2025年6月25日水曜日

ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団演奏会(2025年6月23日ミューザ川崎シンフォニーホール、ラハフ・シャニ指揮)

唖然とするほど見事な演奏だった。ブルース・リウの長い掌が左右に上下に躍動し、しばしばそれを追うのができないほどだった。テレビで見ているのと同じように、鍵盤上を動き回る両手の高速運動が、目の処理速度を上回るのではないか、という状態だった。ピアニストはもとより、指揮者も楽譜を見ていない(最初から用意されていない)。そしてピアニストは指揮者をも見ていない。そこには練習時の申し合わせと阿吽の呼吸だけが存在していた。彼はそれでもこの難曲(プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番)を、一気呵成に弾ききった。

私は終始どこをみていればいいのかわからなかった。テルアビブ生まれの指揮者ラハフ・シャニは、まだ30代中盤の、一般的な指揮者人生でいえばかなり若手の方だが、すでにどのフレーズをどう演奏すれば効果的かを心得ている。そこから自信を持って、絶妙なバランスで、テンポを変え、音色を調整し、精緻でメリハリのある表現が出てくる。まるでスポーツのように若い息遣いが、最初の曲、ワーヘナールの珍しい序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」の冒頭から示され、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団のモダンで洗練された響きに耳を洗われた。

オランダという国は、コンセルトヘボウ管弦楽団のような世界一流のオーケストラが存在する音楽の盛んな国でありながら、有名な作曲家というのが思いつかない国である。私もワーヘナールという人の作品を聞くのは、これが初めて。解説によればこの曲は、1905年に作曲されているからロマン派の後期。たしかにワーグナーの初期作品のようでもあり、シュトラウスの影響もあるのでは思わせる豊穣な音楽である。ロスタンの小説が丁度発表された頃であるから、その管弦楽曲を思いついたのだろう。結構長い作品だった。

中央にピアノが配置され、オーケストラが再び登場する。2番目の曲であるプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番が、今日の目当てである。独奏のブルース・リウは中国系カナダ人。パリで生まれモントリオールで育ったらしい。何と言っても前回、2021年のショパン国際ピアノ・コンクールの覇者として知られる。我が国では2位に入賞した反田恭平に人気が集まっているが、コンクールで見せた「息を飲むような美しさ」(解説書)は記憶に新しい。今年もこのコンクールが行われるが、私はここへ来て、先日のアヴデーエワに続くショパン・コンクール優勝者の演奏に接することが続いている(本命はチョ・ソンジンなのだが、彼は人気があり過ぎてチケットを取るのが難しい)。

さてそのショパン弾きのリウがプロコフィエフをやる。舞台に設置されたのは、YAMAHAやスタインウェイのピアノではなく、FAZIORIであった。このメーカーは比較的新しいイタリアのピアノで、彼はこのピアノでショパンを制しているから、今回そのピアノを持ち込んだのだろうか?その音色が冒頭から聞こえてきたとき、いつもとは少し異なるように思えた。柔らかく、少し音が小さいと思った。そしてこれはショパンには相応しいのだろう、とも。しかし今日はプロコフィエフである。始まってすぐに激しいリズムが次々と顔を出し、見ていて飽きない。

それにしても物凄い集中力で、一気に聞かせるのはピアノだけではない。シャニと言う指揮者は、彼自身もピアニストであり、そして指揮者としてもオーケストラから常に前向きな表情を引き出すことに長けているように見える。あっとする間に終わってしまった第1楽章に続き、長い第2楽章の、次々と展開する変奏の面白さは見事なもので、ちょっとピアノの音がオーケストラに消されているかと思うこともなくはなかったが、これはこれで興奮の中に会場が包まれてゆく。

第3楽章に入ってコーダへ向かって一気に突進するあたりは、もうどこを見てよいのかわからないほどだった。私の席は2階席最前列少し左手というベストな場所で、丸でテレビカメラが設置されるような角度で、手の動きがわかる。このミューザ川崎シンフォニーホールというところは1階席が小さく、2階席が舞台とても近いので、そのアドバンテージを私は最大限楽しむことになったと言える。

