけである。
ストリーミング配信時代に心配なことは、こういった音楽がCD販売を前提に録音されてきたことだ。その昔、それはまとまった曲の単位を、それなりに時間をかけて練習し、収録したものだろう。だからこそスッペの序曲集も、そのまとまりでリリースされた。だが、何千万曲もあるライブラリの中から、どうしてわざわざスッペの序曲ばかりを聞く人がどれだけいるというのだろうか。しかもそれがヤルヴィの演奏である必要があって、なおかつ、その時間を割くことのできる人が、今後新たに生じる可能性はあるのだろうか。
インターネットの時代になって言われた「ロングテールの法則」というものは、目立たない商品にも触れる機会が平等に与えられることによって、むしろこれらにも一定の売り上げが増えることであり、これまで見向きもされなかった音楽や演奏にも一定のマニアがアクセスできるようになることで、新たなマーケットが誕生するというものだった。だが、この考え方は間違っていたのだろうか。ネットの時代、ますます人は同じものを経験したがり、消費したがる。結局、かつてラジオで一生懸命リクエスト曲を書き送っていた時代よりもはるかに、ごく少数の対象に消費が集中する時代となった。これは文化の衰退に他ならないのではないか。多様性こそ、文化を発展させる基礎だと思う私には、ますますつまらない時代になりつつあるという感が否めない。まあ、私が生きている間だけは、古いものを楽しんでいくしかない、というわけだ。
【収録曲】
1. 喜歌劇「軽騎兵」序曲
2. 喜歌劇「ボッカッチオ」序曲
3. ボッカッチオ行進曲
4. 喜歌劇「スペードの女王」序曲
5. 愉快な変奏曲(学生歌「Was kommt dort von der Höhe?(あそこの山から来るのは誰?)」による)
6. 喜歌劇「詩人と農夫」序曲
7. 喜歌劇「ファティニッツァ」の主題による行進曲
8. 喜歌劇「モデル」序曲
9. 演奏会用行進曲「丘を上り谷を下って(いたるところに)」
10. 喜歌劇「イサベラ」序曲
11. 喜歌劇「美しきガラテア」序曲
12. 行進曲「ファニータ」
13. 喜歌劇「ウィーンの朝・昼・晩」序曲
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