しかし私は何と、この曲を最初のブラームス作品として実演で聞いている。ズビン・メータがイスラエル・フィルを率いて来日したコンサートにこの曲があったのだ。当時高校生だった私は「学生券」というのを買って大阪フェスティバルホールの最後部の座席を確保したが、小遣いも少ない時期にこの出費は大きかった。私はいっときも無駄にしないようにと、予め曲を聞いて親しもうとした。当時、我が家のレコード・ラックにこの曲を収録したレコードはなかった。こういう時、FM雑誌などを参考にNHKで放送される音をカセット・テープに録音するしかなかった。
ところが嬉しいことにこの曲が放送されたのだった。私がテープに収めたのは、ダヴィド・オイストラフとムスティスラフ・ロストロポーヴィチが独奏を務める決定的な録音で、伴奏をジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団が務めている。そもそもあまり録音の多くない曲にあって、この演奏は最高の評価を得ていた。そしてこの曲は、この2人の独奏にさらにスヴャトスラフ・リヒテルが参加してベートーヴェンの三重協奏曲をカラヤン指揮ベルリン・フィルと競演した演奏と並んで、当時のソビエトの知られざる巨匠が西側のオーケストラと競演した歴史的なものとして燦然と輝くものだった。
ところが私がこの曲を聞いた時の印象は、何ともパッとしない曲だということだった。そもそもヴァイオリンとチェロという楽器が競演したところで、いずれもがオーケストラの中に埋もれてしまい華やかさを欠く。そればかりかブラームスの何とも地味な音楽が続き、一体どこをどう聞いていいのかさっぱりわからない。私がエアチェックした録音も、あまりいい音質とは言えないのも事実で、30分余りの短い曲だったから何度も聞いたが、何度聞いても結果は同じ。どうもつまらない曲を聞く羽目になるという予想が変わらないまま演奏会当日を迎えたのである。
2人の優秀な独奏者を必要とする曲なので、あまりコンサートに上ることもない曲でもある。何か記念になるようなコンサートで取り上げられることが多い。しかしイスラエル・フィルの来日演奏会では、ヴァイオリンとチェロのソロをそれぞれの首席奏者が務めた。コンサートは後半の「春の祭典」に圧倒されて思い出に残るほど感動的だったが、この曲自体は何かつまらない曲であるという印象は変わらなかった。
その後、私は一度も実演でこの曲に接してはいない。CDは上記の2曲を1枚に収録したものを購入し、たまに聞いてはみたがどうもしっくりこないという印象はぬぐえず、そうこうしているうちに何十年もの歳月が流れた。「対立」と「和解」がこの曲のテーマであるという。私もそろそろこの曲と和解をしようと、久しぶりに聞いてみることにした。こういう場合、できるだけ新しい演奏で聞くことが経験上肝要である。録音が新しく、演奏もできれば若い人のがいい。そして見つけたのが、フランスのカピュソン兄弟が独奏を務める一枚だった。兄弟はそれぞれヴァイオリンとチェロの名手だから、この曲にはうってつけである。録音は2007年、新しいとは言ってももう17年も前のことではあるが。
まず驚くのは、曲が始まって最初のフレーズがオーケストラで大きく鳴ったかと思うといきなり2つの楽器による独奏が続くことである。これはいきなりカデンツァとなる珍しい曲なのだが、ここでのチェロはピチカートもあったりして何か奔放な感じである。しかしテーマそのものは陰鬱な感じで、気持ちが晴れない。ブラームスは北ドイツの生まれだが、この曲はスイスで作曲されている。しかし彼の音楽は、どこか地の底から隆起してくるようなエネルギーが、そのまま爆発しないか、しても粘性の噴出をするようなイメージである。
だが第2楽章は牧歌的なメロディーで、牧草地帯のスイスを思わせなくもない。総じて明るく伸びやかである。一方、第3楽章になると、まずチェロが印象的な旋律を奏で、ヴァイオリンが反復する。そしてオーケストラが力強くこれを繰り返す。このメロディーだけを覚えて、コンサートに出かけたことを思い出す。以降、このユダヤ的?なメロディーが様々に形を変えて進む。
さすがに聞く方の私も歳を重ねて、とうとうブラームスがこの曲を作曲した年齢を過ぎてしまった。そう考えると感慨深いものがあるが、たしかにいぶし銀のような曲で、秋の夜長に静かに聞くにはいいかも知れない。特にこのカピュソン兄弟による演奏は、意外にもスッキリとしてい点で、ともすればこの曲が粘っこくなりすぎるのを防いでいる。だが私は、この曲の後半に収録されているクラリネット五重奏曲の方が、もっと良く聞きたくなるいい曲に思えてならない。
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