2018年6月13日水曜日

マーラー:大地の歌(A:ミルドレット・ミラー、T:エルンスト・ヘフリガー、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)

マーラーの異色の交響曲「大地の歌」は、稀有の名曲である、と、今は思っている。けれども初めからそう思ったわけではない。むしろこの曲は、長い間私を遠ざけていた。理由は簡単で、なかなか耳を傾ける機会がなかったからだ。LPレコードやCDが手元にあっても、そういう状況が続いたのだから、いわば「喰わず嫌い」の類であった。有名な曲であるにもかかわらず、静かな歌曲が長々と続くだけの作品のように思え、真剣に聞こうとは思わなかった。

いつだったかコンサートに出かけた時に、初めて「大地の歌」の魅力に感化されたと言っていい。それまでは、せいぜい冒頭のテノールの、一度聞いたら忘れない絶唱と、第3楽章のCMにも使われた「青春について」のメロディーだけが、私の記憶に残っていた。ところが実演で接した「大地の歌」では、アルトとテノールが代わる代わるに歌うメロディーが、中国風の響きと交わり、独特のムードを醸し出していること、さらに長大な最終楽章において、聞き手を深遠なる世界へと連れ出していくことが、私の「大地の歌」に対する考えを大きく変貌させた。マーラーの他の交響曲にありがちな、終末部を大規模なクレッシェンド締めくくる要素がまったくなくても、丸で時間が止まったかのように音楽に没頭させてしまう不思議な気持ちを経験したのである。

この奥深く自然でありながら、憂愁と諦観に満ち、かつ新鮮で無類の美しさを持つ音楽の全体を、下手に書き記すことはやめておこう。何百という解説書、伝記、音楽家の言葉によって、すでにその魅力はすでに余すところなく語られているからだ。李白や孟浩然らによる漢詩集が、どのように翻訳または意訳、時には誤訳されマーラーに伝わったかも、これらから詳しく知ることが出来る。

むしろ私は、マーラーが生涯通じて求め続けた新しい響きが、とうとうここにきて、虚無的で神秘的とも言える不思議な音階へと拡大し、そのスケールは物理的な規模を脱して、より心理的な空間へも導かれていったということを書いておこうと思う。マーラーが「シナの笛」と題された詩集を通じて、東洋的な生死観と出会った。(もともとの意味からは、ややそれてはいるものの)彼は、そこから救いとなる永遠なる精神の安らぎを得ようとした。

輪廻転生、諸行無常といった仏教がベースとなる価値観は、日本人に馴染みの深い心理として私たちの心に通底している。私は大病を患った際、自分の精神の中に般若心経で語られる空の感覚に、自らの精神的安定を得ることが出来た。クラシック音楽を聞くことを趣味としていた私も、最終的に救いとなったのは西洋的な生死観ではなかったのだ。その最後は一切の苦を取り除くための呪文のような文言「羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦」の意味を考えようとしたとき、そこに「諦め」という文字が当てられていることに感動した。彼岸に到達せよ、と唱える響きは、「大地の歌」の最終部で、自らが追加したとも言える歌詞を何度も何度も繰りかえしながら「永遠に、永遠に」と求めて彷徨う安らかな死後の世界に通じるのではないだろうか?

第1楽章から第5楽章までの、それぞれ「大地の哀愁に寄せる酒の歌」、「秋に寂しき者」、「青春について」、「美について」、「春に酔える者」と名付けられた各曲は、いずれも大変印象深いが、最終楽章「告別」の、さらに深化した曲調に比べれば、前奏曲のようなものである。

第1楽章はまだ解脱の域に達していない主人公が、酒をあおり、すべてを忘れようとしてもがく姿が痛々しい。「生は暗く、死もまた暗い」のだ。一方、第2楽章では静かで澄み切った安らぎが、アルトの歌唱とともに展開されてゆく。東洋的なメロディーの効果が随所に聞かれるので、梅雨の時期に霧の立ち登る山川を描いた水墨画のような世界を想像しながら聞くのが私の癖である。

第3楽章の有名なメロディーは、変わって明るく前向きである。ここなどを聞くと、「大地の歌」は決して救いのない曲ではないことがわかる。メロディーは親しみやすい。そして全体の折り返し地点となる第4楽章では、乙女が馬に乗った少年をじっと見つめる印象的な部分が登場する。この曲のほとんど唯一とも言っていいような速いリズムで、ティンパニが打ち鳴らされる。第5楽章では再びテノールの歌唱に戻り、酩酊の気分で夢を見るような音楽が続く。人生は儚い夢だ、ということだろうか。

