今シーズンのメトロポリタン歌劇場は、「トリスタンとイゾルデ」で開幕した。いきなりワーグナーの大作である。なぜこのような企画にしたか、総裁のゲルブ氏はインタビューで、リンカーンセンターに移転して50年目の節目に相応しいゴージャスな幕開けにしたかったという趣旨の発言をしている。
50年前というのは実は丁度私が生まれた年にあたる。そこで急きょ、何月何日に50年前のシーズンが開幕したか、検索してみた。するとそれは何と9月16日、すなわち私が誕生したわずか1週間後のことであった。
メトロポリタン歌劇場は私がもっとも多くの作品に接したオペラハウスで、その最初は1990年3月19日のことである。この時点でリンカーンセンター移転後24年が経過していることになるから、それからもう26年もの歳月が過ぎていることになる。初めて見た作品がヴェルディの「オテロ」で、何とカルロス・クライバーの最終公演だった。その時のことはすでにブログに書いたが、これは旅行中の偶然であった。
1995年にニューヨークでの生活を始めた際には、もちろん何度も通ったが、その中にはやはり「オテロ」のモシンスキーによる新演出プレミア公演(プラシド・ドミンゴとルネ・フレミング)、「ニュルンベルクのマイスタージンガー」でいぶし銀のベクメッサーを歌ったヘルマン・プライ、「トゥーランドット」で驚異の歌声をあげたゲオルギューなど、今でも興奮する公演が含まれていた。
2000年代に入り、その公演の何作品かが、ハイ・ヴィジョンによって生中継されるという企画に接した時、私は子育てと闘病の合間を縫って映画館に通いつめ、毎日のようにリバイバルを含む公演を「踏破」していった。そのときの鑑賞メモが、このブログを書くきっかけでもあった。私はこの企画によって、字幕付きのオペラを集中して鑑賞するという機会に恵まれ、さらに舞台裏のエピソードや作品の簡単にして奥深い解説に、オペラの醍醐味を教わったと言っても大袈裟ではない。
ワーグナーの主要な作品は、ほぼこのMET Liveシリーズで接している。「トリスタン」もそのひとつで、これまでにレヴァインの指揮したものが取り上げられたが、今回はその次の新演出である。しかも指揮者は何とサイモン・ラトルである。
「トリスタンとイゾルデ」に初めて触れた時(それはやはりクライバーのレコードだった)、この作品はいつも同じ光景のまま進行する捉えがたい作品という想像を覆して、何かとても力強い作品だと思った。管弦楽はよく鳴るし、歌も大声を張り上げる。「前奏曲」と「愛の死」しか聞いたことがなかった私は、ちょっと驚いた。しかもその状態が4時間以上も続くのだ。
今回マウリシュ・トレリンスキの演出で見る「トリスタン」も、舞台を少し現代に変えているとはいえ、基本的には原作をおろそかにしないもので好感が持てることに加え、ラトルの音楽がむしろ筋肉質で無駄がない。それはむしろ健康的なくらいで、アイルランドを行く北海の荒れた船内という暗さがちょっと足りない。前奏曲の時から丸いレーダーの画面のような円が光り、その中央に様々な情景が映し出される。
イゾルデを歌ったニーナ・ステンメは、昨シーズンに見た「エレクトラ」で驚異的な歌声だったが、その彼女の当たり役でもあるイゾルデには一層磨きがかかり、フランゲーネを歌うエカテリーナ・グバノヴァとの丁々発止のやりとりも落ち着いている。一方、トリスタン役を演じたスチュアート・スケルトンは、今回が初めてというから凄いと思う。テノール殺しといわれる本作品にほとんど出ずっぱりの彼は、第3幕まで全力投球である。見ている方がドキドキする。
あまり多くは歌わないが、重要な役を与えられたクルヴェナールのエフゲニー・ニキティンは、もしかするとこの日もっとも調子が良かったのではないだろうか。特に第3幕の献身的な従僕の歌は、トリスタンを一層引き立てるばかりか、もしかすると彼の方がいい出来でさえあると思った。インタビューでは落ち着かない若者のような受け答えだったが、ここで聞くニキティンの声には、艶と張りがあった。一方、マルケ王はルネ・パーペで、これがまた品が良く、まさにうってつけである。その彼はベルリン在住ながらラトルとの共演が初めてだというのは驚きである。
第2幕の二重唱シーンこそ、このオペラ最大のみどころであることを初めて知った。そこでのラトルの演奏は集中力が絶えることはなく、鮮やかにクライマックスを築く。私は長い間、このオペラ史上に燦然と輝く作品を、なかなか楽しめないでいた。実を言えばそれはまだ少し続いている。このように言うことがむしろ恥ずかしいために、なかなか本作品に触れることが苦しい。それでも今回、ラトルにより引き締まった名演に接し、とても嬉しい。時折聞こえてくる愛の死のテーマは、第3幕の最終シーンに向け、再び最高潮に達する。生きるということは、もしかしたら死ぬことよりも苦しいのかも知れない。「愛の死」とは、「愛」イコール「死」ということだ。愛するために死ぬという風に言うこともできるだろう。だから「トリスタンとイゾルデ」の最後のシーンは、しみじみと喜びに満ちている。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
ブラームス:ヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調作品102(Vn: ルノー・カピュソン、Vc: ゴーティエ・カピュソン、チョン・ミュンフン指揮マーラー・ユーゲント管弦楽団)
ブラームスには2つのピアノ協奏曲、1つのヴァイオリン協奏曲のほかに、もう一つ協奏曲がある。それが「ヴァイオリンとチェロのための協奏曲」という曲である。ところがこの曲は作品番号が102であることからもわかるように、これはブラームス晩年の作品であり(54歳)、すでに歴史に残る4つの交...
-
現時点で所有する機器をまとめて書いておく。これは自分のメモである。私のオーディオ機器は、こんなところで書くほど大したことはない。出来る限り投資を抑えてきたことと、それに何より引っ越しを繰り返したので、環境に合った機器を設置することがなかなかできなかったためである。実際、収入を得て...
-
当時の北海道の鉄道路線図を見ると、今では廃止された路線が数多く走っていることがわかる。その多くが道東・道北地域で、時刻表を見ると一日に数往復といった「超」ローカル線も多い。とりわけ有名だったのは、2往復しかない名寄本線の湧別と中湧別の区間と、豪雪地帯で知られる深名線である。愛国や...
-
1994年の最初の曲「カルーセル行進曲」を聞くと、強弱のはっきりしたムーティや、陽気で楽しいメータとはまた異なる、精緻でバランス感覚に優れた音作りというのが存在するのだということがわかる。職人的な指揮は、各楽器の混じり合った微妙な色合い、テンポの微妙あ揺れを際立たせる。こうして、...
0 件のコメント:
コメントを投稿