それにしても「田園交響曲」を聞くのは何年ぶりだろうか。手元のリストを検索してみると、何と2004年にロジャー・ノリントンで聞いて以来であることが判明した。この時の演奏は究極のノン・ビブラート奏法で、舞台最上段にずらりとならんだコントラバスから響く嵐のすさまじさに圧倒されたものだった。もはやベートーヴェンの交響曲は、従来のモダン風演奏には出会うことができなくなったとさえ思った。まあ、古楽器奏法の魅力に取りつかれていた私は、それでも良いか、などと納得していた。
それから20年近くがたって、今では様々な演奏が切り広げられているが、ここで聞く小泉の演奏は、まっとくもって一昔前風の、つまりはモダン楽器による演奏スタイル。とはいえ、カラヤン譲りの颯爽とした演奏はスタイリッシュで新鮮である。いわゆる巨匠風の悠然たる演奏ではないが、昨今の過激なまでに集中力のある演奏とは一線を画す、安心して聞いていられる演奏である。こういう演奏が結局は人気が高いようだ。サントリーホールは、コロナ禍で私が出かけた演奏会の中ではもっとも客入りが良かったように思う。私も久しぶりに「田園」を聞きながら、長かった2年半の「非日常」の日々と、特に今年の夏に起こった公私にわたる様々な困難に、思いを馳せた。
いっときはどうなるかと思った夏の日々を回想しながら、まだ続く不順な天候に自律神経がかき乱されている最近の状況も、わずかずつではあるが時が経つにつれて改善されているように思える。何も手につかない日々が続いたが、それも癒されていくのだろう。そう「田園」には、ベートーヴェンのモチーフである「困難を克服して喜びに至る」テーマが反映されている。
今回の演奏では第3楽章の繰り返しが省略されていた。「農民たちの楽しい踊り」もあっという間に嵐が来て、乱されていく。しかしすぐに始まる「神々への感謝」とともにフィナーレに向かった。それにしてもわが国のオーケストラも聞いていて上手くなったものだと改めて思った。そつなくこれくらいの演奏はできるのである。
休憩をはさんで演奏されたのは、レスピーギの「ローマの噴水」と「ローマの松」であった。この2曲は、やはり実演で聞くに限る。オーケストレーションの巧みさを肌で感じることができるからだ。録音だとつい聞き逃してしまうわずかなフレーズやアンサンブルに、耳をそばだて集中して聞き入ることができる。そして小泉の演奏が実に職人的で、これらの曲を見通し完全に手中に収め、純音楽的にオーケストラを操る余裕の演奏。
特に「ローマの松」のような大規模な曲になると、いわゆる熱狂的・扇動的な演奏になっても大変聞きごたえがあり、バランスを欠いているにもかかわらず大いに盛り上がる。それも音楽の表現ではある。けれども小泉の演奏は、その対極にあると言ってよかった。冒頭の賑やかな部分も、オーケストラをゆとりをもってドライブし、冷静でさえあった。そのため各楽器がよく聞こえt。「アッピア街道の松」が最終部に差し掛かった時でさえ、そのことは保たれた。おそらくすべての管弦楽作品中最大と言っていいような、左右の金管バンダを含め、あれだけの音量が鳴っていながら、冷静さを感じるその指揮と演奏が、私がこれまでに聞いた「ローマの松」では経験できなかった新しい側面を浮き彫りにした。
一言でいえば大変「整った」演奏だった。コンサートが終わって舞台に何度も呼びもどされた小泉も、いつもの表情で拍手に応え、台風の近づく秋分の日のコンサートがが終わった。会場を出ると、とうとう雨が降り出していた。もう9月も終わるというのに、蒸し暑い日が続く。今年の夏は異例づくめの夏だったが、それでも少しずつ、少しずつ、秋の足音が近づいている。
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