当たり前のことだが「芸術」と「商品」は異なる。期待通りの幸福感など、投資に見合う効果が得られるとべきいう資本主義世界の常識に照らして言えば、本物の「芸術」はその対極にあることもしばしばである。期待は裏切られ、受け手に疑問符が投げかけられる。それが素人でもわかるレベルでなされるとしたら、それこそが「芸術」の存在意義でさえある、という大雑把な理屈は、完全に間違っているとは言えない。いやむしろ、心に動揺を与え、時には不快感さえ催すものも、現代に生きる我々の脳裏に突きつけるような刺激となる必要がある。それこそが「芸術」としての存在意義である・・・。
私はこの経験に、2万円以上の費用を支払い、3時間の時間を割いた。ベートーヴェンの訴える自由への賛歌、人間への愛、といったものを、フランス革命の直後に作られた時代に照らして鑑賞しようとした。やはり「フィデリオ」は素晴らしい、そういうことを追体験しようとして、このチケットを購入したのだ。だが、その安直な考えは完全に裏切られた。浅薄で姑息な期待を否定されたと言ってよい。このショッキングな経験を、どう解釈し書き残せばいいのだろうか。
新国立劇場における飯森泰次郎音楽監督の最後の演目は、ワーグナーの曾孫にあたるカタリーナ・ワーグナーの演出する「フィデリオ」であった。彼女はもともとベートーヴェンが表現した正義の勝利を完全に覆し、21世紀に住む我々に自由とは、愛とは、といった根源的な問いをアイロニカルに突きつけた。悲劇的なまでの読み替え演出は、相当な混乱を聴衆に与えた。歌手とオーケストラの素晴らしい出来ばえ云々よりも、その大胆過ぎる解釈は、議論の的になるであろう。
舞台に仕掛けられたのは階層状の刑務所内部で、時折上下にスライドし、区切られた各スペースは、最上階にオフィスとマルツェリーネの部屋(ここだけがピンク色で異様に明るい)、その下がフロレスタンの捕らわれている独房、そして最下層に囚人たちが閉じ込められている牢屋となっている。フロレスタンは冒頭からすでに独房で動き回り、ライトの当たらない空間からも歌が聞こえてくる(第1幕終盤)。徹底的に演劇性を重視したもので、3階の隅でアリアを歌うかと思えば、それぞれ独立した部屋にいる歌手の重唱となるなど、空間を隅々まで生かした演出は新鮮である。
序曲からすでに演劇は始まっていたが、それは第2幕の途中で挿入された「レオノーレ」序曲第3番の時でも同様だった。音楽の流れに上手く溶け込んだ、丸でインテルメッツォのようになった「レオノーレ」序曲の間に、もう独房から逃げられないようにとピツァロが入り口を封鎖する。石を積み上げて行く様子が音楽の中で実行され、それは痛々しいまでの悲劇である。これでは勝利のファンファーレも意味を成さない。
あろうことかフロレスタンとレオノーレは刺され、自由を得たかに思われた囚人たちは、最後の瞬間に牢屋に再び閉じ込められる。フロレスタンも囚人たちも、死後の世界でないと自由は得られない。そう考えると、重層的な舞台は何やら「アイーダ」の最終幕を連想させるのだ。
ドラマトゥルクのダニエル・ウェーバーは、その解釈を解説書に詳述している。「この華やかな新しい自由は(中略)、袋小路に過ぎないしユートピア(どこにもあり得ない世界)でしかない」。すなわち「自由の国に大臣はいない」「これは見せかけの国」の「見せかけの輝き」でしかないという。
この舞台に我々は拍手を送るべきなのだろうか。いや演出家が拍手など期待していないかも知れない。彼女は真面目に、この舞台を現代に再現する意味を問うている。そしてその逆説的な解釈によって、その後の作曲家がもはやベートーヴェン的単純さで音楽やオペラを作曲できなくなっていったことを思い起こさせようとしている。ワーグナーもマーラーも、ベートーヴェンの輝きに苦しみ、その中から新しい作品を生み出した。
私はこのような野心的演出に立ち会えたことを、心から喜びたいと思う。ベートーヴェンの「フィデリオ」もこのような上演になるのかと思った。挿入された「レオノーレ」序曲も含めて、見どころは沢山あった。そのひとつひとつを覚えておくのは困難だし、それを書き記すのも簡単ではない。だからこそ、生の演奏で触れた3時間は一生の思い出に残るであろう。だが、正直に書けば私も最後混乱し、4階席から一斉に響くブラボーに困惑した。一連の最終公演となったこともあって、一部の観客は確信的に好意的であった。
最後になったが、歌手について書いておこう。マルツエリーネに抜擢された石橋栄美は、なかなかの好演であった。彼女は大阪の生まれだそうで、私と同じだからなんとなく好感を抱く。一方のジャキーノ役鈴木准は声量が細い。ロッコの妻屋秀和は、当劇場におけるバスの常連だが、この看守役は特に似合っている。ドン・ピツァロを演じたミヒャエル・クプファー=ラデツキーは新国立劇場初登場らしいが、あまり印象はない。また最後に登場する大臣ドン・フェルナンドは黒田博が演じたが、このような解釈だから威厳が感じられないのは仕方がないだろう。
素晴らしかったのはやはりレオノーレのリカルダ・メルベートとフロレスタンのステファン・グールドである。メルベートは尻上がりに好調で、最後の大合唱の中にあっても、ひときは高い声を会場に轟かせた。一方、グールドの品のある歌声は、安定して高貴であったことがかえって、このパラドキシカルな世界にあって痛々しく感じられた。オーケストラの東京交響楽団は、一部ホルンの音が乱れる時もあったものの熱演で、フロレスタンの歌う第2幕冒頭のアリア「人生の春のただ中で」で滅法上手いオーボエとの競演が素晴らしかったことに加え、「レオノーレ」第3番の演奏も印象に残る出来栄え。
そして何といっても特筆すべきは新国立劇場合唱団!フィナーレの合唱が左右いっぱいに広がり、男声と女声の見事なコントラストに胸が詰まる思い。飯森泰次郎の指揮は今回が見納めとあって、最後の最後まで拍手が絶えない。彼が出てくると会場はスタンディング・オベイションで、その時間は20分を超えるほど長く、舞台に登場する回数も4回を超えたように思う。
新国立劇場の「フィデリオ」はこれが2回目のプロダクションである。私は前回のものも見ているが、こちらは古典的な解釈であった(「レオノーレ」序曲は挿入されなかった)。それに比べると今回の演出は、いろいろな意味で考えさせられる上演だったし、実際物議を醸すのだろうと思われる。音楽の演奏自体は、今回の方がはるかに良かった。テレビ収録もされているようで、もう一度じっくり見てみたいような気がする。放映が楽しみである。
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