月曜日のコンサートというのも、最近は珍しい。私はここのところ、来日するオーケストラというのをほとんど聞かなくなっている。我が国の演奏団体の水準が、海外に引けを取らない水準に達しているので、わざわざ高いチケット代を払う必要はないとさえ感じているからである。しかし、ごくたまに(数年に1回くらい)は、まだ聞いたことのないオーケストラが魅力的な指揮者とともに来日し、その演目が魅力的に思えた時にだけ、私はチケットを買うことにしている。今回のロッテルダム・フィルがまさにそうであった。私のスケジュールも空いており、そしてソリスト、指揮者とも申し分ない。そして何と、1週間前にもかかわらずそのチケットは大量に売れ残っており、直前だということで割引までされているではないか!

これは私にとって偶然の贈り物だった。前半のアンコールではピアノに譜面台が設置され、その前に椅子が2席設けられるという事態が発生した。ブルース・リウと指揮者のシャニが並んで座り、何とブラームスのハンガー舞曲第5番を連弾したのである。これは余興というにはあまりに贅沢なもので、ピタリと合った息遣いから共感の妙を発する至高の時間だった。前半のプログラムの興奮を冷ましたく、久しぶりにワインなどを飲んだが、これは水のようにあっさりとドライだった。

最後のプログラム、ブラームスの交響曲第4番は、私が期待していた通り大いに好感の持てるものだった。まず音色が重くない。ブラームスというと重厚なドイツの響きを期待する向きが多いが、私はむしろこのようなスッキリ系が好みである。これはおそらく古楽器的奏法が影響しているのではないかと思う。聞いた席が素晴らしかったからかも知れないが、オーケストラの各楽器とそのバランスの妙が手に取るように感じられる。イスラエルの若い指揮者となると、どことなく強権的な自信家を想像するが、シャニはそういうところがなく、むしろオーケストラの自主性を尊重しその実力を引き出すことに成功しているように見えた。少し不安定だったのは第1楽章だけで、尻上がりに調和が進み、第2楽章がこれほど共感を持って聞こえたことはなく(私の少ない実演での経験上に過ぎないのだが)、第3楽章でそれは頂点に達した。

第4楽章に入ると、中間部の個性的な木管のソロも言うまでもなく圧巻のコーダまでの間は、フレッシュなブラームスを堪能する10分間だった。この曲を実演で聞くのは、これまでそれほど多くはなかったが、間違いなく私の経験上ベストであったと言えるだろう。このような熱演のとに、2曲ものアンコールが演奏されたのは、来日オーケストラならではの特典だった。いずれもメンデルスゾーンの珠玉のピアノ曲集「無言歌集」を指揮者自らが管弦楽曲にアレンジしたものと思われる。「ヴェネツィアの舟歌」そして「紡ぎ歌」。オーケストラは拍手に応えて何度も会場に振り向き、鳴りやまない拍手に応えて指揮者は何度も舞台に現れた。

川崎には安くて美味しい居酒屋が多い。まだ月曜日だというのに多くに店が遅くまで開いている。私もそのうちの1件に入り、ビールと焼鳥ををつまんだ。こういうことが手軽にできるのが、日本のコンサートのいいところである。梅雨空が続く鬱陶しい東京で、長い夏が始まろうとしている。

2025年6月9日月曜日

第2039回NHK交響楽団定期公演(2025年6月8日NHKホール、フアンホ・メナ指揮)

背筋がゾクゾクとする演奏だった。2010年の第16回ショパン国際ピアノコンクールの覇者、ユリアンナ・アヴデーエワがラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の有名な第18変奏を弾き始めた時、それはさりげなく、さらりと、しかしスーパーなテクニックを持ってこのメロディーが流れてきたからだ。丸でショパンのようだ、と思った。こんなに流麗に、モダンに、そして確信に満ちた演奏に出会えたのが嬉しくてたまらなかった。

この日のコンサートの指揮者は、当初予定されていたウラディーミル・フェドセーエフから、バスク人のフアンホ・メナに変更されていた。フェドセーエフだったらこんなに職人的に、そして献身的なサポートだったかどうかはわからない。しかしメナという指揮者は、最初のプログラムであるリムスキー=コルサコフの歌劇「5月の夜」序曲の時から、細かい表情まで丁寧に音楽づくりをする人だと感心した。

