2024年10月24日木曜日

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(2020年二期会公演ライブ映像上映、大植英次指揮)

2020年はコロナ禍により多くの社会生活が犠牲になった年で、クラシック音楽のコンサートも軒並み中止、海外からの演奏家の来日もほとんどがキャンセルされたのは、記憶に新しいところである。この年はくしくもベートーヴェン生誕250周年にあたっていて、ベートーヴェン作品のコンサートが数多く企画されていた。新型コロナウィルス流行の最大の犠牲者のひとりは、ベートーヴェンである。

そのベートーヴェン唯一の歌劇である「フィデリオ」が、コロナ流行の真っ只中だった2020年9月、二期会によって上演されていることを私は知らなかった。もともと随分前から企画されていたのだろうから、ギリギリの判断を迫られたと言って良い。あれから丁度4年が過ぎ、もう過去のことは忘れてしまいそうになるくらい日常を取り戻してきているが、パンデミック開始から半年がたったころの世の中は、まだまだ異常事態の中にあったのは確かである。

そのような状況で開催された「フィデリオ」は、歌手がすべてスケジュール調整のしやすい日本人だったということが幸いしたのかも知れない。新国立劇場で開催された公演のライブ映像がビデオ上映されることを当日になって知り、東京文化会館(小ホール)に出かけたのは、ようやく秋めいてきた10月20日のことである。いつものように上野公園は黒山のような人だかりで、まるで上海の繁華街にいるような感じ。しかし小ホールはひっそりと静まり返っていて、数えるほどしか入場者はおらず、贅沢に座って上演開始を待った。

ベートーヴェンが一生を費やして作曲した歌劇「フィデリオ」が、私は大好きである。何と言ってもあのベートーヴェンの音楽が、2時間以上にわたって楽しめる。序曲はいうに及ばす有名だし、いくつかの歌は独唱であれ重唱であれ、一度聴いたら忘れられないメロディーである。何度も改訂した序曲(今回は「レオノーレ」第3番が用いられたが終わると、いきなり若い頃のベートーヴェンの音楽が聞こえてくる。その生削りで中途半端なロマン性と無骨で単純な音楽は、少なくともドン・ピツァロが登場する頃まで続く。

ところが第2幕に入り、重唱が多くなっていくとストーリーなどを離れて、愛だの正義だのといった教条主義的理想論が、高らかに歌い上げられる。そのエネルギーは終盤にかけて半端なく、その高揚感がストーリーや歌詞の一本調子な退屈さをどこかへ追いやってしまうから不思議だ。総合的に見て音楽としてはベートーヴェンの最高傑作に入るのではないかと思っている。演奏会形式を含めるとこれまで3度の実演に接しているほか、あのレナード・バーンスタインがウィーン国立歌劇場を指揮した伝説的公演のビデオを含め、数多くのCDを所持している。

さて、新国立劇場で開催された二期会公演の「フィデリオ」は、いつものようにダブル・キャストが組まれたが、今回ビデオ上演で見たのは、以下の歌手陣の公演である。まず主役であるレオノーレ(フィデリオとして男装)は土屋優子(ソプラノ)。彼女は北海道生まれとある。その夫で刑務所に捕らわれている政治犯フロレスタンは、福井敬(テノール)。今や主役級を次々こなす我が国のトップ・テノール。刑務所の看守で小市民的だが憎めないロッコ役に妻屋秀和(バス)、先日も「夢遊病の女」での名唱の記憶が醒めやらないが、このような役にピッタリと思う。そしてロッコの娘で、レオノーレに恋するマルツェリーネに冨平安希子(ソプラノ)。容姿端麗でしかも歌声は響き、それは序盤の見どころである。

