2023年2月28日火曜日

プッチーニ:歌劇「トゥーランドット」(2023年2月26日東京文化会館、二期会公演、ディエゴ・マテウス指揮)

会場に足を踏み入れると、靄がかかったように薄白い気体のようなものが会場に充満していることに驚いた。私は実際、翌日に目のの手術を控えており、これは病状がかくも進展しているのかと一瞬疑ったが、正常な方の左目だけで見ても同様だった。匂いはない。それから待つこと40分。幕が開いて一面に光線が乱舞する舞台が始まると、この灰白色の気体の原因が、もしかするとこの光線を映し出すのに効果的な演出の一部ではないかと思いついた。

二期会が「都民芸術フェスティバル」の一環として上演するプッチーニのオペラ「トゥーランドット」の公演に出かけることを決めたのは、前日のことだった。Twitterなどで前評判が良かったとはいえ、私はこの公演をそれまで知らなかった。そしてこの上演が「チームラボ」なる団体との共演であることも、ジュネーヴ歌劇場との共同制作であることも。ただ私は、入院を前日に控え大人しくしていようと決めたものの、することがない。こういう時は、何かいいコンサートでもないものかと検索をし始めたところ、上野公園の東京文化会館でこの催しがあることに気付いた次第である。しかも嬉しいことに当日券があり、前方の席が残っている。これは何かの縁ではないか、そう思った私は結構な額のチケットを購入していたのである!

「トゥーランドット」を実演で観るのは2回目である。前回は1996年2月のことで、当時住んでいたニューヨークのメトロポリタン歌劇場に、今の妻となる女性と出かけた。この時の主演はアンジェラ・ゲオルギューで、指揮はネッロ・サンティ。ビデオにもなった評判の演目は、絢爛豪華なフランコ・ゼッフィレッリの演出によって、目もくらむような舞台が展開された。当時私はそもそもプッチーニのオペラ自体さほど詳しくなかったが、この時の興奮は今でも記憶に新しい。

そのゼッフィレッリの「トゥーランドット」は、何とあれから30年近くたった今でも続いている。もはや古典的な演出と言ってもいいのだが、よく考えてみるとその舞台は、どこか「おかまバー」のような雰囲気を醸し出している。最初は感激していたが、何度か接するうちに辟易してきた。低俗とか下品とかという気はないが、そもそもが謎めいた東洋の神秘的ムードに、100年以上前のイタリア人が抱いていたものを重ね合わせると、(「蝶々夫人」でもそうなのだが)アジア人としてはやや複雑な境地ではある。だから再び「トゥーランドット」を見る以上、新しい演出で接してみたい、と思っていたのである。

それが実現した。そしてこの度の上演を担当したイングリッシュ・ナショナル・オペラ支配人のダニエル・クレーマー氏は、わが国の代表的な若手アーティスト集団である「チームラボ」にロンドンで接したようである。彼はその演出を「トゥーランドット」に採用することを思いつき、昨年(2022年)のジュネーヴにおいてこの舞台を制作したようだ。舞台は評判を呼び、「チームラボ」が手掛ける初のオペラ作品となった。一面に光線が縦横に交差し、それが幾何学的な法則に沿って動く。あるいは舞台上に設えられた構造物にカラフルな模様を描く。この「チームラボ」との共演というのが、今回の舞台の見どころの一つ。

もう一つの見どころ(聞きどころ)は、最終部における音楽が従来のアルファーノ追補版ではなく、ベリオが2001年に作曲したものを採用している点である。プッチーニが本作を「リューの死」まで作曲した時点でこの世を去ってしまい、最終部分の作曲をアルファーノが担当したことや、初演を担当したトスカニーニが、この追補を気に入らなかったことは良く知られている。悲劇的な「リューの死」が感動的なのに対し、そのあとあまりもの唐突なトゥーランドットの心の氷解、ハッピーエンドとなる舞台に違和感がないわけがない。その最大の理由は、ここの音楽を急ぎすぎているからだと思われるが、ベリオはその心理的遷移を少し時間をかけて音楽にしている。考えてみれば「蝶々夫人」で見せるあの美しい間奏曲のような時間経過が、ここにはないのである。

このように、演出と音楽に大きな着目点があることにより、歌手たちへの注目が少し減少してしまった感は否めない。二期会の通常の公演同様に、今回もダブルキャストで計4回の公演が行われ、最終日だった2月26日は、以下の配役であった。