3階席最前列ながら私の席は端から5つ目で、オーケストラからそれなりに近いのだが、ピアノの細かい表情までは感じ取ることができない。音はストレートに響いてはくるが、会場が大きすぎて発散してしまう。それでもアヴデーエワの鮮やかな技巧と、そこから放出されるエネルギーに圧倒されながら、次々と進む変奏が面白くてたまらない。この曲を聞くのは何度目かだが、間違いなく今回の演奏は圧巻だった。

大喝采の聴衆に応えたアンコールは、同じラフマニノフの「6つの楽興の時」作品16 から第4番「プレスト」ホ短調という作品だった。これも大変な難曲だと思ったが、さらりとやってしまうテクニックに唖然とするうち、終わってしまった。今年は5年毎に開かれるショパンコンクールの年である。来シーズンのN響では12月のC定期で、その優勝者との共演が予定されている(もっとも第1位がいなかったらどうなるのだろう?)。

今日のコンサートは当日券の発売がなかったことを考えると、チケットが売り切れだったのかも知れない。それはフェドセーエフが「悲愴」を指揮する予定だったからであろう。フェドセーエフの「悲愴」と言えば、80年代の頃、日本のメーカーによってモスクワでデジタル録音されたLPレコードが売り出された時、私もその演奏に接したひとりである。彼は丁度売り出し中の頃であった。その演奏は、当時の定番とされていたカラヤンなどに少々辟易しかけていた頃、錚々たる同曲のレコードの中に堂々とランクインするもので、新鮮さと録音の良さが印象に残るものだった。

あれから40年ほどがたち、フェドセーエフも90歳を超えた。それで現役を続けていることも驚きなので、今回の来日が本当に実現するか、実際のところ不安だった。だがその不安は的中した。意外だったのはB定期にも登場するメナが代役となったことだ。このことで、来場しなかった客も一定数いたのではないかと思われる。プログラムを変更せず、ロシア物で固めるという今回の演奏が、果たして良いものかどうか。だがそれは杞憂だった。

私は初めて聞くメナという指揮者は何歳なのか、プログラムに記載はないので詳しいことはわからない。だが彼の演奏するチャイコフスキーの「悲愴」は、冒頭の重々しいファゴットのメロディーから印象的な音色の連続で、そうか、「悲愴」とはこういう曲だったのか、と改めて感じる結果となった。毎年数多くの演奏会で取り上げられ(とりわけ梅雨のシーズンにはなぜか多いような気がする)、少し食傷気味な「悲愴交響曲」を、私は過去に6回聞いている(その中で思い出に残っているのは2回だけ=ノイマン指揮チェコ・フィルと小澤征爾指揮ボストン響だけれども)。

とりわけ第4楽章の見事さについては、特筆すべきだったと言える。この楽章にこそ重心が置かれ、クライマックスにおける絶望と、ついには諦観へと至る心象的な移り変わりを、これほど見事に感じたことはない。最後の消え入るようなコントラバスの一音までもが、広いホールでも手に取るように感じられた。この作品はまぎれもなくチャイコフスキーのひとつの到達点を示す作品だと思った。

会場はすぐに大きな歓声と拍手に包まれ、オーケストラが去っても拍手が鳴りやまない光景となった。N響の定期も今シーズンはあと2回のみ。来週はメナがブルックナーの交響曲第6番を指揮する。私はチェリビダッケの指揮するこの曲のビデオを見て、ブルックナーの音楽に目覚めた記憶がある。メナはそのチェリビダッケの弟子だから、この演奏を逃すのは惜しい。だがサントリー・ホールのチケットはただでさえ入手困難であり、しかも私は東京を離れることになっているから、この演奏を聞くことができない。後日テレビで見るしかないが、何かいいコンサートになるような予感がする。

ベートーヴェン:歌劇「フィデリオ」(The MET Line in HD Series 2024-2025)

こう言うとオペラ好きの人から笑われそうだが、私はベートーヴェンの「フィデリオ」が大好きである。これまでに実演で2回、CDで4種類、DVDで2種類は見聞きしているだろう。その「フィデリオ」がMET Liveに登場するのは初めてである。待ちに待った感がある。もっとも日本での公開は5月...