ビゼーが若干16歳にして交響曲ハ長調を作曲したことを、神に感謝しなければならない。なぜならこんなに瑞々しい音楽を、今私たちは聞くことができるのだから。たとえ若書きの習作とは言え、この交響曲には他の作品にない魅力に溢れている。全編にみなぎる若々しい感性とエネルギー、そしてまるで春の南仏を思わせるような憂いに満ちたメロディー。その作品をビゼーは生前聞くことなく世を去った。
特に第2楽章のオーボエが歌謡性に満ちたソロを吹き、それをバイオリンが繰り返すときの、時がまるで止まったかのような世界は、何と例えるべきだろう?そんな音楽を、一度生の演奏で聞いてみたいと随分前から思っていた。そうしたら、いま私がもっとも贔屓にしているロシア・北オセチア出身の指揮者、トゥガン・ソヒエフがN響定期で演奏することがわかり、私は迷わずチケットを買った。嬉しいことに、ベルリオーズの作品(「ファウストの劫罰」から「鬼火のメヌエット」「ラコッツィ行進曲」、それに交響曲「ロメオとジュリエット」からの抜粋)、さらにはドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」までもが演奏されるというお得で豪華なオール・フレンチ・プログラム。場所はサントリーホール。
ソヒエフは先週ロシア・プログラムを聞いたばかりだが、いずれも細部にまで神経を行き届かせ、曲の持つ魅力を最大限に引き出しながら組み立てる構成力の天才的な才能に唖然とするばかりである。タクトを使わない、一見わかりにくそうに見える指揮姿からは、想像できないような音楽が聞こえてくる。あたかも初めて聞くかのような錯覚を随所で経験することになる夢のような時間は、どんな曲についても当てはまる。その様子から「魔術師」といった声まで聞かれるが、今回の4つの作品の演奏もまたそのようなものだった。
「ファウストの劫罰」からいつもとは違う輝きを放つN響の音色に満ちていたが、私にとっての最大の白眉はビゼーの交響曲で、この曲の魅力がいかに引き出されてゆくのか、別に引き出されなくても十分魅力的なのだが、さてその演奏はいかに?期待が高まった時に流れ始めた音楽は、丁寧でしかも新鮮さを十分に保ち、ほれぼれするような半時間だった。
ビゼーの交響曲の演奏には、簡単に言って速い演奏と遅い(標準的な)演奏があるように思う。アバドやオルフェウス管弦楽団、古くはマルティノンによる颯爽とした(速い方の)演奏が、従来の私の好みだった。泉から湧き上がるような第1楽章こそ理想的だと考えていた。ところが最近は歳をとったせいからか、もう少しゆったりした演奏がむしろ好ましいとも思い始めていた。そしてソヒエフはまだ若い指揮者だが、むやみに速くしたりはしない演奏だった。実際これまでに聞いた他の曲でも、テンポに関する限り常に中庸であり、どこかのフレーズを強調したりといった外連味を示すこともほとんどなく、むしろ極めて標準的とも言える。
にもかかわらずソヒエフの指揮する音楽は、すべてが新鮮で音楽的である。演奏家もどう操られていくのか、まるで魂が乗り移ったようにいい塩梅となる。そのアンサンブルの素晴らしさがサントリーホールだと2階席でも非常によくわかる。音に濁りがなく、綺麗なことも特徴だ。特にフランス音楽の明晰な音色には威力を発揮する。そしてビゼーの交響曲の第2楽章の美しさといったら!私はうっとりとオーボエのソロに聞き入り、白内障でそもそもよく見えない舞台も、さらにかすんで夢のように見える。もしかしたら涙さえ出て来たのかも知れなかった。体を揺らすソリストに合わせて、こちらも体がくねる。
このようにして第3楽章のトリオを含む印象的な部分も夢心地のまま進み、第4楽章のアレグロ・ヴィヴァーチェに至ってはもう魔法のような時間だった。どの音も他の音と違っているのは見事と言うほかはない。弦楽器が主題を再現する時、音色は明らかに変わっていた。その微妙な違いは調性によるものだろうか。私にはよくわからないが、いずれにせよ非常に細かい部分にまで神経を行き届かせ、短時間で自分の音楽にオーケストラを染め上げてゆくのは、並大抵のことではないはずだ。N響との長いつきあい、相性にもよるのだろう。それに比べると過去の名演奏とされるものでも、よく聞けばフレーズが曖昧なままにされているものは多い。
このような演奏だから、休憩を挟んで演奏されたドビュッシーの短い曲「牧神の午後への前奏曲」が、精緻に満ちた素晴らしい演奏であったことは言うまでもない。様々なソロの中でもとりわけ活躍するのは、この曲ではフルートである。様々な音色の楽器が組み合わせを変えて千変万化するフランス音楽を、これだけの集中力と余裕を持って聞かせるのは並大抵のことではないとも思う。前半ではやや不安の残ったホルンなども、ドビュッシーでは見事であり、鉄琴やハープも入って静かで美しい時間が過ぎて行った。
プログラムの最後は35分間にわたって、ベルリオーズの交響曲「ロメオとジュリエット」からの抜粋が演奏された。この曲はそもそも歌入りの長い作品だが、ここでは管弦楽のみの部分が演奏されたようだ。私は原曲を一度しか聞いたことがないので、どの部分がどうだったかを記すのは難しい。ただここでのN響の音は、この曲の間中ずっと、大変に見事であった。どの音のどの瞬間も、これ以上ないくらいに磨かれ、そしてブレンドされていた。前半に打楽器も活躍する派手な部分があり、後半にもあるのかと思っていたが、何か曲が尻切れて終わったかのような印象を残した。これは抜粋プログラムの宿命だとは思われるが、ちょっと残念でもあった。
非常に大きな拍手に何度も呼び戻されるソヒエフとオーケストラは大変満足そうな表情で、もっとずっとこの音に浸っていたいと思わせる演奏会も、気が付けば9時を過ぎており、足早に会場を後にした。ここのところの東京はずっと気候が悪く、今日も冷たい雨が降っていた。ソヒエフには指揮してほしい曲がいくつもある。思い浮かぶだけでも「展覧会の絵」「ペトルーシュカ」「ハンガリー狂詩曲」「スラブ舞曲」あるいはレスピーギ…。できればN響の音楽監督、あるいは次期首席指揮者に、という思いを持つリスナーは多いだろう。だが今や彼はあまりに有名で、スケジュールを拘束するのは大変な指揮者になりつつある。大指揮者になったときに、かつて若い頃よくN響で聞いたなあ、などと話すのが楽しみである。もっともその頃まで、私が生きていればの話なのだが。
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