2014年10月13日月曜日

モーツァルト:歌劇「フィガロの結婚」(パリ・オペラ座ライヴ・ビューイング2013-2014)

パリ・オペラ座のライブ・ビューイングと銘打った2シーズン目の今年の企画(2013-2014)の第6作で、モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」が上映された。冒頭で解説のおじさんが、今回の演出は有名なジョルジョ・ストレーレルによる古典的な舞台だと紹介する。この解説はガルニエ宮にある古い「オペラ座」での収録なのだが、実際のビデオ収録は新しいバスチーユで行われたものである。わざわざ初演時のことを話すために、ガルニエ宮に赴いたというわけである。

そんなにこの演出は素晴らしいのか。私はあまり比較して話すだけの知識や経験を有してはいないのだが、それでもやはり「素晴らしい」と思う。少なくともこれまで私が実演や映像で見た「フィガロ」の中では、最高のものであった。だからこの解説は正しいと思った。

解説では特に照明の使い方に多くを触れている。冒頭アルマヴィーヴァ伯爵邸でのシーンでは、この照明は明るく、結婚式の朝をイメージしている。ところが後半になると日が傾き、第4幕では夕闇の中で舞台は進行する。第3幕の広大な廊下において繰り広げられるややこしい人間ドラマは、まるでドタバタ喜劇のようでもあり、私の出身地、大阪の文化で言えば、吉本や松竹の新喜劇といったところである。人が入れ替わり立ち替わり、その登場人物の間で違和感なく話が進むのは、モーツァルトの音楽が素晴らしいからだろう。

モーツァルトは「フィガロ」において自らの作曲家人生の新境地を開いたと思われる。ここで繰り広げられる人間味溢れるドラマは、それまでのオペラになかった題材ともいうべきもので、際立って新鮮である。「イドメネオ」や「魔笛」がいくら素晴らしいからといって、「フィガロ」ほどモーツァルトらしいものはない。その頂点は「ドン・ジョヴァンニ」だとは思うが、「フィガロ」にはそれ以上に、ストレートに挑戦的で若々しさに溢れる作品はないかと思う。

このストレーレルの演出はDVD等でも売られているが、今回、映画館で見たのはこれとは異なるものだと思っていた。ところがどうやら同じなのである。ということは収録は少し古く2010年ということになる。その映像がなぜ今頃上映されることになったかはよくわからないが、DVDを見なくても画面いっぱいに広がる映像を見ることができるのは貴重な経験である。指揮は音楽監督フィリップ・ジョルダン。

序曲からジョルダンの指揮は丁寧で、今となってはゆっくり目のテンポを維持し、そのことが意外というよりもかえって新鮮である。 これは古典的でエレガントな演出を意識したものだと思う。登場人物が多いので、以下にまとめて記載しておこうと思う。

  リュドヴィク・テジエ(Br、アルマヴィーヴァ伯爵)
  バルバラ・フリットリ(S、伯爵夫人)
  エカテリーナ・シューリナ(S、スザンナ)
  ルカ・ピサローニ(Br、フィガロ)
  カリーヌ・デエイェ(Ms、ケルビーノ)
  アン・マレイ(Ms、マルツェリーナ)
  ロバート・ロイド(Bs、バルトロ)
  ロビン・レガート(T、ドン・バジーリオ)
  アントワーヌ・ノルマン(T、ドン・クルツィオ)
  マリア・ヴィルジニア・サヴァスターノ(S、バルバリーナ)
  クリスチャン・トレギエ(Br、アントーニオ)

この中で一等際立っているのがロジーナこと伯爵夫人のフリットリである。また彼女の夫で「セヴィリャの理髪師」では素っ頓狂なテノール役だったアルマヴィーヴァ伯爵を歌ったテジエもまたしかりである。この二人に重鎮を起用したことで、比較的若手中心の他の歌手たちものびのび歌っているように思えた。

「フィガロ」で描かれているのは、古い世代と新しい世代のせめぎあい、対立、相克である。第1部のフィナーレでの舞台は特に印象的だ。左側にいる旧世代のバルトロ、マルチェリーナ、伯爵に対し、スザンナ、フィガロ、ケルビーノ、それに伯爵夫人は右側に分かれる。 古い考え方が徹底的に茶化されるのは、後半の第2部の主題である。第3幕でいきなり、マルチェリーナがフィガロの母であり、バルトロが父であるとわかる荒唐無稽なシーンがある。だがこのシーンがわずか数分後には、見事なアンサンブルの中に溶け込み、とても自然でさえあるのは、モーツァルト音楽の魔法のひとつの例だと思う。

「フィガロ」の素晴らしさや物語の面白さを語った文章には枚挙に暇がないので、私としてはこのオペラに対する苦言をひとつ。どうも「フィガロ」についていけないことが多いのは、この作品があまりにもエネルギッシュで変化に富みすぎていることだろう。音楽に聴き惚れいるとストーリーがどうでもよくなってしまうことは、オペラではよくあることだが、このストーリーは十分に複雑であり、どうでもいいことなのだけど、いつも何か重要なものを聞き逃したような気分になる。それではとストーリーを追いすぎると、セリフの部分にまで集中力を絶やすことができず、音楽にゆとりを持って入れない。それに少し長すぎると言うべきか。

そういうわけで名作中の名作も、聞き手に大変な努力を必要とする。私はモーツァルトのオペラでは、CDで音楽だけを聞くのが好きである。そうすることによって音楽だけを純粋に楽しめるし、それだけで十分という気がしてくる。ここに映像が加わると、あまりにカロリーが高すぎてしまうのである。だから今回の映像も、それはそれで素晴らしいのだが、あまりにモーツァルトの音楽が素晴らしすぎて、聞き手の余裕を奪ってしまうという、いつものパターンに陥った。だが、伝統的な演出が、音楽を決して邪魔をしないものであるために、音楽を楽しむ余裕が比較的大きかったという点を評価したい。いや、この評価は客観的には正しくない。要するに見る側の、つまりは私の経験がまだ足りていないということに尽きる。だから「フィガロ」を初心者向けのオペラだと言うのは、そろそろやめたほうがいいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿

ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)

ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...