2020年9月25日金曜日

ファド名曲集(アマリア・ロドリゲス)

ポルトガルの首都リスボンは、函館に似ている。海に近くて料理が美味く、坂道を古い市電が走り、ひと時代前のノスタルジーに溢れている。かつて函館を舞台にしたモノクロ映画を見たことがあるが、そのタイトルは「とどかずの町で」というもので、音楽に使われている作品の中にポルトガルを題材にしたものが混じていたように記憶している。ただ北海道生まれの妻に言わせるとリスボンは、室蘭なのだそうだ。

リスボンは暗い事情のある男女が駆け落ちする街にピッタリの風情がある。リスボンを舞台にした映画「過去を持つ愛情」は、パリを逃れてやってきた男女が、南米行きの船を待つ間の恋を描いたフランス映画である。私はかつて衛星放送で放映されたのを覚えている。最後のシーンが印象に残った。この作品で歌われたのが「暗いはしけ」という歌である。アルファマ地区と呼ばれるリスボンの下町は、市電がやっと通れるような狭い路地を縫うように走り、庶民的な生活の匂いがただよってくるところでる。小高い丘からはテージョ川河口が見える。アズレージョと呼ばれる青いタイルが映える。そんな街の夜の居酒屋で、地元の女性歌手はあまりに情に満ちたファド「暗いはしけ」を歌う。この映画は彼女だけでなく、リスボンの街そのものを有名にしたと言って良い。

話は変わるが、大阪のキタにかつて「ワルツ堂」という、クラシック通には有名なレコード屋があった。当時大学生だった私はある日たまたまこの店に入り、CDやレコードを物色していると突然、独特の弦楽器を伴う哀愁を帯びた歌声が聞こえてきた。それは叫ぶような歌声で、時に音程を外しかけるようなサビを連発していた。このレコード屋には名物の店主がいて、そんな評判の演奏を聞かせては客と対話する。そしてある客がついに尋ねた。「これ、何の歌ですの?」。すると店長は一枚のCDを取り出し、「はい、これ。なかなかいいですやろ」。話はそれから数年前に遡る。

1987年に初めてヨーロッパを旅行した私が、どうしてまたリスボンくんだりにまで足を運ぶことにしたかは、もしかするとこのファドの魅力によるのかも知れない。といってもまだインターネットもない時代、遠いヨーロッパの歌謡曲など知る術もない。ファドという、とてもエキゾチックな音楽がある、ということしかわからない。そこで私がリスボンの街を友人と別れてひとり歩き、エデュアルド7世公園にほど近い、当時としては最新で唯一の高層ビルの中にレコード屋を見つけた。私はファドのディスクを買ってみようと思い、入ってみた。

ところが当時、CDはまだ発売され始めたばかりの頃で、ポルトガルではまだあまり出回っていなかった。「ファドを聞いてみたい」という私のリクエストに、店員は棚の中から2種類のカセットテープを取り出した。一枚は最新の男性歌手によるもので、もう一つはアマリア・ロドリゲスのライブ。男声のファドというのもめずらしいが、コインブラを中心に歌われている少し女々しい歌は、女声によるファドとはまた違う趣きがあった。私はそれらを買って日本に持ち帰り、「涙」「憂い」「懐かしのリスボン」といった名曲を聞いていった。もちろん「暗いはしけ」も。そしてヨーロッパ旅行から帰国して何年かたったある日、大阪の「ワルツ堂」で耳にしたのが、そのアマリア・ロドリゲスの、もっと明瞭に録音された、アナログ録音の香りが彷彿とするCDだったのである。

私はこのCDを衝動的に買った。そして調べて見ると、アマリア・ロドリゲスはまだ健在の現役歌手であり、たまに来日公演を行うことがあるそうだった。ポルトガル語がわからない私は歌詞カードを見ながら、まるで演歌のようなその台詞に胸が締め付けられるような思いがした。リスボンの抜けるような青空とは対照的に、何と心は哀しいのだろう。例えば「涙」の歌詞…

涙でいっぱいになって 涙でいっぱいになって
わたしは横たわる(中略)
もし わたしが死んだなら
あなたがわたしに 涙を流してくれるのだとわかったら
ひとしずくの涙 あなたのひとしずくの涙のために
どれほどうれしく 私は殺してもらおうとするだろう

郷愁、憧憬、思慕、切なさといった、どこか日本の心を思わせるような意味を持つ「サウダーデ」という言葉は、ポルトガルを語る時、避けられないものである。そのポルトガルと我が国は、戦国時代から縁が深い。我が国に初めて西洋文明をもたらしたのは、大航海時代のポルトガルだった。ポルトガル旅行のあと、長崎や澳門、あるいはマラッカといったポルトガルゆかりの地を訪ねることが、私の旅の一つのテーマとなった。そしてあの美味しいワインともに鰯や干し鱈などを食するポルトガル料理もまた、我が家では時折チャレンジするものとなっている。

ファドはその後、ポルトガルが経済成長をして有名な観光国となり、東京にもポルトガル料理のレストランが誕生した現在では、気軽に聞くことができる。もちろん音楽はダウンロードやストリーミング配信によって、簡単に手に入る。「ワルツ堂」をはじめとする数多くの個性的なレコード屋が姿を消し、音楽との出会いがかつてのような偶然と感動に満ちたものではなくなった。手に入りにくいからこそ思いが募るという当たり前だった経験は、現代に入ってもはや消え去ってしまったのだろうか。

リスボンで買った2つのカセットテープは長らく私の宝物だったが、もはやデッキが壊れ聞くことができない。かわりに私はMP3形式でデジタル化し、ハードディスクに入れてある。それもあと何回聞くことになるかは、実のところわからない…。


【収録曲】
1. 私の憂い
2. 涙
3. 月の花
4. 暗いはしけ
5. ポルトガルの四月(コインブラ)
6. 懐かしのリスボン
7. 愛しきマリアの追憶(マリキーニャス)
8. かもめ
9. わが心のアランフェス
10. バラはあこがれ
11. 孤独
12. にがいアーモンド
13. マリア・リスボア
14. どんな声で
15. 洗濯
16. 私は海へ
17. 叫び
18. 川辺の人
19. アイ・モーラリア
20. このおかしな人生

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