我が国におけるキリスト教徒人口はせいぜい200万人足らずで、人口に占める割合は1.5%程度に過ぎない(文化庁「宗教統計調査」2017年)。従ってクリスマス前後と言えども通常通り仕事をして、いっとき家族で食事をしたり子供にプレゼントを贈ったりはするものの、26日にもなればもうお正月を目指して師走終盤の日々を迎える。普通の日本人の生活様式が、私の生活からもクリスマスを遠ざけている。
多忙でそれどころではない生活は、バッハ自身にも当てはまるのだという事実は、それでも私を少し安堵させる。少なくとも10人の子供を養育する必要から、毎週欠かさずカンタータの作曲に勤しみ、オルガン奏者や音楽教師も務めたバッハは、その崇高な音楽を締め切りに追われながら作曲した。そう考えると、何も肩ひじを張らず聞けば良いとさえ思う。
ヨハン・セバスティアン・バッハは生涯に200曲以上にのぼる数のカンタータ作品を作曲しているが、それらはみな1回限りの、いわば使い捨ての作品として作曲された。バッハ自身、さすがにこのことには不満だったようだが、実際200曲以上のすべての作品に耳を傾けるだけのゆとりはない。そこでこれらを集めたダイジェスト作品はないものかと思うのだが、「クリスマス・オラトリオ」はまさにそういう作品で、その多くがそれまでに作曲されたいくつかの作品から編集された作品である。
ここでバッハがパロディとして用いた作品は、自身のカンタータ3作品が中心で、繰り返し演奏されることにより、親しみやすさを感じられるようにとの思いを込めたものだったようだ。クリスマスというキリスト教最大の年中行事を題材にしていることからも、それは明らかである。私たちは2時間半に及ぶこの作品により、バッハが残した膨大なカンタータ作品の、いわば入門者向けアンソロジーを聞くような気持で、音楽を楽しむ事ができる。キリストの降臨節から顕現節に至るまでの聖書のストーリーに従って、預言者による語り付きの美しい音楽が付けられているから、ごく自然に聖書の世界を知る事ができる。
カンタータの寄せ集め作品が「オラトリオ」と名付けられた。この「クリスマス・オラトリオ」は6つのパートから成り立っている。全部で65の曲があり、12月25日の1月6日頃まで、6回に及ぶ祝日に分けて演奏された。現在では一気に演奏されたり、2日ないしは3日に分けて演奏されることが多いようだ。我が国ではメサイアやマタイ受難曲に比べても演奏される機会は多いとは言えない。私も実演に接したことはない。
私はこれまでに、いくつかの演奏によりこの作品に接してきたが、あいにく心を揺さぶるものに出会うのが遅かった。最初のガーディナー盤はどこがいいのかさっぱりわからず、アーノンクールも面白くない。シャイーによる目の醒めるような速い演奏で、私の心を掴みかけたがそれは最初の曲のみであった。シャイーは「バロック音楽の本流はイタリアにあり」と言わんばかりに、伝統あるライプチヒの演奏家を手玉に取って見せるが、彼はバッハをロッシーニと勘違いしているようだ。結局この演奏も単調なだけで、深みに欠ける。
そんな中、我が鈴木雅明がバッハ・コレギウム・ジャパンを率いて録音したものは、この作品の真価に迫る真面目で崇高な演奏である。一方、ヘルムート・リリンクによる定評ある録音も、記憶に残っている。このほかにもいい演奏は沢山あるのだろう。だが、これらオリジナル楽器による演奏は、作品の魅力を小さくしているように思える。クリスマスに聞くオラトリオは、もっと豊穣で大規模なものが好ましいと私は考えている。
結局、どう考えても、あのカール・リヒターによる歴史的名盤こそ、この作品の演奏の中で一等秀でた地位を確保しており、それは少し聞けば明らかである。今もってこの演奏に及び得るものはないとさえ思える。モダン楽器による演奏も、その深々とした味わいは今日かえって新鮮であり、少し古くなったものの各楽器や歌手をよく捉えたアナログ録音の暖かみと、作品に寄り添った厳粛な音楽がうまく調和して、厳しさと慈しみを併せ持つ稀有の名演となっている。
以下、リヒターによる演奏を聞きながら、「クリスマス・オラトリオ」(BWV248)の各部をみて行こう。演奏ははミュンヘン・バッハ合唱団、管弦楽団、1965年のステレオ録音(アルヒーフ)である。
