2024年5月11日土曜日

日本フィルハーモニー交響楽団第760回定期演奏会(2024年5月10日サントリーホール、カーチュン・ウォン指揮)

今季日フィルの定期会員になった理由のひとつが、このカーチュン・ウォンの指揮するマーラーの演奏会だった。昨年第3番を聞いて感銘を受けたからだ。今や私はシンガポール人のこの若手指揮者のファンである。彼は日フィルのシェフとして、アジア人の作曲家の作品を積極的に取り上げているが、それと同時にマーラーの作品を順に演奏している。それでもさすがに、第9番ともなると演奏する方だけでなく、聞く側も覚悟がいる。

このマーラーが完成させて最後の交響曲は、声楽を含まず、楽章も4楽章構成と一見純器楽作品に回帰している。そのため親しみやすいと考えるのは禁物で、各楽章の構成は大変入り組んでおり、複雑極まりないのも事実である。どのように複雑であるかを記述するには音楽的な知識を要するので、私には書けない。幸い深澤夏樹氏によるプログラム・ノートに詳しく書かれているので、開演前のわずかな時間をその読解に充てた。

私はこの作品を鑑賞するのは3回目である。ただ以前の2回はほとんど記憶がない。1回目はヘルベルト・ブロムシュテット指揮NHK交響楽団で、記録によれば1992年11月(第1185回定期公演)となっている。30年も前のことである。まだ東京に出てきたばかりの頃で、仕事の帰りにNHKホールへ駆けつけ、ほとんど居眠り状態で3階自由席で聞いたのだろう。

2回目はベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団(1995年11月カーネギーホール)である。このコンサートは記憶に少し残ってはいるが、やはり後の方の席で聞いたこともあって、どんな演奏だったかを思い出すことはできない。定評あるハイティンクの指揮なので、それなりに感銘を受けたはずである。だが私はこの作品をちゃんと理解するには早すぎた。

ここのところの私は生活の区切りをつけたいと思っていて、最近はクラシック音楽のコンサートでも、それまでにあまり触れてこなかった重要作品を立て続けに聞いている。オペラの「トリスタンとイゾルデ」や「エレクトラ」についてはすでに書いたが、それと並行してブルックナーとマーラーの最後の3つの交響曲作品、すなわちブルックナーの第7番、第8番、第9番、マーラーの「大地の歌」、第9番、それに第10番が取り上げられる場合には、時間を何とかやりくりして聞いている。これらの作品は規模が大きく(補筆版を含む)、音楽的にも難解である。プログラムに休憩時間がないことも多い。

けれども人気があって、プログラムにのぼることは結構多い。マーラーの交響曲第9番も、毎年どこかで演奏されているような気がする。来年は佐渡裕指揮新日フィルの演奏会も予定されているようだ。そういうわけで今回の日フィルの演奏会も、二日目については売り切れてしまったようだ。私は金曜の第1日目の会員なので、その指定席(1階A席、向かって左手)に向かう。すでに管楽器のメンバーは舞台上に揃っており、やがて弦楽器の方々が登場した。

冒頭の演奏が始まってすぐ、私はオーケストラの音がいつもと違うような気がした。聞く位置によるからだろうか、あるいは演奏のせいか。ちょっと違和感があって、それは第1楽章の後半まで気になったが、全体にどことなく集中力が続かない。私は直前まで多忙な時間を過ごしていたので、平日のコンサートではよくあることだと思うことにした。ただ日フィルはとても良く鳴っている。いつものようにカーチュン・ウォンの指揮は細かく敏感で、まるでパントマイムのように指揮台で見事に踊っている。

マーラーの第9交響曲は「死」を意識する作品と言われている。だが私が今回聞いた演奏からは、絶望的な悲壮感もなければマーラー独特の厭世観も少なかった。それもまだ30代の若手が演奏するのだから当たり前ではないか、と思う。いやこういう演奏があってもいいと思う。ウォンもそのことは意識していて、彼は「今の自分にしかできない演奏」もあるのではないかと語っている(4月のプログラム・ノート)。

第2楽章のワルツはスケルツォ風だが、この楽章も軽やかであったし、第3楽章の「ロンド・ブルレスケ」では打楽器も入って大いに盛り上がり、賑やかだった。プログラムにも書かれているように、マーラーがこの作品を作曲したのは、決して死に怯えながら、というわけではなかった。実際、本当に「死」を意識する時、人間は創作などしていられないはずだ。新しいものを創り出すエネルギーがあるのは、「死」の恐怖から一時的にでも開放されているか、あるいはそれを意識する時間を忘れるだけの気力が残っている証左である。これは私自身の経験からそう思う。マーラーがテーマとした「死」は、そういうわけで差し迫った自身の「死」というよりも、もう少し観念的な「死」の概念であろう。あるいは娘の「死」の記憶か。

そう思ったとき、今日のコンサートがわかったような気がした。この作品はマーラーのそれまでの作品の延長上にあって、決して昔に回帰した作品ではない。むしろその次の第10番で試みようとしたような二十世紀の音楽への挑戦だったと見るべきではないか。すると純音楽的な意味で、まず器楽曲の新鮮さ、すなわち聞こえる音楽の透明かつ明晰な感覚(それはシェーンベルクに通じるような)を終始維持していることに気付く。ウォンはそう意識していたかはわからないが、よくありがちなマーラーの粘っこい、どろどろとした音楽としてこの作品を表現していない。

それはあの第4楽章の長大な「アダージョ」でも同様だった。ただこの楽章は、様々なモチーフを回帰し、最後は消え入るように弦楽器が長いアンサンブルを響かせる。その時の会場と舞台が一体となった感覚は奇跡のように静かで、しかも宇宙的な広がりを持っていた。会場が物音ひとつしない協力的な姿勢を貫けることができたのは、会場の聴衆のほぼ全員が、この音楽に思いを寄せ、演奏をリスペクトしていたからであろう。指揮者が腕を下ろすまでの長い時間(彼は第4楽章では指揮棒を持っていなかった)、会場は静まり返っていた。その時間は30秒も続いたであろうか。

やがて静かに拍手が始まり、2度目に指揮者が登場したときには一斉にブラボーが飛び交った。ホルンを始めとする管楽器の奏者をひとりずる立たせながら、満面の笑みを受かべて拍手に応えた。その風貌から、決して背伸びをせず、自身の「今演奏できる」マーラーをとことん演奏しきった充実感が感じられた。最近ではオーケストラが立ち去っても、ソロ・カーテンコールを促す拍手が続くことも多いが、今回はその人数も多く、この指揮者が今や大変な人気者になっていることがよくわかった。

多忙な日々を送っていると想像するが、来年にはついに「復活」がプログラムに上っている。今から楽しみである。

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