2014年10月4日土曜日

ワーグナー:パルジファル(2014年10月2日、新国立劇場)

ワーグナーは最後の作品「パルジファル」で、かのベートーヴェンが「第九」で到達した世界観を自らの言葉で再構築しようとしたのではないだろうか。「ニーベルングの指環」で全世界の破滅を描いたその後で、世界は救われると説いた。「救済者に救済を」、その言葉は形骸化したキリスト教世界を越えたところに求めるべき価値観のことである。ワーグナーの全作品、生涯を通して希求した「愛による救い」は、この作品でも、いやこの作品でこそ主要なテーマである。

そこには謎めいた宗教的儀式と、呪われたあばずれ女クンドリー、そして完全無垢な青年が存在するだけである。時代も場所も特定することは、おそらく重要ではない。永遠に続くかのような音楽は、もはやライトモチーフでさえ必ずしも明確ではなく、舞台のセットも抽象的である。今回のハリー・クプファーによる演出も、天へと続く「光の道」が一貫して中央にセットされ、その道は照明の効果で様々な色合いに変化する。「道」は部分部分が動く台にもなっており、それらが上がったり下がったり、時には地下から修道士や小姓らが出てくる。

前奏曲で早くも答が示される。「道」の上にいるのは3人の仏僧で、袈裟をまとっている。この3人は最後のシーンでも登場し、聖槍によって傷が癒えたアンフォルタスたちがゆっくりと登っていく道の上部に、その存在を際立たせているのだ。それこそがワーグナーが関心を寄せていた仏教的世界である。堕落した西洋の世界(それはキリスト教の不可思議な教義に象徴される)を救うのは、東洋的な思想ということだろうか。クプファーの演出はこのことを極めて明確に表現していると言える。

この解釈が正しいかどうかわからないが、少なくともこの演出の主張は明瞭である。そしてその内容は、会場で売られているブックレットに掲載されたインタビュー記事(はまたホームページにも掲載されている)にもはっきりと書かれている。つまりこの演出はとてもわかりやすい。あまりにわかり易すぎて、意外性に欠けるくらいであると思った。ついでに記述すると、その「光の道」に対して巨大な細長い台が回転して舞台の中央に出てくる。その上にアンフォルタスが寝そべり、癒えない傷を嘆いている。この台は先が尖っており、槍を象徴しているのは明らかである。その「槍」の色は赤かったり、緑になったりして見ているものを楽しませる。

黒い背景と稲妻のような光の道、それに静かに動く巨大な槍の台が浮かび上がって、光の演出が効果的である。音楽が場面転換にさしかかると、台が上下に動いたり、紗幕が降りてきてヴェールに覆われたモンサルヴァート城内で挙行される秘儀を際立たせたり、その変化は音楽に合わせて動きすぎず、飽きさせもしない。視覚的にとても印象的である。クプファーのような世界的演出家が、東京での「パルジファル」のために演出したその舞台は、私にはとても好印象であった。

だがそれよりも何よりも、このプレミア公演で見せつけられた第1級の歌手達による、魂を揺さぶられるような歌いっぷりには、私は心底驚いたと言って良い。第1幕の冒頭でジョン・トムリンソンによるグルネマンツの声が聞こえると、私は背筋がゾクッとしたほどだ。トムリンソンは終始、落ち着きながらも貫禄のある歌声で、安定的で重厚な響きを場内に轟かせ、この作品がグルネマンツの多くの語りを抜きにしては成功などありえないものであることを印象づけた。

