マーラーの作品の中でとりわけ異彩を放つのは「大地の歌」である。この曲は交響曲に分類されているが、実際は歌曲という色合いが強い。しかも他の交響曲作品にありがちな、大きなクライマックスを経ることもなく、どちらかというと室内楽的、内省的である。そういうこともあって、この作品は長年私を遠ざけていた。
聞かなかったわかではない。我が家にはワルターが指揮した極めつけのウィーン・フィル盤があったし、そのさわりを聞いては何か風変わりな曲だな、などと小さいころは思っていた。サントリーがウィスキーのコマーシャルに採用した時などは、この曲の東洋的な響きに興味を覚えたが、全曲を通して聴くことはほとんどなかった。バーンスタインの定評あるウィーン・フィル盤や、デジタル録音されたブーレーズの名盤など、私は買い求めてはお蔵入り。どうも苦手な曲、という意識は長年離れることはなかったのである。
だから実演でも最後になった。私がこれまで聞いてきたマーラー作品の実演は、思い出すまま順に書くと、第1番「巨人」(ユーリ・テルミカーノフ指揮サンクト・ペテルブルク・フィル、他多数)、第2番「復活」(小澤征爾指揮ウィーン・フィル、サイトウ・キネン・オーケストラ、他)、第3番(シャルル・デュトワ指揮NHK交響楽団)、第4番(コリン・デイヴィス指揮ニューヨーク・フィルハーモニック、他)、第5番(ズービン・メータ指揮イスラエル・フィル、他)、第6番「悲劇的」(ジェイムズ・レヴァイン指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団)、第7番「夜の歌」(デイヴィッド・ジンマン指揮NHK交響楽団)、第8番「一千人の交響曲」(ズデニェク・コシュラー指揮読売日本交響楽団)、第9番(ベルナルト・ハイティンク指揮ボストン交響楽団、他)、それにカンタータ「嘆きの歌」(秋山和慶指揮東京都交響楽団)などである。いずれも心に残る演奏だった。
今回「大地の歌」の演奏会があると知ったので、自分のマーラー演奏会の一区切りにしようと思った。演奏はエリアフ・インバル指揮東京都交響楽団である。レコード録音もされているこの定評あるコンビは、80年代以降に何度もマーラーの全曲演奏会を重ね、今回が3度目とのことである。フランクフルト放送交響楽団を指揮したCDも発売されており、我が国では相当人気があるし、評価も高い。そして今回の演奏会には、独唱として何とアルトにスウェーデンのアンナ・ラーションが登場する。彼女はアバドの指揮するルツェルンの「復活」でも歌っており、私はそのCDを持っている。テノールはダニエル・キルヒ。それに演奏会の前半には交響詩「祭礼」もがプログラムに載っているではないか。
交響詩「祭礼」は、いわば交響曲第2番「復活」の第1楽章である。この音楽は最初、第1楽章のみを交響詩として作曲し、その後で第2楽章以降を付け足した形となった。今では第1楽章のみの「復活」などあり得ないが、まあマーラー自身がそう作曲したのだから、これはこれで立派な作品というわけである。細かいところに違いはあるようだが、私はそこまでこだわらない。聞いた感じでは、ほぼ「復活」の第1楽章。衝撃的な和音と、何か地の底が割れて火山が噴火するようなフォルティッシモで始まるこの曲は、オーケストラを聞く醍醐味を味わうことができると同時に、極めて感動的でもある。特に主題が再現される部分の緊張感は、ライブの凄味というか何というか、会場が震撼するような慟哭の瞬間となる。
今回の演奏も都響としては凄味のある名演で、アンサンブルも見事に決まり、会場からの拍手をさらった。だがこの曲が終わると休憩に入るには、何か違和感がつきまとう。やはり交響曲第2番として最後まで聞きとおすのが良い。というのも、この曲の素晴らしさは第2楽章の静かな安らぎを経て第3楽章の楽隊を聞き、さらには第4楽章の歌唱へと至る道程と、さらにはそれを上回る第5楽章の変化の連続…そこには合唱まで加わるという恐ろしいまでの規模にこそマーラーの深化、進化、いや真価が存在するからである。
この長い心境の変化を都度再体験するマーラー実演の魅力は、聞いた人でないとわからないだろう。その最初の試みは第1番「巨人」ですでに始まっていると思われるが、本領を発揮するのは第2番「復活」からで、以降の作品はすべて、その再現の長い道のりを、いわば作曲家と共に歩むことになる。「大地の歌」においても、これは変わらないのだ。
休憩を挟んで演奏された「大地の歌」の第1楽章では、冒頭テノールの響きが貧弱に聞こえたのは、席が3階席右端だったからだろうか、それともCDの聴きすぎか。しかし第2楽章になって今度はソプラノが登場すると、その力強くも繊細な歌声は会場に響き渡り、以降第3楽章からのスケルツォではオーケストラの明晰でドラマチックな演奏と相まって、聞き応えのある展開となった。
第1楽章は酒と悲しさを、第2楽章は秋と淋しさを、そして第3楽章は青春を、第4楽章は美しさを、第5楽章は春の儚さを、それぞれ諦観に満ちた音楽で描く。東洋的なメロディーは時折中国風の音色をも伴うもので、そこに救いようもないペシミズムが横たわっている。第4楽章で少年が駆け回る馬を模した部分に、全体のアクセントがあるように思う。音楽が軽やかなのは、それが一瞬の出来事、地球の生命に比べれば小さいことを知っているからだろう。桜の花に人生の儚さを感じる日本人としては、誠に慣れ親しんだものだと言わざるを得ない。
だから第6楽章において、それがながながと全体の半分を占める30分にも亘って語られたとしても、その考えは輪廻の世界、すなわち生あるものは甦るという思考に行き着き、救われるのだ。これはマーラーが第2番「復活」で求めたモチーフと重なるものだ。長女を失い、心臓病を宣告され、さらにはウィーンの宮廷歌劇場の総監督の地位を失うという悲劇が重なったマーラーも、自らの音楽によって救われたのではないか。
長い終楽章には途中で歌唱の入らない間奏曲のような部分が存在する。ここに至ると、音楽そもののは変わらないのに、聞いている方の心境が変化するから不思議である。永遠に、そして永遠に、この音楽は続いてゆく。ラーションの声が静かに消え入るとき、会場の中は何か不思議な感覚に包まれた。もう何もできなかった。ただ音に耳を澄ませ、体をゆだねた。静まった会場からは何一つ聞こえない。十秒はそれが続いた。やがて少しずつ拍手が始まり、指揮者が振り向くと頂点に達した。各楽器を一人ずつ立たせ、そして交わす握手の間中、ブラボーの嵐は止むことがなかった。そしてオーケストラが立ち去っても、指揮者への拍手は続いた。
猛暑の池袋で、そこの会場だけが違った感覚に包まれていた。あれは何だったのだろうか。「大地の歌」は終楽章がすべてである。またマーラーの音楽に嵌ってしまった。
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