全体の半分の時間を占める第6楽章は、大きく分けると3つの部分から成っている。聞き進むうちに、それぞれに異なる雰囲気の進化が聞き手の心理に及ぼす変化を毎回感じざるを得ない。このような曲はいくつかあるが、「大地の歌」もまたそういう魔力を持っている。この第6楽章こそ「大地の歌」の魅力が詰まった核心部分である。途中、オーケストラだけが滔々と演奏する間奏曲のような部分がある。ここを境に死が訪れ、それまでは待ち焦がれていた友人がいつまでも来ないことを悟ると、静かに消え入るように、メロディーは回想される。この間に視点は彼から友人へと移る。ようやくたどり着いた友人は、死にゆく彼に問いかける。「どこへ行くのだ?」様々な楽器が浮かんでは消え、消えては浮かぶ。大地には花や草木が溢れ、それはやがて去って行く。一切が何もない世界へ。一切の苦しみから解放される極楽の浄土へ・・・。

ブルーノ・ワルターが指揮した「大地の歌」は、特別なディスクである。ワルターは自らが初演もした「大地の歌」の演奏をいくつも残しているが、中でも有名なのはウィーン・フィルとの1952年のモノラル録音(Decca)である。ここでアルトはカスリーン・フェリアー、テノールはユリウス・パツァークが歌っている。だがこの演奏は、当時としては極めて優秀な音質と言われてはいるものの、どうしてもモノラル録音である。繰り返し聞くものとしての「大地の歌」ということになると、私の場合、音質を無視するわけにはいかない。音質を無視しても他に代えがたい演奏というのは、フルトヴェングラーやトスカニーニなどに多数存在するが、ワルターの場合、嬉しいことにステレオ時代になって録音した別の「大地の歌」が存在する。

1960年、84歳だったワルターは、ニューヨーク・フィルハーモニックとともにこの曲を録音した。CBSがリリースした当時の録音は、ウィーンとのモノラル録音と比べても、十分にいい演奏であると私は思う。この演奏は、同時期に収録されたコロンビア交響楽団との一連の演奏に比べると、はるかに鮮明に録音されている。

アルトのミルドレット・ミラーが特に終楽章で見事な歌を披露しているのも素晴らしい。テノールのエルンスト・ヘフリガーはやや楽天的だが、酒に酔って歌う歌だと思えばこれはこれで聞ける。何よりオーケストラがワルターの音楽観を最上レベルで理解し、尊敬の念を持って真摯に演奏しているその様子が、手に取るようにわかる。オーボエやフルートの独奏が多いこの曲で、まるで残響のいいホールの実演を聴いているようななまめかしい音色は、半世紀以上も前に録音されたことを忘れさせる。そういえば「大地の歌」を作曲した頃のマーラーは、新世界に活躍の場を求め、ニューヨーク・フィルとも何十回と演奏会を指揮している。

1960年頃と言えば、レナード・バーンスタインが活躍をし始める頃である。彼がデビューのきっかけとなったのはワルターの急病による交代であった。バーンスタインはマーラーの一連の交響曲ををニューヨーク・フィルと録音するが、「大地の歌」はウィーンで録音し、この演奏は当時ウィーン・フィルの専属であったDeccaからリリースされた。珍しいことにソプラノの代わりにバリトンが器用されているのは、それがディートリヒ・フィッシャー=ディースカウだったからであろう。元気のいい快速の演奏だが、深々とした第6楽章のバリトンによる名唱は、他のディスクには代えがたい魅力でもある。ただし録音は古めかしい。

バーンスタインは2回目のマーラー全集では、メゾ・ソプラノのクリスタ・ルートヴィヒを起用した演奏を残している。オーケストラはイスラエル・フィルである。一方、アナログ期に録音された歴史的名盤としては、オットー・クレンペラーによるものがある。時間をかけた演奏だが、弛緩することはなく、むしろリズムがあって格調高い指揮が新鮮である。ここでもクリスタ・ルートヴィヒが名唱を聞かせている。テノールはフリッツ・ヴンダーリッヒ。デジタル時代の最近の演奏では、やはりブーレーズ盤が思い浮かぶ。クレンペラー盤と並ぶ巨峰のひとつだと思う。

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