本当の意味でこの日の大成功の立役者だったのは、しかしながら、グルネマンツというよりはクンドリーを歌ったエヴェリン・ヘルリツィウスである。彼女は第1幕でこそ存在感が目立ちはしなかったが、第2幕の後半になるにつれ、その声はびっくりするほどの迫力を持って会場を微動だにしないほどの感動に導いた。おそらくこの日の聴衆は、彼女の歌声に金縛りにでもあったような雷の一撃(それは丁度第2幕でも、丸で合わせたかのように現れるのだが)に打たれたと思う。パルジファルを演じた円熟のヘルデン・テノール、クリスティアン・フランツとの丁々発止のやりとりは、本当のワーグナーとはこういうものなのか、と私を瞠目させた。第2幕が終わると、観客がみな顔を紅潮させ、興奮冷めやらぬ様子であった。このような光景を私は経験したことがない。

他の歌手についても、標準のはるか上を行く出来栄えだが、上述のグルネマンツやクンドリーに比べるのが気の毒なほどである。すなわちアンフォルタスのエギリス・シリンス、クリングゾルのロバート・ボークである。このうちシリンスは今年の春、上野で聞いた「ラインの黄金」でヴォータンの役を演じたことは私の記憶にも新しい。タイトルロールのフランツは新国立劇場でもお馴染みだそうだが、私はその綺麗な歌声に魅了された。このパルジファルの役は、自分の名前も知らないほどの白痴とされている。けれどもクンドリーの接吻によって、一瞬のうちに人間の苦しみを悟る知者となる。つまりはヴォツェックの阿呆とは違うのである。パルジファルはブッダのように、苦役の末に智慧を得る存在である。だからもう少し印象的な衣装を身につけ、高貴な存在として舞台に現れていても良かったと思う。ついで言えば今回、あのゴングのような響きの第1幕の音楽は、私には仏教寺院の鐘のような音に聞こえた。

第3幕では再び儀式的な音楽となるが、舞台の演出はここでも変わらない。そのことがもしかすると、変化に乏しすぎると感じたかも知れない。第3幕は第1幕の二時間に次ぐ一時間半もの長さであることから、できれば気持ちが昇華してゆく気分を味わいたいと思っていた。歌手も第2幕のクンドリーが良すぎたために、第3幕の存在が浮かび上がらない。とは言え、これは極めて贅沢な注文だと言うべきだろう。

最後に飯森泰次郎・新監督による指揮と音楽について。我が国におけるワーグナーの第1人者による「パルジファル」と聞いただけで鳥肌が立つというのは私だけではないだろうと思う。その音楽は実に年期の入ったもので余裕がある。だからこれだけの安定した成功を収めたのだろうと思う。歌手の信頼がなければ、どれほどの歌い手でもこうはいかないと思うからだ。どちらかと言えばゆったりとしながらも、メリハリがあり、第3幕では少し早めだったように思う。けれども「パルジファル」ほど音楽の速さがわからなくなる作品はない。実際、あの最も長い部類に入ると言われるレヴァインの演奏を長いとは決して思わない。まさに「時間が空間になる」というのを実感する作品なのだから。

東京フィルハーモニー交響楽団の演奏がこんなにも見事に感じたことはあっただろうか。この日のオーケストラからは、ほとんど完璧にワーグナーの音がしていた。冒頭から私は、あっという間に中世のヨーロッパにいるような雰囲気(というのは陳腐な喩えだが)に浸ることができた。もちろんそれも飯森の素晴らしい指揮による結果だろう。新国立劇場合唱団が素晴らしくなかったことは一度もないが、この日も精緻にして奥行きのあるアンサンブルに心を打たれた。荘厳で透明な歌声は、浄化された水のように澄みわたりながら、静謐な会場に気高く響いた。

拍手されないことの慣例にあえて挑戦するような拍手がある第1幕とは異なり、幕切れでの盛大な拍手とブラボーは、歌手達を4回以上のカーテンコールに誘い、その舞台にはクプファー氏も登場した。私にとって圧倒的に思い出に残る今回の「パルジファル」は、これまでに舞台で見たワーグナーの中でダントツのものであった。2回の休憩を挟むこと6時間はあっという間であった。小ぶりだった雨も上がり、16時に始まった舞台も22時に終演となった。日本でもこのような上演があるものだ、と私は嬉しくなった。


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