オペラの鑑賞記を書くのはなかなか難しい。特にその新しい演出について、これを細かく書いてしまうと、これから出かける人に要らぬ予備知識を与えてしまう(いわゆる「ネタバレ」)。かといって、全公演が終了してからということになると、印象が薄れ文章に気持ちが乗らなくなってしまう。そこで、このような記録は下書きとして書き留め、後日アップロードするという手法を取ることになる。あらすじはすでに良く知られており、歌手の出来栄えは日によって違うから、あまり気にする必要はないのだが。
ベッリーニ晩年(と言っても彼は34歳で夭逝した)の作品である「夢遊病の女」は、「ノルマ」や「清教徒」などと並んで代表的な作品である。もっと長生きしていたら、彼の作品はもっと成長し、新しい要素を取り入れてイタリア・オペラはまた違った発展を遂げたのではないかと言われている。ロッシーニとは異なりまた少し異なり、歌そのものが麗しい旋律によって次から次へと登場するベッリーニのオペラの魅力は筆舌に尽くしがたい素晴らしさだが、それはそのままヴェルディの初期作品へとつながる。「夢遊病の女」はスイスの素朴な村を舞台に甘美で流麗な音楽が横溢し、大活躍する合唱と合わせて聞き所満載である。
私は一連の今公演の指揮がマウリツィオ・ベニーニと発表されたとき、買う気がなかったチケットを購入するか非常に迷うこととなった。メトロポリタン歌劇場などでベルカント・オペラのスペシャリストとして登場するこのイタリア人の巨匠によって繰り広げられるであろう演奏を、一度体験したみたいと思ったからだ。彼は今年6月の「トスカ」でもタクトを取り、その演奏は大変好評だったようだ。YouYubeには事前に開かれたプレトークの動画が掲載されており、その中で彼は、このたびの上演に対する思いを熱く語っている。東京フィルの優秀さと、3人の主役についても申し分がないレベルだということがわかり、私は妻の分と合わせて座席を確保したのは、公演の3日前だった。すでにプレミア公演が好評のうちに終了していたにもかかわらず、日曜日だというのに当日席も十分に残っていた。
主役であるアミーナを歌うのは、まだ20代の若いイタリア人、クラウディオ・ムスキオだった。彼女はシュトゥットガルト歌劇場の歌手で、今年7月の公演でアミーナを歌い、スタンディング・オベーションの成功だったという触込みだった。もっとも当初発表されていたのはローザ・フェオラだった。彼女は「芸術上の理由」から降板することが発表されていた。噂では、ベストなコンディションが保てないということだったようである。だが、私はむしろ実力のある若い歌手の方が、楽しみな要素も多い。定評ある歌手が常にベストだとは限らないのである。
一方、アミーナの結婚相手であるエルヴィーノを歌うのは、世界的に知られたイタリア人のテノール、アントニーノ・シラクーザである。もう還暦を迎える彼は、この役を200回以上も歌ってきた大歌手で、ベルカント・オペラで朗々と歌い上げるリリカルな歌唱には定評がある。年齢を重ねてかつての輝きが減っているという噂もあるが、それでもこの年になって高い声を響かせるのには驚くばかりだ。
意外に見逃せないのが、ロドルフォ伯爵の重要性かも知れない。二人の主役に次ぐ彼の歌には、高貴でありしかも威厳のある歌声が求められる。この役を日本人の妻屋秀和(バス)が担う。我が国を代表するバス歌手として多くの公演に出場している。さらにはリーザに伊藤晴(ソプラノ)、養母テレーザに谷口睦美(メゾ・ソプラノ)という布陣である。申し分のない新国立劇場合唱団の指揮は三澤洋史で、ホームページに掲載されたビデオには練習の様子が記録されている。イタリア語の歌唱にこだわった歌唱は、ベニーニのお墨付きも得て、世界最高ランクの合唱が期待できる。
時間通りに幕が開いて、音楽が聞こえてくるかと思いきや、舞台に現れたのはアミーナと彼女を取り巻く10人程の男たちである。彼らはアミーナを中心に踊り、その間音楽は聞こえない。ひとしきりこの踊りのシーンが続く。以降、アミーナには常にこのバレエダンサーが取り囲むようにして踊った。これは彼女が抱えるもう一つの側面、すなわち彼女の深層心理を表しているのかも知れない。アミーナは孤児として育てられ、そのことが大きなストレスとなって夢遊病を患っているのである。
この舞台で最初に歌うのは合唱(村人)、そしてアミーナの恋敵リーザである。結婚式のシーンでリーザは最初のカヴァティーナを歌う。ここは最初の聞き所である。そしてやがて祝福の渦の中に二人の主役が現れる。合唱団を含めて明るく祝祭的な歌が続く。一気にベルカント・オペラの世界に引き込まれてゆく。それにしても指揮のベニーニは、素晴らしい。彼は歌手の一挙手一投足にまで配慮して、その歌に寄り添い、どんなフレーズにも巧く対応して音符を延ばしたりテンポを動かしたりするのだが、それがあらかじめ計算された(つまり良く練習された)ものとして完璧に示されるのだった。
