2023年2月20日月曜日

シベリウス:交響曲第1番ホ短調作品39(マリス・ヤンソンス指揮オスロ・フィルハーモニー管弦楽団)

ある音楽家のインタビュー記事を読んでいたら、「シベリウスには色がない」ということが書いてあった。様々な作曲家の音楽を色に例えるのも面白いが、たしかにそういう感じかな、などと思った。色がないということは、この場合「真っ白」ということだろう。真っ白の平原に吹く風は冷たく、時に吹雪く。それは白樺の林を雪で覆う。私はフィンランドという国を旅したことはないが、写真で見る白夜の国はどこか野性的である。

そんなイメージの国に生まれたシベリウスには、7つもの交響曲がある。一番有名なのが第2番で、次が第5番。演奏もこの順番に多い。意外なことに、私が初めて外国のオーケストラというのを聞いたのはヘルシンキ・フィルの来日公演で、演奏された曲もこの2曲だった。シベリウスは、私にとって最も身近な作曲家の一人だった。ちょっと話は脱線するが、私のもう一つの趣味である短波放送でも、初めて聞いたヨーロッパの放送局はラジオ・フィンランド。確か「カレリア」組曲の一節が番組の中で出てきたから、これはすぐにわかったのだ。生まれて初めて英語で手紙を書いたら、その白樺の平原の写真を表紙にした放送局の冊子が送られてきた。

「色がない」シベリウスの作品とその演奏を文章にするのは難しい。いままで避けてきたのも、そんな音楽について書いていくだけのテーマを見つけられるか自信がなかったからだ。だがシベリウスには、そこにしかない魅力的な音楽が詰まっている。どうなるかわからないが、主要なオーケストラ曲をこの際集中的に聞いてみよう。そしてそれを何とか纏めてみようと思う。もちろん同様の試みは多数のブログでもなされているから、私としてはそれらも参考にしつつ自分の視点で探ってみたい。真っ白なシベリウスの魅力を。

というわけで、まずは交響曲第1番である。

この曲は、誤解を恐れずに言えば、シベリウス音楽の野性的な側面がストレートに出ている感じがする作品である。私は初めてこの曲を実演で聞いたとき、何とも捉えにくいと思いながらもそこそこ感動した覚えがある。演奏はシャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団だった。N響の重厚感ある響きが、シベリウスにマッチしていると思った。この演奏をそのままディスクにしてもいいのでは、とさえ思ったのだが、デュトワのシベリウスというのがピント来ないためか、実現することはなかった。

以後、何度かこの曲の演奏を聞くことはあったが、なかなか全体像がとらえきれない。やたら金管楽器の響く粗野な曲で、一時は出来損ないではないかとさえ思ったものだ。第3番以降のもっと落ち着いた作品が素晴らしいので、何も第1番を聞くこともない、と結論付けていた。けれどもある時、この曲は聞けば聞くほどに味わいがあるように感じられた。そしてついに、その全貌を余すことなく伝える素晴らしい演奏に出会ったのだった。それがマリス・ヤンソンス指揮オスロ・フィルによる演奏だった。このCDを買ったのは、この交響曲第1番以外に「カレリヤ」組曲と「フィンランディア」が収録されているからでもあった。

冒頭のオーボエが吹く陰鬱なメロディーから、私は白夜の北欧にトリップする。間をおかずして次第に大きく鳴り響く金管楽器の号砲に、明るい日差しを感じる。北欧の夏はそれはそれで多分に原生的である。冬長く閉ざされているせいか、夏の過激とも言える野性味が直線的に響く。

と、ここまで書いて、果たしてシベリウスの交響作品をこのように勝手なイメージを膨らませながら聞いていいのだろうか、などと考えた。まあ一人の単なる音楽愛好家としては、「正しい聞き方」などといった概念は必要なく、思うように聞けばいいのだが、それでもこれはシベリウスの意図したことだろうか、などと真面目に考えてしまう。だが、その懸念はあまり意味がないと思った。なぜならこの曲にまつわるエピソードとして、シベリウスがこの頃にベルリオーズの「幻想交響曲」を聞いて大いに感動した、というものがあったからだ。「幻想交響曲」と言えば標題音楽の代名詞のような作品で、交響曲でありながら音楽によって具体的な事象を表現している。

しかもシベリウスにとって最初の交響曲であるこの作品は、「交響詩」風の作品であり、当人も「幻想的に」などと指示(第4楽章)している。私はこの4つの楽章を、4つの季節を想像しながら聞いてみた。夏の北欧には行ったことがあるが、フィンランドはまだ知らない。それが冬ともなると、一日中暗く凍てつく寒さ。それは想像力の限界を超えているようなところがあることは、最初にお断りしておく。

第1楽章の過剰なまでの明るさが「夏」だとすれば、第2楽章は「秋」。緩徐楽章は、短い秋がやってきて直に冬の足音も聞こえてくる。そして「冬」。第3楽章スケルツォは、差し込むようなリズムである。中間部も置かれているが、そこは静かで寒い。私がこのような奇妙な例えまでも持ち出してこの曲を聞いているのは、そうでもしないと印象に残らないからだ、とも言える。一種の工夫である。

それにしてもシベリウスには、湿気というものがない。音楽の重要な要素、しっとりとして温かいメロディーといったものが皆無に聞こえる。それが「色」のない理由だろうか。第4楽章は最終的に、明るく広大で何かとても嬉しい感じのする曲である。だからこれは「春」。フィンランドの春は、水ぬるむ季節、といった感じはなくあくまで無色透明な明るさ。その光が広大な土地にあまねく降り注いで、長かった冬の終わりを告げる。

ヤンソンスはこの曲の録音を残した頃、すなわちオスロ・フィル時代が良かった。80年代から90年代にかけて、彼はほとんど無名だったノルウェーのオーケストラを世界的に有名なものにした。特にチャイコフスキーとショスタコーヴィチの交響曲録音は、後世に残る代表的なものだろう。そしてこのシベリウス。鋭角的でメリハリの利いたリズムが、曲の輪郭を浮き彫りにし、そこに木管楽器が、弦楽器が自信を持ったメロディーを重ねてゆく。従来あいまいにされることによって、どこか得体のしれない巨象のようなところがあったシベリウスの音楽が、神秘のヴェールを脱いだ感じのする演奏。現代的な魅力を感じた一枚だった。

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