デュトワのC定期は世紀の名演だったと聞いている。ここで演奏されたラヴェルのバレエ音楽「ダフニスとクロエ」(全曲)には、私もできれば行きたった。しかしあの広いNHKホールで、演奏を堪能しようと思えば1階席の中央に座る必要があり、それには座席の確保が困難な上、席自体がやや狭く視界も良くない(端の席はほぼ絶望的)。しかも夜の渋谷の雑踏、もしくは休日の代々木公園のお祭り騒ぎの中を会場に向かうのは、私にとってもはや苦行である。そういうわけで、最近NHKホールに出向くのは避けている。
そのデュトワがB定期も振るかと思いきや、そうではなかった。年間会員としてはちょっと残念だったが、こればかりは仕方がない。そういうわけで今月は、パヤーレの登場である。パヤーレを私はかつて一度聞いている(2017年)。ところが今回配布されたプログラム・ノートによれば、彼のN響への初登場は2020年2月と記されている。これはどういうことかと思ったら、定期公演の話であった。私が出かけたのは「N響『夏』」と呼ばれるコンサートで、ここはいわば若手指揮者による名曲プログラム。実はほとんど印象は残っていないが、聞いたという事実は覚えていたので、まだましな方である。
そのパヤーレも、今やモントリオール交響楽団のシェフに抜擢されたようだ。ベネズエラ生まれと聞けばドュダメルを思い出すが、独自の音楽教育プログラム「エル・システマ」のホルン奏者出身とのことである。しかし今回のプログラムは、新大陸の音楽ではなくドイツ音楽、それもシューマン、モーツァルト、それにリヒャルト・シュトラウス。言わば王道の選曲と言うべきか。だから曲は名曲ばかりでも、これは指揮者にとっての意欲的プログラムであると思われた。B定期としてのこだわりは、そういうところだろうか。
さて、シューマンの「マンフレッド」序曲は、かつてフルトヴェングラーのCDで聞いたくらいで、ほとんど知らない。シューマン独特の、あのくすんだ音色がN響から聞こえてくる。指揮はこの曲だけ完全な暗譜で、指揮台は置かれていなかった。特に心に残るようなわけでもない平凡な演奏が終わって、舞台左奥に置かれていたピアノを、どうやって舞台中央に運ぶのか、私はこれまで何度もサントリーホールに通っているが、ちゃんと見るのはこれが初めてである。
舞台は階段状になった半円形の台が設えてあり、指揮者を中心に後方の奏者ほど高い位置に並んでいる。この階段を乗り越えるため、何と舞台の一部の段差が電動装置によって切り取れたように沈み、そこの部分だけがフラットになったのだった。その作業のため、第1及び第2ヴァイオリンのセクションは一時退場を余儀なくされた。このような舞台の準備作業を、私は興味深く見ながら、次のプログラム、モーツァルトのピアノ協奏曲第25番を待った。
再び舞台の階段が正常位置に戻り、ヴァイオリン奏者の椅子が並べられると、団員たちの一部が再登場。ピアノのC音を合図にチューニングが開始された。程なくしてソリストを務めるエマニュエル・アックスと指揮者が登場した。
アックスと言えば、私は子供のころから録音で知られているアメリカ人のピアニストで、ヨーヨー・マと競演した録音などで良く知られているが、実演で聞くのは実はこれが初めてである。そしてモーツァルトのピアノ協奏曲第25番もまた、実演で初めて聞く曲である。この曲はハ長調で書かれており、モーツァルトのハ長調と言えば、「リンツ」や「ジュピター」などが思い浮かぶ。いずれも壮大でストレートな華やかさを持った曲で、誤解を恐れずに言えば、奏者を選ぶというか、なかなか難しい曲に思われる。
だからかどうかはわからないが、この25番のピアノ協奏曲は、いい曲と思うのだが演奏されることは少ない方だ。パヤーレはその最初音を、ふわっとしてスッキリとした音色で始めたのは印象的だった。アックスのピアノがまた、モーツァルトに相応しく、雑味なく響く。全体に好感の持てる演奏ではあったのだが、それ以上でもそれ以下でもない。もしかするとパヤーレの音作りは、やや雑なところがあって、細やかな音の表情や音色の変化に乏しく、N響はうまく取り繕ってはいるがちょっと平凡な演奏に終始したように感じた。しかしアックスのピアノは何とも素敵で、その真骨頂はアンコール曲(ショパンのノクターン第15番)で示されたと言って良いだろう。
