2019年12月2日月曜日

ドヴォルジャーク:交響曲第8番ト長調作品88(マリス・ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団)

ドヴォルジャークの次に取り上げる交響曲第8番で、その思い出の一枚にマリス・ヤンソンスによる演奏を取り上げようと準備をしていた。そうしたら昨日になって、何とヤンソンスの訃報が飛び込んで来た。何ということだろうか。享年76歳。まだ元気な指揮者だと思っていたからショックだった。

私は3回実演に接している。最初は1996年のニューヨーク・フィルハーモニックの定期演奏会で、バルトーク「弦チェレ」とブラームスの交響曲第2番を、2回目は2005年に横浜でバイエルン放送響とのチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番とショスタコーヴィチの交響曲第5番を、そして3回目にはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の東京公演で、ドヴォルジャークの「新世界交響曲」とストラヴィンスキーの「春の祭典」だった。どの演奏もプロフェッショナルな名演奏。聞き惚れている間に終わってしまうほどで、完成度が高すぎて印象にも残りにくい。CDで聞く演奏でも、それは同じだった。

そのヤンソンスはドヴォルジャークを得意にしていた。特に第8番の演奏は、私がこの指揮者に触れた最初の演奏でもあり、またこの曲の、もっとも素晴らしく演奏された何枚かの一枚であることは疑いようがない。その演奏は、あのジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団との演奏(特に最晩年のEMI盤)を彷彿とさせるものであり、同じレーベルから出た同じ曲の名演として、もしかするとその焼き直しを意識して製作されたのではないか、とさえ思わせるほどだった。

特に第2楽章の微妙なリズムと、そこにかぶさる木管の歌うメロディーが、しっかりと息づきながらも落ち着きを失わず、晩秋の野道を行くようなしっとりとした味わいは筆舌に尽くしがたい。これは厳格の中にほのかに宿るロマンチシズムを感じさせるセルの演奏に通じるものであり、理性と情熱を程よく併せ持つ大人の音楽である。第3楽章の哀愁を帯びた旋律も、決して情に溺れることはなく、かといって醒めてもいない。

そういえば我が家にもあったセルによる最晩年の演奏は、我が国では特に評価の高いものとして有名だった。なぜならそれは、1970年の大阪万博の年に初来日したこの組み合わせによるプログラムと同じ曲で、実演に接した評論家は、従来CBSからリリースされてきたどこか硬くて厳しさの前面に出た演奏とはやや異なる、情緒的なセルの一面を垣間見た、などと口を揃えて語っていたからだ。セルはこの来日演奏の直後に急死し、その追悼盤として発売されたのが、我が家にもあった来日演目と同じドヴォルジャークの交響曲第8番とシューベルトの「グレイト」交響曲の2枚だった。この2枚は、EMIによって録音されたこともあって、ややエコーのかかったようなアナログ録音が特徴でもあった。

そのLPレコードは、丸で宝物のように取り扱う必要があった。私はこのレコードを聞くたびに、あともう何回か聞くとすり減ってしまうのではないだろうか、などと恐れたくらいだ。けれども程なくしてCDの時代が訪れた。CDは永久的に音が劣化しないというふれこみだった。LPは安物の針を落とすたびにノイズを加えてしまったので、無残な音がしていた。CDとして真っ先にセルの「ドボ8」を買いなおしたのは当然だった。だがそのCDは2800円もしたにもかかわらず、見事にひどい録音だったことを思い出す。LPで聞いたいぶし銀の演奏、摩耶山から見る冬の神戸の夜景のような演奏が、CD化によって化粧を剥がされ、無残な姿として現れたのだった。

今ならリマスターされ、もう少しましな録音に蘇っているものと推測するし、あのCBSへの録音でさえも、もっと生き生きとしたものとして幾度となく再販されている。セルの人気は、今でも根強く続いている。モーツァルトもブラームスも、セルによって蘇り、セルによって真価を表す。だがそうなるまでの少しの期間を、一体どの演奏がドヴォルジャークの第8交響曲を思い通りに再現してくれるのか、私はいろいろ試す旅に出なければならなかった。定評あるクーベリックも、 枯れ葉のような晩年のジュリーニも、都会的なカラヤンも、朝の散歩のようなアーノンクールも、私を満足させてはくれなかった。ただ一枚だけ、ヤンソンスによる演奏のみが、かつてのセルを思い起こさせてくれる演奏だと思った。このヤンソンスによる演奏によって、私は第8交響曲の魅力を再体験することになった。

交響曲第8番はかつて「イギリス」というタイトルが付けられていた。けれどもこの曲がイギリスで出版されたということ以外に、英国とは何の関係もないのが事実である。ところがジャケットに落ち葉と並木が映っているだけで、私はそこが秋のハイドパークだと想像し、音楽までもがイングランドの片田舎の風情を表しているのだと勘違いした。ブルーノ・ワルターが演奏した第3楽章は、私を「イギリス」に誘った。

第4楽章の中間部に設けられたハンガリー風のリズムによって、この曲の東欧風の響きが強調され、ようやく中低音の楽器が多用されたチェコの音階を持つ交響曲としての全体像をつかむことができるようになった。今では私にとって、チェロ協奏曲と並んで最も愛すべきドヴォルジャークの管弦楽曲であり、その魅力は「新世界より」を凌駕している。実演ではN響を指揮したサヴァリッシュの演奏が忘れ難いが、これは少しざわざわとした、丸で小雨模様の都会の夕方のような演奏である。演奏によって様々に表情を変える。この曲の魅力は、そういうところにあるのかも知れない。

なおセルによるドヴォルジャークの交響曲第8番のディスクには、余白に「スラブ舞曲」の第3番と第10番が収録されていた。この2曲は合わせても10分程度で、アンコールのように付録されたものだが、交響曲と同様、輝かしい魅力に溢れた2曲であった。スラブ舞曲にも数多くの名演奏が存在するが、このような小品にもやはりセルの風格と感性を感じるものとして永く記憶に残っていることを付け加えておきたい。

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