2020年11月23日月曜日

ドヴォルジャーク:弦楽セレナーデホ長調作品22(クリストファー・ウォーレン=グリーン指揮フィルハーモニア管弦楽団)

弦楽器ばかりの編成で演奏される「弦楽セレナーデ」の最も有名な曲は、チャイコフスキーとドヴォルジャークによって作曲された。この2曲は、まだクラシック音楽のLPが高価だった時代に、よくカップリングされて発売された。特に「ベスト100」の類の、いわゆる廉価版・再発物は、有名曲を並べるのが通例であったから、まさにこの組み合わせはその代表的なものだった。

私が、最初にこの2曲を収録したディスクを聞いたのは高校生の頃で、ネヴィル・マリナーが指揮するものだった。マリナーの演奏する弦楽セレナーデは、主宰するアカデミーのオーケストラの特長を生かしたもので、確固とした演奏は非の打ちどころがなく、いつものように大変素晴しかった。特にチャイコフスキーの方は、もともとドヴォルジャークに比べてより洗練された音楽で、私もそれ以前から聞いており、「アンダンテ・カンタービレ」をはじめとして魅力的な部分に事欠かない。だが意外なことに私を捉えたのは、どちらかといえばB面に入っていたドヴォルジャークの方だった。

ドヴォルジャークの弦楽セレナーデ(1870年)は、チャイコフスキーの方(1875年)に先立って作曲された。ドヴォルザークがチャイコフスキーの作品を聞いてから作曲したとは考えられないが、その逆はあり得る。そして冒頭の主題が最後に回帰するあたりや曲の長さなど、両者はよく似ている点もある。しかしやや都会的な感じがするチャイコフスキーに比べ、ドヴォルジャークの弦楽セレナーデは、終始民族的なメロディーが一貫し、素朴で抒情的な魅力を凝縮したような作品である。

マリナーによるドヴォルジャークの弦セレは、少し派手な感じがしていた。こういう曲はもっとしっとりと演奏してくれと主張しているような気がしてならない。曲の方が演奏を指定しているのである。そういうわけで、心に響くような、懐かしさがこみ上げてくるような演奏に出会わないものだろうか。私にとっての弦セレを求める旅は、このようにして始まった。

コリン・デイヴィス指揮バイエルン放送管弦楽団の演奏(1987年録音)に出会った時、おそらくこれが理想的なものだと感じた。遅いテンポと、そこに寄り添う控えめでありながら芯のある演奏は、この指揮者の長所が現れたものだ。そしてまた、あるときふと耳にしたアレクサンダー・シュナイダー指揮ヨーロッパ室内管弦楽団による演奏(1984年録音)もまた、ゆったりと流れる遅めの演奏と静かな抒情性を湛えていて大変魅力的であった。このように、特にドヴォルジャークの弦セレの名演には、イギリス人によるものが大変多い。

だがこれまでに触れた演奏は、いずれもどことなくインターナショナルな響きである。発売されるたびに大きなる期待を持って聞くのだが、最終的にこれだとほれ込むには今一歩何かが足りないと感じていた。第1楽章の冒頭は、もっとゆっくりでもいい。そっと頬を撫でるような繊細な演奏は、どこかにないものだろうか、と勝手にこの曲の理想のイメージを描き、それを追い求めている自分を納得させる演奏に、なかなか出会うことができないと嘆いていた。

そんな私を、聞いた瞬間、これだと思わせる演奏に出会ったのは、やはり1980年代後半のことだった。Chandosという、我が国ではまだあまり知られていなかったレーベルから発売されたクリストファー・ウォーレン=グリーン指揮フィルハーモニア管弦楽団による演奏(1986年録音)に出会ったのである。

クリストファー・ウォーレン=グリーンなどという指揮者は無名で、そんな指揮者がいるのかと思ったが、オーケストラはメジャーなフィルハーモニア管弦楽団である。良く読んでみると彼は、このオーケストラのコンサート・マスターをしている人であった。そのウォーレン=グリーンが指揮する弦セレのCDは、何と第1楽章が5分半もかかるゆったりとしたもので、私はこの曲に求めていた究極的な繊細さを実現してくれていたのである。

このウォーレン=グリーンの指揮する弦セレを聞くと、私はなぜか北海道のローカル線を思い出す。誰も乗り降りしないような無人駅を、わずか1両の列車が停まって、一人の若者を残し去ってゆく。晩秋の北海道は紅葉も終わり、初雪が舞いそうな陽気である。何もない山間の中を、ひとり旅する若者は一体どのような人なのだろう。丸で松山千春のレコードのジャケットに登場しそうな光景であるが、人間のイメージと言うのはどこかで目にした風景や光景が、何かと結びついて固定化されてしまうようところがある。特に若い頃のそれは、いつまでたっても枯れるどころか、やがていい塩梅に美化されてゆく。丸で枯れ木にこびりつき、一冬を超すと雪のような結晶と化すザルツブルクの岩塩のように。

というわけで何十年かぶりに聞くウォーレン=グリーンによる弦セレは、私を再び北海道の大自然へと誘ってくれた。それがボヘミアやスコットランドに似ているのかどうかは、訪ねたことがないのでわからない。ウォーレン=グリーンの演奏は、第2楽章になってやや勢いを取り戻すが、基本的には終始同じ感じである。残響が多い録音なので、やや厚ぼったく、丸でイージー・リスニングか映画音楽のように聞こえる時がある。けれども決して女々しい演奏ではないようにも思う。

第1楽章の控えめ目な冒頭の主旋律が、やがて転調されて再現されるところの処理が、高音の弦を活かして見事である。そして第2楽章のワルツや、第3楽章のスケルツォを経て第4楽章のラルゲットに至る時、再び静かで内省的な部分がアクセントとなって胸に迫って来る。ここは、この曲の真骨頂と思う。緩急の音楽がうまく配合され、聞いていて飽きなてこないのは、弦楽器のみの作品としては稀有なことのように思う。これを聞いてチャイコフスキーは、自らの弦セレの作曲を思い立ったのであろうか。

モダン楽器による演奏が影を潜め、より小さい編成でスッキリと引き締まった演奏が主流となった90年代以降に置いて、ほとんどこの曲の新しいリリースを聞かなくなった。そんな中で、かのウィーン・フィルが遂にこの曲を演奏したのは、ちょっとした驚きだった。指揮者はドヴォルジャークには定評のあるチョン・ミュンフンで、手の込んだ音楽づくりはまさにこの曲の新たな魅力を引き出していると言える。丸で絵の具を重ね行くように、弦楽器が交わって聞こえるのは、どの瞬間をとっても味わい深い。私はこの演奏もまた、大変優れたものだと思う。だが、あの北海道の大自然を行く鄙びた風情は、ここからは感じられない。

2020年11月。私は下川町に住む友人を訪ねて、初めて名寄に行った。かつて名寄本線や深名線が交差し、北の分岐点だった町は人口も減ってしまった。冬の平均気温が氷点下10度にもなるという極寒の地の秋は短い。塩狩峠を越えて旭川に向かう帰り道、私は初雪の残る宗谷本線の駅を、一台の列車が通り過ぎるのに出くわした。慌てて写真を撮った。まだ2時だというのに空はどんよりと曇り、その合間から優しい青空が見えた。



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