休憩を挟んでオーケストラが倍増され、舞台上にずらりと並んだ姿は壮観だった。リヒャルト・シュトラウスの交響詩「英雄の生涯」と言えば、毎年数多くの公演がなされる名曲中の名曲だが、たしかにこの曲ほどオーケストラの醍醐味を味わわせてくれる曲もない。にもかかわらず、私はかつて2回しか聞いていないのは意外であり、しかもそのうちの1回は、すでに忘却の彼方にあった。今回検索してみると、2020年1月にN響で聞いている。しかもこの時の会場もサントリーホール、指揮はファビオ・ルイージ、ゲスト・コンサートマスターはライナー・キュッヘルとなっている。私が聞いた位置が悪かったのか、それとも体調が悪かったのか、あるいはこの曲についてまだあまり多くを知らなかったのか、そのあたりはよくわからないが、その前に初めて「英雄の生涯」を聞いた時の読売日本交響楽団による演奏会(2015年3月のサントリーホール、指揮はジェラール・コルステン)はよく覚えているので、ルイージの演奏はどこか物足りなかったのかも知れない。
さてその「英雄の生涯」のパヤーレだが、これは前半のプログラムにおけるやや精彩を欠いた演奏に比べると、少なくとも私の個人的な印象としては悪くなかった。というよりも、結構よかったんじゃないかと思っている。もしかするとパヤーレの音は、どこかフランス風のオーケストラのように平べったく、しかしながら色彩感は豊かであった。この結果、何とも言えないようなムードを醸し出していた。全体として見た場合に、ずっとうっとりとして自然に身を任せておけばいいような気分が私を被い、それは最後まで続いた。
なぜかとても心地が良く、聞いているだけで気持ちが満たされるような感覚は、オーケストラの技量によって作り出されたのか、指揮者の意図するところだったかのかはよくわからない。しかしこの丸で韓国ドラマを見る時のような、魔法のようにしっとりとした演奏は、まぎれもなくオーケストラを聞くことの喜びを感じさせてくれた。饒舌なヴァイオリン・ソロを弾いたコンサートマスターは、長原幸太だった。そしてファゴットもホルンも小太鼓も、十分に巧く、そつがない。そのことが演奏に余裕を与え、指揮者が大きな身振りでドライブする姿が上滑りすることもなかった。
客席全体がこの演奏を良いと感じたかどうかは、正直なところわからない。N響の定期となるとほぼ会員で埋まっているから、皆相当耳の肥えた人たちである。そしてこの演奏にはブラボーはなかった。感動しているのは私だけかとおもった。ところが、消えかけていた拍手がわずか数人に減ったにもかかわらず、それを熱心に続けている人がいる。そしてその拍手は、あろうことか次第に大きくなってゆき、オーケストラが退場してしばらくしても絶えることはなかった。よく見ると、私の隣の席のいつもの夫婦も、珍しく退場せずにずっと拍手している。
「一般参賀」などと揶揄されるコロナ禍後の指揮者に対するちょっと大げさな反応には、少し辟易している。この若手指揮者に対し、東京のリスナーは良い印象を持って帰ることを土産に、今後の成長を見守りたいという老婆心に導かれている要素がないとも言えないかも知れない。しかし、私はまた自分がそうであったように、この演奏には(すくなくとも後半の「英雄の生涯」に限れば)、実にいいものだったと素直に思った人が、一定数いたということだ。それを証明するかのように、長い時間の後、再び舞台に指揮者が登場した時には、多くのブラボーが叫ばれたのだ。
そもそも我が国には、クリスマスを祝う伝統はない。にもかかわらず、いやだからこそというべきか、東京では早くもクリスマス・ムードになっていた。サントリーホール前の噴水にもクリスマスツリーがお目見えし、階上には赤と緑の垂れ幕が下がっている。一層華やいで見えるこの頃、いつのまにか11月も後半になって師走の足音が聞こえてきている。長く夏が続いた今年は、もう少し秋を楽しみたかった、という本音を言い出すまもなく、来る年の準備に追われるのだろうか。そいうえば、在京オーケストラの来シーズンのプログラムが出そろった。会場前で配布される大量のチラシの束を繰りながら、早くもカレンダーに注目のコンサート情報を書き込んでいる。


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