思えばクラシック音楽好きとなったのも、そのような時代背景と大きく関わっている。私の場合、うちのクラシック音楽好きの元祖は、昭和10年生まれの伯父だった。伯父が集めたLPレコードの何枚かを、我が家は借りてきて、ステレオ装置のそばに立てかけられていた。まず父がその音楽を聞き、その影響で私は小学生の頃からレコードに親しんだ。CDの時代となり、自前でコンサートに行けるようになると、私はさらに多くの曲を聞き始め、世界中の来日オーケストラのコンサートにも足を運んだ。伯父から父を通して受け継がれたクラシック音楽好きは、その後私の弟にも及び、さらに今ではその息子へと伝播している。
その伯父が、急に亡くなった。先週のことだった。私は急遽、葬儀に参列することになり、週末に予定していた家族旅行をキャンセルした。葬儀はつつがなく終了。翌日は京都に息子を訪ねただけで、台風の接近もあって早々に帰京した私は、旅行で諦めていたコンサートに出かけることになった。「フェスタサマーミューザ KAWASAKI 2025」の一連の公演の中で、もっとも注目していた上岡敏之の指揮するブルックナーのコンサートに行くことにしたのだ。この公演のチケットが、まだ多く売れ残っていたのは意外だった。そして伯父が晩年によく聞いていたブルックナーの交響曲、それもワーグナーの追悼に書かれた長大なアダージョを擁する第7番のみが、この日の演目だった。
何という巡りあわせだろうか。私が伯父の追悼に相応しいとさえ思うコンサートを、ミューザ川崎シンフォニーホールに聞きに出かけた。3階席まではほぼ満席のホールは、冒頭から異様とも思える静寂さを際立たせ、上岡がタクトを下ろした瞬間、それまでに聞いたことがないピアニッシモの弦が鳴り響いてきた。それはいきなり最初から一気にブルックナーの世界に、観客席のすべてを覆うような空気に包まれていた。
最初の第1小節の微弱音から、これほど完成度が高い演奏は聞いたことがない。その音はブルックナーの音楽を知り尽くした指揮者にしかできないレベルの芸当に思われた。どことなくとりとめがなく、散漫にさえ感じる演奏が多い中で、上岡のブルックナーはすべての音符からその意味を理解し、有機的に組み合わせ、連続するフレーズの流れに絶え間なく生命を与えているだけでなく、それが繰り返されたりした際には、また違った表情を湛える。考え抜かれた音楽の再生は、捉えにくいブルックナー音楽の構造を見事に浮かび上がらせ、私はこの作曲家を初めて正しく理解したような気がした。
それは極めて精緻で冷静であり、職人的だったと思う。そうか、ブルックナーの音楽も、正しくはこのようにきっちりと統制され、しかしそうと感じさせないような流れで全体を見渡し、細部に指示を出すのだ。ブルックナー音楽は自然ではなく、構造物なのだ。長大な第1楽章は、その崇高な造形美を再現する技量高い指揮に引き込まれていった。
長いコーダに末に第1楽章がピタリと終わった瞬間、指揮者は指揮台に前のめりになって、ばたっと手をつくという印象的なポーズを取ったことが、舞台斜め左方の2階席からも良く見えた。遅い演奏だ。だが弛緩させることなく、かといって不自然さは微塵もない。そのようにして、あの第2楽章に入った。ここの楽章の間中、私は涙をこらえることはできなかった。副主題のメロディーをヴァイオリンが丁寧に奏で始めると、伯父との思い出が走馬灯のように浮かんできたのだ。
登山や潮干狩りにでかけた幼少期の思い出だけではない。大学進学のお祝いにもらったのが、クライバーの大阪公演のチケットだったことに始まり、単身赴任先のニューヨークに居候して毎日のようにマンハッタン観光に出かける私に、メトロポリタン歌劇場やカーネギーホールのチケットを数多く譲ってくれたのだった(ムーティ指揮フィラデルフィア管、マゼール指揮フランス国立管、テンシュテットが振る予定だったニューヨーク・フィルの定期、それにクライバーの「オテロ」などなど)。この直前、丁度カラヤンがウィーン・フィルとニューヨークを訪れ、交響曲第8番の歴史的名演奏を行ったことを、伯父は何度も話してくれた(そのカラヤンは程なくして亡くなり、その追悼盤としてブルックナーの第7交響曲がリリースされたことは、いまでも記憶に新しい)。