2022年3月21日月曜日

京都市交響楽団第665回定期演奏会(2022年3月13日京都コンサートホール、広上淳一指揮)

新型コロナウィルスの爆発的流行を受けて、中止や公演内容の変更を余儀なくされた演奏会は数知れない。京都コンサートホールで開催された広上淳一を常任指揮者とする最後の公演も、その一つである。演目がマーラーの交響曲第3番から第1番へ変更されたからだ。これは出演を予定していた少年合唱団が、練習できなくなったことによる。そういうアナウンスがあったのが2月の下旬、公演の数週間前のことである。この最終公演を楽しみにしていたファンは多いだろうと思う。ただ、曲目に変更があったとしても、開催できたことを喜ぶべきかも知れない。そしてこの公演は、その前評判に違わず忘れ得ぬ名演となった。

私は昨年(2021年)の秋、東京で開催された京響の演奏会を聞いて、広上の指揮するマーラーの演奏が大変面白く、また的を得たものであることを初めて経験したことは、このブログにも書いた。その時演奏されたのは、ベートーヴェンとマーラーの、いずれも交響曲第5番という意欲的なプログラムで、まずはこのオーケストラの演奏水準に驚くと同時に、広上の楽天的でユニークな指揮に惹きつけられた。京響だけでなく彼は、どのオーケストラでも同様に、曲の表情を全身を持って表現する。一見、滑稽にさえ思われるその指揮姿も、曲のニュアンスを演奏者に伝える手段として大いに機能している。そしてそれが見ていても面白いし、聞いていてもツボを得ている。

マーラーの交響曲第5番が、これほどにまで雄弁に真実味を持って私に迫ってきた演奏を聞いたのは初めてだった。東京での最終公演となるその演奏会でマイクを握った指揮者は、京都に是非聞きに来てくださいと述べた。その最終公演が、今回の第665回目となる定期演奏会で、そのチケットは2月に発売された。

私は遅まきながらこのチケットを知った時、もう売切れてしまっていることを覚悟していた。ところが2日あるどちらの公演も、まだ多くの席が残っていたのである。週末のマチネとあらば、東京ならこのような記念すべき演奏会はたちまち売り切れる。しかし京都では絶対的なファンの数が少ないのだろう。だから当日になってからでも、思い立ってコンサートに出かけることができる。ニューヨークでもどこでも、これは普通である。私は大阪の出身だから京都でのコンサートとなると誘うことができる人もいる。そういうわけで、初めての京都コンサートホールに出かけることになった。

例年になく寒い冬が続いた今年も、3月に入って急に暖かくなり、特にこの週末からはまるで初夏を思わせる陽気となった。3月11日から関西入りした私は、仕事を休んで古都の小旅行となった。2日間奈良のホテルに宿泊し、斑鳩や飛鳥の里を散策しては古寺を訪ね、外国人も修学旅行生もほとんどいない閑散とした中で世界遺産、国宝、それに重要文化財の数々を見て回った。奈良では旧い友人に会い、万延防止措置の出ていない街で遅くまで飲むことができた。

そういう充実した日々の最後に京都に移動。地下鉄を北山駅で降りるとすぐそこにコンサートホールはあった。まだ新しいクラシック専用のホールは、京都にこそ相応しいと思うが、そういうホールができたのは最近になってからである。そしてその館長にも選ばれたのが、2008年からシェフを務める広上氏である。東京生まれの江戸っ子が、古都のオーケストラを指揮するのは面白いが、これがピタリと上手く行ったのだろう。京響はメキメキと実力をつけ、「今や世界に誇れるオーケストラ」にまでなったと、開演前のプレトークで紹介された。

マーラーの交響曲第3番に代わって演奏されることになったのは、広上の師匠でもある尾高惇忠の女声合唱曲集「春の岬に来て」から「甃(いし)のうへ」と「子守唄」。それに藤村美穂子(メゾ・ソプラノ)を迎えてのマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」、それに交響曲第1番「巨人」である。そもとも出演を予定していた合唱団(京響コーラス)は、わずか2週間でこの合唱曲に対応したそうである。一方、藤村はわずかこの2日間のコンサートのためだけにドイツから帰国し、隔離生活も終えて会場入りしたと紹介された。

