2019年12月4日水曜日

ドヴォルジャーク:交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」(フェレンツ・フリッチャイ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)

まだクラシック音楽を聞き始めた頃の私は、一般的な聞き手がそうであったように、ドヴォルジャークの交響曲は「新世界より」しか知らなかった。第2楽章ラルゴのメロディーは特に有名で、この部分は歌詞を付け「家路(Going Home)」などと呼ばれていた。ボーイスカウトに入団していた私は、キャンプファイヤーの時などによく歌わされたものだった。「遠き山に日は落ちて…」と。

どういうわけか夕暮れ時の、とても静かで懐かしい旋律として小学校の下校時の音楽に使われるのも、この曲を有名なものにしている。ほとんどの日本人が、この部分と、それに第4楽章の冒頭のメロディーを知っているのではないかと思う。これは最も日本人に馴染んだクラシック音楽と言えるのかも知れない。

中学校の音楽の教科書に載っていた「家路」を、私も習った。そしてその日の音楽の授業では、この歌の原曲を聞いてみましょう、ということになって先生は資料室から一枚のLPレコードを音楽室に持ってきた。「今からレコードを聞きます」と言って先生は、そのLPに針を落とした。すると大きなスピーカーから、有名なメロディーが流れて来た。「ここで使われる楽器は、チャルメラのような音がします。イングリッシュ・ホルンと言ってオーボエに似た楽器です」先生は音楽を聞かせながら、このような解説をした。

私はクラスで、クラシック音楽が好きだと称するごく少数の仲間と、やれ「ジュピター」だの「英雄」だのとやっていたから、当然このような基礎知識は持っていた。私が先生に気に入られ、目立つための手段は、こう質問することだった。「このレコードの演奏は誰によるものですか?」すると、その女性教師は、なかなか通の質問をする生徒もいるものだ、などと感心しながらジャケットに書いてある文字を黒板に写し始めた。

「ドボルザーク作曲、交響曲第5番ホ短調作品95『新世界より』…」

私はこの曲がかつては第5交響曲として知られていたことを知っていた。それでこのことにはあまり驚かなかったが、それでももう70年代にもなって、未だに第5番と呼ばれているLPが存在することに関心した。

「ラファエル・クーベリック指揮…」と書き始めたところで先生は躊躇し呟いた。「何フィルハーモニーか書いてないやないの?」(私は大阪の普通の公立中学校の生徒だった)

クーベリックが指揮したオーケストラは、ロンドンにある「ザ・フィルハーモニア管弦楽団」のことである、と直感した。かつてEMIの録音用オーケストラとして創設され、若きカラヤンやクレンペラーが往年の名演を残した楽団である。もちろん今でも存在する。

この演奏とは別に、クーベリックは後年ベルリン・フィルとの間で故国ドヴォルジャークの交響曲全集を残している。ウィーン・フィルとの演奏もある。だがあれから40年以上たった今、いくら検索してもクーベリックの指揮するフィルハーモニア管弦楽団との「新世界交響曲」は検索できない。本当にそんなレコードが出ていたのだろうか、それとも先生の言うように、どこのフィルハーモニー管弦楽団かが記載されていなかったのだろうか、今でも謎である。

さて、新世界交響曲はドヴォルジャークがアメリカに出張中に作曲された。「新世界」とは米国を含むアメリカ大陸のことで、通天閣界隈のことではない。この作品には従って、ネイティブ・アメリカンの民謡の旋律が用いられている。先生もそのような説明をした。けれども中学生の私には、それがどの部分かわからず、アメリカの音楽と言う印象は全くなかった。むしろチェコのメロディーが、日本人に親しみやすいものであることに関心していた。

「新世界交響曲」は4つの楽章から成り、その部分も極めて親しみやすく、スーパーな名曲であることに疑いの余地はない。世界中のオーケストラと指揮者がこの曲を演奏している。第1楽章の沸き立つような主題は、マンハッタンを空撮するヘリコプターから見た摩天楼にマッチし、第2楽章では故郷を懐かしむドヴォルジャークの心情が胸を打つ。第3楽章ではリズムの変化に酔いしれ、第4楽章に至っては迫力も満点。この曲の聞きどころは数えきれない。思いつくままにこれまで印象に残った演奏を記すと、カラヤン指揮べリリン・フィルのビデオ、バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィルの若々しいエネルギーに溢れた歴史的名盤、爽快で迫力満点のシルヴェストリ指揮フランス国立放送局管弦楽団、我が国では特に名高いケルテス指揮ウィーン・フィルなど枚挙に暇がない。

そんな中で、一等光彩を放ち、今でも色あせない名盤は、フェレンツ・フリッチャイによるステレオ最初期のベルリン・フィル盤であろう。今もってこの演奏に勝る印象を私に残すものはない。多芸に秀でた職人的演奏は、今では聞かれない類のものだろうか。余白に収められた「モルダウ」同様、来ていて唖然とする歌いまわしに、最初聞いた時はノックアウトされた。録音もこの時期にしてはいい。特に第3楽章のトリオの部分などはぐっと速度を落とし歌うので、何か落語の名人気に接しているような気がしてくる。

それ以外の演奏では、小澤征爾がボストン響とプラハを訪れ、有名なスメタナ・ホールでのガラ・コンサートをライブ収録したビデオに大いに感心した覚えがある。第2楽章のみの演奏だが、隅々にまで神経が行きわたり、こんなに美しいこの曲を聞いたことがない、とさえ思った。また第4楽章はドゥダメルがローマ教皇の御前演奏をしたものを収録したビデオが秀逸である。気合の入った第4楽章は圧巻で、カラヤンのあの70年代のビデオ演奏を彷彿とさせる。なお、私がこの曲を最初に聞いたのは、カルロ・マリア・ジュリーニがシカゴ響を指揮したグラモフォン盤だった。誠にしっかりとした正攻法の立派な演奏だが、多少面白みに欠ける。

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