週末には伯父の運転する車でワシントンDCまで出かけ、ホワイトハウスや桜の咲くポトマック川などを周遊し、帰りにはフィラデルフィアの歴史地区にも足を延ばした。伯父は有名なレストランで豪華な食事をおごってくれただけでなく、ナイアガラの滝への日帰りツアーまで手配してくれるという歓迎ぶりだった。その10年後、私が仕事でニューヨーク勤務をすることになった。ある日突然私のオフィスの電話が鳴って「いまKitano Hotelに泊まっている」と告げられたのだ。思いがけないマンハッタンでの再会時も、その時客演していたサンクト・ペテルブルグ響に話が及んだ。退職後も第2の会社人生を送りながらニューヨークに出張に来ていた伯父は、たまたま前日に同じコンサートに出かけていたことが判明したからである。
私に大いなる愛情を持って接してくれた伯父は、私が2002年に白血病に倒れた時に、骨髄移植のドナーを快く引き受けてくれた命の恩人である。白血球の型が2人の兄弟とも一致しなかった私の家族は、最後の望みをかえて親戚中の型を調べ、その中から「大いに可能性あり」と主治医が言った伯父との適合性が、もっとも高かったのだった。この時すでに還暦を過ぎていたから、ドナーとしての資格がなくなるギリギリのタイミングだった。翌日には骨髄液の採取のために上京し、即入院してくれた。暑い真夏のちょうど今頃だった。もしかしたら親戚中で、私との親和性を科学的な証拠とともに示されたことを、何か運命のことにように感じていたのかも知れない。
享年89歳の往生である。ドナーの伯父より先に死ぬわけにはいかない、とこれまで自分に言い聞かせて闘病を続けてきた私は、なぜか少しほっとした気がした。そして伯父の細胞は、私の中でまだ生き続けているとも。それは丁度、今日聞いたブルックナーの悠久の音楽のように、自然でよどみなく、引いては押し寄せる大波のように、そして長い道のりの末に頂点を築く時には、打ち震えるような感動が全身を覆うように、私の体中の細胞を振動させた。
これ以上ないゆったりしたテンポだった。ワーグナーへの鎮魂歌が、私の伯父へのそれに重なった。このコンサートは生涯忘れることのないものになるだろう。そしてそれは個人的にそう思ったのみならず、会場にいた聴衆にとっても、唯一無二のような時間だったのではないだろうか?この曲は第1楽章、第2楽章があまりに充実しているので、後半の音楽が陳腐に思えることがなくはない。だがよく考えてみると、何となく吹っ切れて追悼の身持ちが昇華され、天国に上るような嬉しさと感じることもできようではないか?上岡の指揮も、第3楽章の後半になると、まるでダンスを踊るように指揮台の上を動きまわり、タクトがきめ細かく各楽器にキューを出す。第4楽章に至っては、これはもう衆生の音楽だろう。還俗して非日常の世界を脱し、気持ちが中和されて現生に戻るように、尻切れトンボのように終わった演奏は、指揮者が動かない間、誰一人音を立てる者がいなかった。聴衆との我慢比べが始まった。やがて誰かが辛抱しきれなくなり、静かに拍手を始めると、それにつられて怒涛のようなブラボーと喝采、それに口笛までもが吹き荒れた。
何度もカーテンコールに応える指揮者は、各楽器のセクションを回ってパートごとに奏者を立たせ、熱狂の聴衆にアピールした。今日の新日本フィルはとても上手かった。こんな演奏が日本でも聞けるのかと思った。プログラム冊子には65分と書かれていた演奏時間は、90分にも及んでいた。短期間でこのような演奏ができるのではない。上岡はこれまでもたびたび音楽監督として新日本フィルで演奏を行い、ブルックナーの交響曲を録音している。有名指揮者コンクールの受賞経歴があるわけではないが、着実にドイツで実績を積み、個性的で真摯な演奏をする上岡の演奏会は、東京でも毎年何度か開かれており、私も目が離せない。だが、今回の演奏会ほど特別なものはなかった。猛暑の中を駅まで歩く。またこれから始まる日常。どこか遠いところから帰ってきたような感覚だった。