オペラ上演で、このよう歌手と指揮者の即興的な駆け引きは、しばしば見受けられる。しかし最近ではむしろ指揮者が主導権を持ってグイグイと舞台を進める傾向が強い。しかしそれではベルカント・オペラの良さが伝われないと彼は考えているようだ。なぜならベルカント・オペラの主役は飽くまで歌であり、それを下支えするのがオーケストラであることをわきまえているからだ。
私はロドルフォ伯爵が身を隠して村に到着し歌うカヴァティーナ「この心地良い場所」で、涙を禁じ得なかった。妻屋の歌唱が良かっただけではない。ここまで聞いてきたそれぞれの歌手の水準が平均以上に高いことがわかり、ますます舞台に引き込まれていったからだ。それにしてもその歌詞は美しい。舞台には最低限のセットが置かれ、もう少し照明を生かすなど新国立劇場の装置を生かせばとも思ったが、演出は最近流行の奇抜さが先行する読み替えはなくオーソドックスな部類に入るだろう。むしろ心理的な側面に寄り添う必要から、余計なものを排除した傾向がうかがえる。そのことは舞台に集中力を与え、好感が持てる。
30分の休憩を経て始まった第2幕は、合唱団のシーンから始まる。3階席のサイドからはオーケストラも良く鳴るので、ともすれば歌声がかき消されがちである。しかし今回の公演はその心配がまったくなかった。脇役を含め大変完成度が高く、オーケストラにも一点の曇りももなく、合唱団とバレエは完璧だった。そこに3人の主役級歌手が、長いフレーズと技巧的な装飾を含めて次から次へと綺麗な歌を披露する。
最後のシーン、「不思議だわ」以降は本作品最大の見せ所である。ここでアミーナはひとり長大なアリアを歌う。その前半は夢の中で、後半は夢から醒めた状態で、ということになっている。ここの転換がひとつの見どころだとおもっていたが、今回のアミーナの歌唱は、驚くべきことに村の建物の屋上で歌うというもので、彼女がこの幕の最初からそこにいたとは誰もわからない。照明が当たって、舞台上十数メートルはあろうかという高さにスポットライトが当たり、白い衣装を着た夢遊病の彼女が立っているのである!
3階席の高さもあろうかと思われる。隣のご婦人などははらはらしながら、その様子を見ている。だが彼女はそこにいるだけではなく、大一番の歌を歌うのである。村人を含むすべての登場人物は、屋根上の彼女を見上げている。客席全体が緊張する中、ムスキオは最後の歌を歌い切り、舞台が真っ暗になって終わったとき、満場の客席からは圧倒的なブラボーの嵐が沸き起こったことは当然のことだった。興奮冷めやらぬ雰囲気の中で、カーテンコールが何度も繰り広げられた。ベニーニも登場し、オーケストラも総立ちとなって拍手を送る。手をつないで何度も何度も舞台の奥と前を行ったり来たり。オペラを聞き終えた満足感に浸った3時間が、このようにして終わった。
新国立劇場のエントランスには巨大な生け花が飾られていた。名残り惜しそうな人々は、その前で写真を撮るなどして余韻に浸りながら会場を後にした。私と妻はいつものように、初台の商店街を抜けて代々木八幡の方面へ。事前に予約してあった富ヶ谷にあるレストランで、しばしその公演の素晴らしさを語りながら、年に何回かはこのような舞台を見てみたいねと語り合った。
今シーズンのもうひとつの新制作の出し物であるロッシーニの「ギヨーム・テル」は、「夢遊病の女」と同様にスイスを舞台にした作品である。一般にロッシーニはベッリーニの前の作曲家だが、この「ギヨーム・テル」はロッシーニ最晩年の作品であり、一方ベッリーニは若くして亡くなってしまったから、音楽史的には「ギヨーム・テル」(1829)と「夢遊病の女」(1831)はほぼ同時期の作品である。この長大なオペラ・セリアを本当に見るべきか、私はカレンダーや財布と相談しなければならない。そして今シーズンにはないが、あのドニゼッティの「愛の妙薬」もまた、牧歌的な雰囲気に溢れるベルカント・オペラの代表作である。そういえばまだ見ていない作品は多い。もう少し長生きしてお金持ちになり、毎日芝居を見て暮らす老後こそが理想的であることに疑う余地はない。そういう日々を味わうことは、もはやできないだろうが、少しでもそこに近いことはしてみたいと常々思っているところである。
秋の京都へ向かう新幹線の中で、この文章を書いている。持ってきたスマートフォンからは、ナタリー・デセイがアミーナ役を歌う決定的な録音を聞き続けてきた。まもなく第2幕が終わる。列車は三河安城を通過した。
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