- 第1部は合唱曲「歓呼の声を放て、喜び踊れ」で始まる。カンタータ「太鼓よ轟け、ラッパよ響け」(BWV214)によるメロディーが高らかに歌われる。続いて登場するテノールのエヴァンゲリストは、36歳の若さで事故により急死する直前のフリッツ・ウンダーリヒによる貴重な録音で、あの若々しく澄んだ声が収められている。最初の聞きどころであるアルトのアリア「備えせよ、シオンよ、心からなる愛もて」(第4曲)はカンタータ「岐路に立つヘラクレス」(BWV213)からの借用である。アルトを歌うのはウィーン生まれの歌手、クリスタ・ルートヴィヒ。どこかで聞いた曲のような気がするのは「マタイ受難曲」によく似た曲があったように思うからだ。一方、バスのフランツ・クラスが歌う第8曲「大いなる主、おお、強き王」もまた、カンタータBWV214の作品だそうだ。トランペットの響きに心が洗われる思いがするが、このトランペットは何とあのモーリス・アンドレが特別に参加しているという。
- 第2部冒頭のシンフォニア(第10曲)は、この曲で唯一、管弦楽のみによるものだが、単独で演奏されることも多い落ち着いたメロディーである。就寝前のひとときをこの曲で過ごす人もいるようだ。第2部の聞きどころは、テノールのアリア「喜べる羊飼いらよ、急げ、とく急ぎて行けや」(第15曲)で、フルートの仄暗い響きが印象的なホ短調。アルトのアリア「眠りたまえ、わが尊びまつる者、安けき憩いを楽しみ」(第19曲)は、冒頭で「Schlafe(眠りたまへ)」と歌う時、その一点の濁りもない美声が遠くの方から次第に近づいてきて、それはまるで光彩を放ちながら救世主が降り立つような響きであり、一度聞いたら忘れられない印象を残す。
- 年末最後の曲である降臨節第3祝日用の第3部は、力強い合唱曲「天を統べたもう者よ、舌足らずの祈りを聞き入れ」(第24曲)に挟まれている。リヒターの演奏は一歩一歩着実に天に昇っていくかのようなテンポで、高らかにこの合唱を進める。レチタティーヴォを交えながら、しばらく合唱曲が続く。このあたりから崇高な気分になってゆく。第29曲はソプラノとバスの二重唱である。オーボエ・ダ・モーレの響きに乗せて歌い始めるのは、クンドラ・ヤノヴィッツである。一方、第31番のアリアはアルトによって厳かに歌われるが、ここにはヴァイオリン独奏のみが加わる。ロ短調。曲にも様々な楽器や調性により、微妙な変化がもたらされる。いい演奏で聞くと、そのあたりの妙味が味わえるのだが、最近の速い演奏で聞くとあっというまに終わってしまい、どんな曲を聞いたか印象に残らない。第24曲の合唱が、最後に再び登場して心が洗われるようになって、年末用の曲を終える。
- 年が変わって元日には第4部となる。第36曲「ひれ伏せ、感謝もて、讃美もて」(合唱)は比較的長い曲である。ホルンの響き印象的である。第4部は短いが、第39曲のソプラノによるアリア「答えたまえ、わが救い主よ、汝の御名はそも」は透き通った歌が、染み入るような気分にさせられる。ここで合唱が群衆のこだまと重なり、「いいえ」とか「そうだ」などと掛け合うシーンが印象的だ。第41番の二つのヴァイオリンを主体とする弦楽器のフーガとなるテノールのアリア「われはただ汝の栄光のために生きん」は、最大の聞きどころの一つだと思う。そして最後の第42曲の「イエスわが始まりを正し」で再びホルンの音が活躍し、3拍子の美しいコラールで幕を閉じる。
- 第5部は新年最初の日曜日に歌われる。軽快だが長い合唱曲「栄光あれと、神よ、汝に歌わん」で始まる。リヒターの演奏は7分近くもあるが、楽しくていつまでも聞いていたくなる。第47番はバスのアリア「わが暗き五感をも照らし」。オーボエ・ダ・モーレのソロに乗って、通奏低音の響きが特に印象的。この曲は、また別のカンタータ「恵まれたザクセン、おまえの幸をたたえよ」(BWV215)からの借用である。だがこんな曲も「クリスマス・オラトリオ」に使われなかったら、知られることもなかったような気がする。ということは他のカンタータにも隠れた名曲がいくらでもあるということだろうか。第51曲目にはヴァイオリン独奏に乗って、珍しい三重唱「ああ、その時はいつ現るるや?」がフーガ風に歌われ、やがて短いコラールで終わる。
- さていよいよ最後の第6部になった。この第6部はトランペットが大活躍するのが聞きどころである。まず最初の合唱曲「主よ、勝ち誇れる敵どもの息まくとき」(第54曲)は、まずこのトランペットが高らかに歌い、やがって合唱と絡みながら次第に高みにのぼっていく。第57曲、ソプラノのアリア「その御手のひとふりは」と第62曲、テノールのアリア「さらば汝ら、勝ち誇れる敵ども、脅せかし」を経ていよいよ終曲「今や汝らの神の報復はいみじくも遂げられたり」。再びトランペットが透き通るような音色でキリストの勝利を宣言し、いよいよ確信に満ちた合唱と組み合わさって賛歌が続く。神を得た人間の力強い嬉しさが、込みあがって来る。
0 件のコメント:
コメントを投稿