一方、フロレスタンを殺そうと画策する悪役ドン・ピツァロには大沼徹(バリトン)。官僚的で何を考えているかわからないような陰湿さが良く表現されていて、若干日本の警察ドラマを見ているような感じも否めないが、よくできたキャスト。そして登場場面は少ないが、重要な大臣ドン・フェルナンドには黒田博(バリトン)。貫禄十分で高貴さもある。合唱は二期会を中心に新国立劇場合唱団、藤原歌劇団も加えた混声舞台というのも面白い。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団、指揮は大植英次である。

指揮が大植英次だったというのが、私がこの公演に注目した理由の一つである。プログラムによれば、ドイツに住む彼はコロナ禍で次々と公演が中止になる中、急遽「フィデリオ」の指揮の依頼を受けたのだという。おそらくは別の外国人指揮者が予定されていたのであろう。8月に帰国し、2週間の隔離を経て公演に挑んだようだ。バーンスタインを敬愛し、そのバーンスタインから直接多くの教えを受けた彼は、ベルリンの壁が崩壊した際に行われた歴史的な「第九」の演奏に立ち会い、「友よ」という歌詞を「自由」に変えて歌った伝説的演奏について詳しく語っている。

パンデミックで閉ざされた世界中の人々が願ったのが、そのような自由だった。その思いは「フィデリオ」の舞台、中世のスペインにおける圧政に苦しんだ正義の人の開放の物語に通じるものがある。いやベートーヴェンの音楽には、「第九」であれ「フィデリオ」であれ、自由への賛歌とも言うべき人類愛に満ち溢れており、それだけであると言ってもいいくらいだ。その人間賛歌を高らかに歌い上げるのは、第二次世界大戦が終わって復興したウィーン国立歌劇場の戦後最初の演目が「フィデリオ」だったことが象徴的であろう。

だから今回の演出を担当した深作健太が、舞台をナチス政権下のドイツ、そして冷戦時代の東ドイツ、さらには冷戦終結後でも戦禍の絶えない世界を俯瞰するような意味づけを行ったことは、それがコロナ以前から構想されていただろうにもかかわらず、一定の説得力を持っているとは言える。象徴的だったのは、最終幕で合唱団が付けていたマスクを敢然と外して歌うシーンだった。マスクこそが不自由の象徴だと言わんばかりである。これはコロナ禍における偽善的なものに対するささやか反抗だと私は解釈した。

しかし全般的に行って、私はオペラの作品にこのような政治的意図を感じさせないまでも、現実の世相を強調して見せることをあまり好まない。これでは純粋な音楽の物語が、余計な想念にかき消され興ざめである。頻繁に表示される文章のテロップも、それが意味するところを直接的に伝えすぎていると思う。とはいえ、もともと舞台が刑務所という暗い舞台である上に、ヘンテコな恋愛の歌も挟まれて、不得意な分野に苦労したベートーヴェンというのを感じるが、第2幕ではそれらが昇華され、まるでオラトリオのようになっていく。このようなビデオで観ていると、重唱の面白さが堪能できる。

大植の指揮は、ストレートかつ一気にベートーヴェンの音楽を聞かせるもので素晴らしい。序曲には「レオノーレ」第3番が用いられ、あのマーラーが考案した第2幕終盤での挿入はなかった。プログラム・ノートの大植のインタビュー記事におけるバーンスタインの証言では、「フィデリオ」はもともと3幕構成だったと推測されるとのことだが、だとするとその間に「レオノーレ」を差しはさむのは悪くない考えだと思う。

ビデオによる上演には字幕も付けられ、アングルも歌手を追っているので飽きることはない。ただ音質は、オーケストラについてはワンポイントマイクで録られたような貧弱さであり、それに歌手のボリュームが相当大きく乗っている。これはMet Live in HDシリーズなどでも同じだが、実際に聞こえる会場での音質とはかなりかけ離れている。そうでもしないとビデオとしてはやや物足りないものになるとの苦渋の判断だとは思われるが、世はAI時代である。このような音響工学にもその技術が取り入れられると、もう少し現実の舞台に近づけられるのではないかと思っている(いやそれ以上に効果的になってしまうのは良くないのだが)。

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