2022年3月18日金曜日

東京フィルハーモニー交響楽団第966回定期演奏会(2022年3月10日サントリーホール、ミハイル・プレトニョフ指揮)

 「高い城」は峻厳に聳え、「モルダウ」は急流を下って大河となり、「ボヘミアの森と草原」はまるで飛行機から眺めるように広大である。「4度目の正直で実現」となった今回のミハイル・プレトニョフ指揮によるスメタナの連作交響詩「わが祖国」(全曲)演奏会は、引き締まったテンポと一糸乱れぬアンサンブルで、あっという間に私たちをボヘミアの大地へと誘い、聞き惚れているうちに終わってしまった。曲間の休息をほとんどおかず、丸で1つの連続した曲であるように演奏した結果、集中力は持続され、すべての楽器から深い息遣いと、明瞭な音色のコントラストが聞き取れた。

プレトニョフは東フィルととても良好な関係を保っているように思われた。プログラムによればその関係は、2003年から20年近くに及び、特に2015年からは特別客演指揮者の地位にあるという。今シーズンの定期演奏会にも、この3月に続いて5月にも登場する。しかしコロナ禍によって今回のプログラムは、3度に亘って延期されたようだ。私はそのことを知らなかったが、彼はプログラムをそのまま維持し、やっとのことで今回の演奏にこぎつけたのだ。演奏する側も聞く側も、それなりの思い入れがあっただろうと思う。だからというべきか、平日のプログラムにもかかわらず、客席は満席に近かった。

私にとってプレトニョフの演奏に接するのは2回目である。初回は彼がまだ若いピアニストとして名声をほしいままにしていた時期、丁度ソビエトが崩壊してロシアが混乱を極めていた頃に設立したロシア・ナショナル管弦楽団を率いての来日公演があった。だがここでの私の印象は薄い。どことなく慌ただしい演奏で、オーケストラのプレイヤーは実力者揃いであるものの、アンサンブルはまだ成長の余地を残していたように思う。混乱した政治情勢下で、自立して収入を確保することはたやすいことではなかっただろう。次々と落ちぶれてゆくかつての名オーケストラに代わって、新しい時代の息吹を感じさせてはくれたが、彼自身がピアノで見せる斬新さには及ばなかった。

そのピアニストとしてのプレトニョフは、私にとって瞠目のディスクだったベートーヴェンのユニークなピアノ協奏曲全集が何といっても記憶に残る。特に「皇帝」はこのブログでも触れた私の同曲の愛聴盤である。そこで聞かれる奔放でしかも考え抜かれた表現は、この曲の新しい境地を開いたようにも思う。この時プレトニョフは、ピアノがいい、と思った。CDではピアノ演奏に徹するためか、別に指揮者を置いている。

スメタナの「わが祖国」は、チェコにゆかりの演奏家によって演奏される以外は、あまりお目にかかることがない。愛国心の塊のような音楽に、なかなかアプローチがしにういのだろうか。我がコバケンも「プラハの春」でチェコ・フィルを指揮しているから十八番であるのは当然で、私もその演奏を一度聞いている。それ以外では、ピンカス・スタインバーグがN響を指揮した演奏が思い出に残っているが、いずれにしても曲の魅力を十全に引き出したその演奏は、曲の魅力を伝えて止まない名演だった。

そこにプレトニョフは、曲の魅力だけでなく、新しい演奏のアプローチを試みた。ロシア人の彼がボヘミアに寄せる思いはどういうものか、よくわからない。もしかすると同じスラヴ民族という共感が、彼のこの曲へのこだわりを形成しているのかもしれない。純音楽的な意味においても、この曲は魅力的である。「モルダウ」こそ有名だが、その他の交響詩、とりわけ後半の3つは、本来の重心がここにおかれるべき音楽的霊感に満ちたものである。全6曲中、私は「ボヘミアの森と草原から」が最も好きである。

プレトニョフの演奏は、俯瞰的にこの音楽を眺め、バランスの良い構成に仕上げていたように思う。そして彼の真骨頂は、従来の慣習にとらわれない曲の解釈と、メリハリの付けた音の構築にあると思う。テンポは常に少し早めでありながら、急ぎ過ぎている感じはしないのは、アクセントがきっちりと保たれ、力を入れる音と、少し抜く音が明確にされている。そのことが音楽に呼吸を与える。長距離ランナーが有酸素運動によって安定した走りを持続するように、彼の音楽は健康的で力強い。安定して集中力が維持される結果、演奏家も高度なソロ部分を雄弁に表現できるような気がする。「モルダウ」におけるフルート、「シャールカ」におけるクラリネット、「ボヘミアの森と草原から」におけるオーボエや弦のフーガなどである。

私はこれまでに聞いて来た「わが祖国」とは少し異なる新鮮なものをこの演奏に感じることができた。プレトニョフの指揮による東フィルの演奏が、これほどにまで人気があるその理由がわかったような気がした。同じ思いだった聴衆も多いのだろう。その熱烈な拍手に応えて、定期演奏会としては大変珍しいことに、彼はバッハの「G線上のアリア」をアンコール演奏した。この曲に、一体どのような意味が込められていたのだろうか?2年以上に及ぶコロナ禍を経験した社会への慰め、不幸にして亡くなった人々への哀悼、そして昨今のウクライナ情勢に端を発する平和への祈り。それぞれがいろいろな意味を考えたことだろう。弦楽アンサンブルが、ここでも見事なコントラストを見せながら、私はこんなに表情豊かで美しい「G線上のアリア」を聞いたことはなかったと思った。

とても速い演奏のように思えたが、終わってみると9時近くになっていた。赤坂アークヒルズの夜景も徐々に日常を取り戻しているように思える。明日からは休みを取って奈良、京都を巡る。古寺を訪ね、友人と会食を楽しむ予定である。京都では、広上淳一の指揮する京響最後の公演を聞くことも予定に入っている。早朝の新幹線に乗るため、早く床に就くことにしようと、足早に会場を後にした。

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