トゥーランドット姫:土屋優子(ソプラノ)
皇帝アルトゥム:川上洋司(テノール)
ティムール:河野鉄平(バス)
王子カラフ:城宏憲(テノール)
リュー:谷原めぐみ(ソプラノ)
ピン:大川博(バリトン)
パン:大川信之(テノール)
ポン:市川浩平(テノール)
役人:井上雅人(バリトン)
合唱:二期会合唱団、NHK東京児童合唱団

管弦楽はベネズエラの「エル・システマ」出身のディエゴ・マテウス指揮による新日本フィルである。新日本フィルがピットに入るのは珍しいが、マテウスは昨年から小澤征爾音楽塾の首席指揮者に就任しており、今後日本での活躍も多くなると期待される。

私は実際、「チームラボ」なる団体のことを全く知らなかったのだが、東京にある若手のアーティスト集団とのことである。何でも世界的に様々な舞台を作り上げているらしい。そのユニークさにおいて、わが国のグループが世界的に活躍するのは珍しく、大いに評価すべきことだ。だがオペラの演出となると、これが単に「美しかった」「綺麗だった」では済まされないところがある。そもそもなぜ、そのようでなければならなかったか?その必然性はあるのか、などと問われる。そして実際、その答えがよくわからない。ただ、この光の演出は過剰なものではなく、むしろ控えめでオペラの持つ本来の歌と演技を決して邪魔するものではなかったことは重要な点である。つまりは「チームラボ」の効果は、あくまで舞台の演出の一部としてうまく同化しており、その点において、このオペラがそもそも持つ要素を引き立てはするものの、魅力を覆い隠すようなことはなかった。その意味で大変好感が持てる。

新しい要素についてこの舞台を考える時、もうひとつ、舞台に登場する圧巻のダンサーたちの演技を無視することはできない。彼らの肉体的な魅力は、ちょっとエロチックでさえある。というのも、トゥーランドットが拒絶し次から次へと求婚する相手を殺害する象徴的な物として、男性器が強調されていたからだ。このあたりのスケベさは、演出家が英国人であることを思い出させるが、かといって卑猥というわけではなく、これはトゥーランドットの極端な行動によって強調される、古代から続く男性優位社会へのアイロニーと、その重要な隠された理由(これをクレーマーは「男性の劣等感」と言っている)が、このオペラを理解する上での鍵であるという解釈に基づいている。

このあたりのインタビュー記事(有料のブックレットに掲載されている)は秀逸である。この演出を通じて主張すべきだと彼が考えるのは、トゥーランドットが求めていたのは、有史以来の(コンプレックスの反動として、女性を隷属的なものに押し込んむ文明社会を牛耳った)男性ではなく、新しい男性像であった、と。このことを考える上で重要だったのが、もう一つの音楽的試み、すなわちベリオ版の採用であった。このベリオ版が始まると(伝統的価値観の象徴でもある「リューの死」のあと)、音楽がいきなり現代的なものとなる。その変化も面白いが、ここでの「新しい」世界の出現が、音楽的に明確に示されることが重要だ。これによって、今回の「トゥーランドット」の上演のキーとなる要素が完結する。

「チームラボ」のまばゆい光の効果と、幾度も回転する舞台、それによく動く肉体的ダンサーや合唱陣。舞台から降りてくる2台の透明な箱と、その中で起こる真っ赤な惨劇。このような演出は、このオペラをむしろミュージカルのような世界に位置付けたように見える。だがそのことを含め、総合的かつ一貫してこれは新しい世界感への挑戦である。

我が国を代表する歌手たちの好演を忘れるわけにはいかない。個人的にはリューの谷原めぐみの歌が印象に残っているが、他の歌手の歌も決して不足感はない。新国立劇場を始め、多くの公演において脇役に甘んじるわが国の歌手たちが、立派に主役を演じるのが、二期会公演の魅力でもある。もう少しチケットが安いといいのだが。

最前の2列は客を入れなかったため、私の座った前方から4列目は、実質的には2列目だった。この位置では歌手の声はダイレクトに響く。目の前に広がる光のページェント。すぐ近くてオーケストラが鳴っている。やはりオペラは前の方で見るのがいい。客席には若い女性が多かった。終演後外に出ても陽はまだ明るく、時折強い風が吹いていた。着実に春はもうそこまで来ていることを実感した。


(追記)
実の舞台を前方で見ても、なかなか全体がわからないオペラの舞台も、プロの文章にかかるとかくも見事に解説されるという文章を見つけたので、リンクを貼ります。

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