2020年6月23日火曜日

ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」作品24(T: スチュアート・バロウズ他、小澤征爾指揮ボストン交響楽団)

私のもう一つの趣味である短波放送は、今では「失われた楽しみ」となって久しいが、かつては世界中から降り注ぐ大量の放送を聞くことが、インターネットもない時代、海外の生きた情報に接する唯一の手段だった。Radio Budapestというハンガリーの国営放送局も、早朝などに頑張れば日本で受信できた。当時ハンガリーは共産主義国だったから、自由な旅行をすることもできず、いまだに私は一度も行ったことがない。そのRadio Budapestが放送を開始する際に流れるのが、ベルリオーズの作曲した「ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)」だった。

ハンガリー独特の音楽を取り入れた作品は他にも数多く、ハンガリーにも著名な作曲家がいるにもかかわらず、この曲はハンガリー国営放送の開始音楽だった。雑音にまみれて聞こえてくる異国の音楽に、私は心から胸をときめかせる毎日だった(この短波放送を主体とするラジオ放送に関する思い出については、やがてこのブログで私は大いに語らなければならない)。

ベルリオーズは、大好評だった「ラコッツィ行進曲」を「ファウストの劫罰」に取り入れることにこだわった。だからこの物語の舞台の最初は、原作であるゲーテの「ファウスト」とは異なり、何とハンガリーが舞台になっている。そのハンガリーの平原の夜明けのシーンから、この曲は始まる。序曲などはなく、いきなりファウストの歌が聞こえてくる。音楽は日が昇る情景を描きつつ、春を迎えた農民たちの歌や踊りを表す少年合唱なども交えながら進むと、もう「ラコッツィ行進曲」である。

第2部は舞台を北ドイツに移す。絶望の果てに自殺を決意するファウストの前に悪魔(メフィストフェレス)が現れ、ライプツィヒの酒場へと連れてゆく。酒飲みの学生ブランデルの歌う「ねずみの歌」、続くメフィストフェレスの「蚤の歌」、さらにはマルガリータを夢に見る「妖精の踊り」など聞きどころが続く。

まるでベートーヴェンが書くようなドイツ風のファンファーレが聞こえてくると第3部である。 ファウストが侵入したマルガリータの家で、彼女は中世風の「トゥーレの歌」を歌う。二人は夢の中でお互いを恋しており、その夢心地の中に展開される音楽(「鬼火のメヌエット」から「セレナーデ」にかけて)はベルリオーズの真骨頂だろう。やがて二人は「愛の二重唱」を歌う。だがそれもつかの間、ファウストはマルガリータの前を去らなければならない。

第4部はマルガリータとファウストの死。「劫罰」とは永久に続く罪と深い罰のことである。自然と心理、天国と地獄。その間を行き来する幻想的な音楽。ファウストと会うために母親に薬を飲ませ、死に至らせた罪でマルガリータは死刑となる。自らの死と引き換えに悪魔と取引きし、若さを手に入れたファウストは魂を明け渡した罪に問われ、地獄へと落ちてゆく。だが、音楽は最後に「エピローグ」が置かれ、贖罪されたマルガリータは天使に導かれ、天国へと迎え入れられる。合唱の美しい響きが、この曲の後味をいいものにしている。夢の物語の帰結は、夢のように美しい。

ベルリオーズはこのように、オペラとも何ともつかないような作品を作曲した。だが考えてみるとこの作曲家は、従来の枠にとらわれない程奔放な作品を作り続けたと言える。まるでヴィオラ協奏曲のような交響曲「イタリアのハロルド」や、交響曲で物語を表現した「ロメオとジュリエット」など、いずれも複数のジャンルの要素を取り入れたユニークな作品である。「テ・デウム」のように音楽の規模は肥大化し、「レクイエム」は非常に長い。彼の作品に対する情熱は、しばしば原作の変更にまで及んだ。「ファウストの劫罰」もまたゲーテの原作に触発された作品ではあるものの、その物語を彼流に組みなおした音楽作品である。親しみやすさと要素の多彩さにおいて、私は「ファウストの劫罰」がベルリオーズのもっともベルリオーズらしい作品だと思う。

小澤征爾は1973年、名門ボストン交響楽団の音楽監督に就任した。まさに飛ぶ鳥を落とすような勢いだっただろう。師匠シャルル・ミュンシュが黄金時代を築いたアメリカ東部の保守的なオーケストラは、若干38歳の日本人にその運命を託した。それから2002年にウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任するまでの、30年近くに亘ってこの地位を保ったことは、驚異的な成功だったと思う。私も1990年代に来日したボストン響の演奏会で小澤のベルリオーズを聞いているが、指揮者と一体となり磨き抜かれたアンサンブルに驚嘆したのを思い出す。

ボストン響のシェフに就いた小澤は、さっそくミュンシュの得意としていたベルリオーズの作品をドイツ・グラモフォンに録音した。「ファウストの劫罰」はその時のもので、今でもその音色は色あせないばかりか、むしろ後年に失われてしまった生気がみなぎるものである。小澤の代表的録音と言っていいだろう。主役ファウスト(テノール)はスチュアート・バロウズが、マルガリータ(メゾ・ソプラノ)は何とエディット・マティスが、メフィストフェレス(バス)は若きドイツ人、ドナルド・マッキンタイアが歌っている。ブランデル(バス)はトマス・ポール。ドイツ人のフランス語の歌唱としてどうなのかは意見が分かれるようだが、私はむしろボストン少年合唱団とタングルウッド音楽祭合唱団の洗練された合唱に大いに心を奪われている。オーケストラのサウンドと合わせ、もっとも高水準のベルリオーズが展開されている。

小澤の俊敏なテンポで奏されるリズムには、ときおりはっとさせられるような瞬間がある。聞きなれた旋律がとても印象的に響く。特に、最低限の要素で旋律を歌うベルリオーズの音楽は、鬱陶しい梅雨空の続くこの季節の日本では一服の清涼剤である。ボストン響の夢見心地のように鳴り響くオーボエの旋律は、第4部「ロマンス」で真価を発揮し、そこにマティスの歌が溶け合う。

小澤は後年、サイトウ・キネン・フェスティヴァル松本においてこの作品を舞台上演した(1999年9月)。この時の演出は、METでの「リング」を完成させたフランス人、ロベール・ルパージュだった。私はこのビデオをNHKのテレビで見て大変大きな感銘を受けた。もう一度見てみたいと思ったが、なかなか再放送されない。そんな時、同じような格子状の監獄のような舞台をジャケットに使用したDVDを見つけた。てっきり小澤盤だと思って買ったら、同じルパージュ演出によるシルヴァン・カンブルラン指揮ベルリン国立歌劇場による1999年8月の公演映像だった(つまりサイトウ・キネン・フェスティヴァルの直前ということになる)。

この公演は、ザルツブルク祝祭大劇場の広い空間を利用したダイナミックなものだが、カンブルランの音楽もいくぶん遅くて精彩を欠き、ライブ収録された音響の悪さも手伝って散漫な印象を受けるのは残念なことだ。ホセ・ファン・ダムやスーザン・グラハムといった錚々たる歌手陣を揃えたサイトウ・キネン・フェスティヴァルの小澤の指揮が、やはり光る。

私は賛否両論あるルパージュの演出が好きな方である。そしてMETライブシリーズでも取り上げられた(2008年)。私はこのシリーズを80作品以上見てきたが、この舞台だけは見損なっているのが悔しい。実演では2006年NHK交響楽団(指揮はシャルル・デュトワ)と2016年東京交響楽団(指揮はユベール・スダーン)で聞いている。後者は特に印象が深かった。

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