当日券に並ぶ多くの人たちも無事客席に着いて、舞台背後の客席にディスタンスを取って女声合唱団が入場した時、これから始める曲が何とマスクを装着したまま歌われることを知った。これは驚きだったが、どこか春霞でもかかったような効果があったのかも知れない。尾高の曲は、オーケストラによる伴奏で演奏された。特にわずか24歳で夭逝した立原道造の詩による「子守唄」には「靄(もや)に流れる うすら明(あか)り」という歌詞がある。「眠れ、眠れ」と繰り返されるその歌詞を聞きながら、これは昨年2月に亡くなった尾高に対する広上の鎮魂歌だったと思う。

藤村美穂子が登場し、会場が一層晴れやかになった。マーラーの歌曲「リュッケルトの詩による5つの歌曲」を、彼女は心を込めて歌った。すでにCDも出ている藤村のこの作品への愛着は、配布されたプログラムに掲載されていた歌詞対訳が自らの翻訳であることからもわかるような気がする。交響曲で言うと丁度第5番のあたりに書かれ、あの有名な「亡き子をしのぶ歌」の頃である。もっとも「亡き子をしのぶ歌」は、リュッケルトが書いた詩10作品に対して作曲されたもののうち5つが採用されており、残りの5つが「リュッケルト歌曲集」である。ここで管弦楽による伴奏が付けられたのは4曲であり、「美しさゆえ愛するのなら」だけはピアノ伴奏版しか残されていない(従って、通常はブットマンによる編曲版が用いられる)。

曲順の指定もないようだが、今回の演奏では「美しさゆえ愛するのなら」が先頭に置かれ、続いて「私の歌を見ないで」、「優しい香りを吸い込んだ」、「真夜中に」と続き、次第に深淵な世界へと入ってゆく。最後の「私はこの世から姿を消した」では、やはりマーラーの「死」への拘りが最高点に達するが、このような順序は実際の演奏会でも聞いていてよくわかった。藤村のこの作品への思いが、終演後にも見てとれた。彼女は感極まって、涙を浮かべていたようにも見えた。深々とお辞儀を繰り返す彼女に、客席からは大きな拍手が続いた。マーラーの交響曲第3番では、わずか6分しか出番のなかった彼女が、そのためだけにドイツから帰国するのも相当なものだが、この「リュッケルト」に変更されたことで私たちは、より長く、そして深く彼女の歌を味わうこととなった。

休憩を挟んで演奏されたマーラーの交響曲第1番は、新たな出発の音楽である。私の知人も自らの通夜でこの曲を流していた。まだ駆け出し音楽家だったマーラーの最初の交響曲(最初はカンタータ)であるこの曲には、すでにマーラーらしい着想に溢れ、後年の9曲に及ぶ交響曲の先駆けに相応しい内容を持っている。広上は丁寧にこの曲を指揮し、特に第3楽章の中間部という最大の聞きどころでは、コントラストを浮き上がられて少年時代を回想し、終楽章のトゥッティでは一瞬止まって音楽を爆発させる要所を抑えた指揮ぶり。ツボを心得た指揮ぶりが、彼の真骨頂である。

オーケストラも弦楽器奏者の最後列に至るまで体を揺さぶる熱演に、聞いている方も力が入るが、決して力み過ぎないところが広上のいいところだろう。コーダの部分ではホルンだけでなく、トランペットの奏者も起立してより迫力を増し、圧倒的なアンサンブルが炸裂、会場が沸きに沸いた。

何度も呼び戻される指揮者は、各パートを回って奏者を立たせた。そして何度目かの登場で遂にマイクを持ち、10年以上にも及ぶ京響での活動を総括した。アンコールに尾高の「子守唄」をもう一度、ということになり再び合唱団が登場、合わせてこのたび対談する2人の奏者への花束贈呈など、盛沢山の演出が終わったのは、もう5時を過ぎていたように思う。

最終公演と言っても広上は「別に今生の別れではない」とおどけ、これからもコンサートを指揮すると言う。そして遭えなく変更となったマーラーの交響曲第3番を、そのうちリベンジ演奏したいと宣言した。

公演が終わったら私は、一緒に出掛けた義妹としばしお茶をしたあと地下鉄に乗り、京都駅へと急いだ。コロナ禍であるというのに人でごったがえず地下街でお弁当を買い込み、新幹線「のぞみ」で東京までの2時間。心地よい余韻に浸りながら、新幹線から夜の車窓風景を眺めた。東京と関西を往復しながらコンサートに通うのは、ちょっとした贅沢である。でもなかなか捨てがたい魅力である。もうちょっと交通費が安ければいいのに、といつも思うのだが。

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