2018年6月2日土曜日

ヴェルディ:歌劇「ルイザ・ミラー」(The MET live in HD 2017-2018)

METライブ・ビューイングのサイトに音楽評論家加藤浩子が「しびれる」と書いていたのを見つけ、私は迷わず東銀座へ。松竹本社の3階にある東劇は、ここ数年演目次第では一日中、それも2週間に亘って上映し続けてくれることが多くなり、とても嬉しく思っている。そして実際、客はよく入っている。今回の「ルイザ・ミラー」もヴェルディの中では知られていない作品だが、観客の中に熱気のようなものが感じられる。

そしてその上映は「打たれた!」という感じ。あらゆる点において完璧な上演だったので、何から話せばよいのかわからない。まずいつものように指揮者のベルトラン・ド・ビリーが登場。オーストリア放送協会のオーケストラを振っていた時代、超特急の「ドン・ジョヴァンニ」だったかのCDを買った覚えがある。若い指揮者だったと思っていたが、今ではもう中年の指揮者である。

引き締まったリズムと集中力を欠かさないテンポの序曲を聞くだけで、私は一気にヴェルディの世界へ引き込まれてあいまった。クラリネットが悲劇の予感の旋律を吹く。序曲だけで拍手が鳴り響くのが嬉しい。そして間を置かず第1幕となる。最初から登場する娘と父親。娘のルイザはソプラノのブルガリア人ソニア・ヨンチェヴァ。プッチーニを良く聞いたと言う印象があるが、今回はヴェルディのベルカントとドラマチックの両方を必要とする難役に挑戦。しかし彼女の父親役であるプラシド・ドミンゴと来たら!

ドミンゴはもう何十年も歌っているMETのレジェンドだが、今ではバリトンの役をこなす。前にも書いたがドミンゴのやや霞のかかった低い声は、テノールよりもバリトンの方が似合っている。しかも声は衰えるどころか、ますます円熟味をを帯び、今回のミラー役で冒頭に発する声で、聴衆を完全にノックアウトした感じだ。

シラーの原作、舞台は17世紀のチロル地方。演出はエライジャ・モシンスキーで、忠実でああり、かつよく考えられた演出は言うことなしだと思う。自然にオペラの世界に入ってゆく。たとえ台本が滑稽で、話が急展開するものであるにもかかわらず、この音楽は紛れもなくヴェルディの魅力を余すところなく伝えている。

いや私は、後年の大作へとつながる多くの要素を、この若い頃の作品の中に見出すことによって、逆に中期以降の作品がいかに圧倒的な芸術性を持っているかを理解すすることができるし、それに比べるとやや粗削りではあるおのの、すでにヴェルディの音楽が爆発的に展開されている様を聞くことが、とても好きである。若きエネルギーが炸裂し、これでもかこれでもかと推進する音楽は、綺麗な歌声とドラマチックな展開によって、見る者をくぎ付けにする。初期の作品で、すでにヴェルディは大作曲家であった。

ドミンゴの貫禄のある父親は、今風のリベラルな父親にぴったりである。悲劇を予感し、実際にその渦に巻き込まれる悲哀を、ドミンゴで聞くことができるというのは2018年に生きているオペラファンに許された神様からの贈り物だろう。だがそれだけではない。主演者のすべてが決まっている。

まずミラーの相手役で、領主の息子ロドルフォは、ピョートル・ペチャワ。若い青年の初恋のみずみずしさと、破滅をも恐れぬ純粋な精神。やや向こう見ずで、悲劇的な心情を彼ほどぴったりと表現することができる人はいないのではないだろうか。テノールの声の持つ悲しさは、明るいイタリアの空が限りなく悲しいのに似ている。ロドルフォは若きドミンゴも歌った役だが、第3幕で彼はすでに運命を予感している。確信犯としてルイザに服毒させ、自らも死を選ぶ。

この作品は、二人の父親の物語である。そのことを象徴するように、ミラーとヴァルター伯爵は、自殺した二人のそばで顔を見合わせる。若い二人の結ばれぬ恋は、若さゆえに悲劇をもたらすが、それはまた冷静に考えれば、若気の至りとでもいうべきものに過ぎないとも思う。若者は諦めることを知らず、直進的に行動する。それがもたらす悲劇は、後の「トラヴィアータ」の下地となった。音楽的にもストーリー的にも、この作品は中期の先駆けとなる要素を持っている。

悪事を働くヴルムはバスのディミトリ・ベルセルスキーによって、彼がまた素晴らしい。この役は「オテロ」におけるイヤーゴの先駆けである。ヴルムは捉えられたミラーを助ける代わりに、自分を愛しているとルイザに偽りの手紙を書かせる。以降、手紙を書くシーンは「トラヴィアータ」でも象徴的に扱われ、チャイコフスキーは「エフゲニー・オネーギン」で長大なアリアを作曲するに至る。

第2幕で歌われるヴルムと、ヴァルター伯爵によるバスの二重唱は、このオペラの聴きどころのひとつである。ヴァルター伯爵は、バスのアレクサンダー・ヴィノグラドフで、役回りが容姿とピタリと決まっているし、低音を支えることがオペラの出来不出来を決しているような気がする。ヴェルディの実験は、ほかにもある。アカペラによる4重唱である。ここで、ロドルフォの許嫁で公爵夫人(未亡人)のフェデリーカはメゾ・ソプラノのオレシア・ペトロヴァで、彼女がまた違った持ち味の歌声が安定していて素晴らしい。彼女に伯爵、ヴルム、ロドルフォが加わる。

各幕の合間に舞台装置を入れ替えるため、上演はしばしば中断する。その度にカメラは大道具の入れ替え作業を映し出す。圧倒的な歌唱が続くときの興奮を、この時間が鎮めてくれるのはいいことだけれど、これほど完成度の高い上演を一気に見たい、とも思った。今回、映画館でアリアの度に拍手をする人が、何人かいた。私も心の中が、感極まって詰まりそうだった。もしかするとこれまでみたMET上映の中で、ベスト3に入るほどの出来栄えだったと思われる。

ヴェルディの重量感あるドラマチックな音楽に酔いしれ、美しいアリアに耳を傾ける。物語が心を打ち、喜びや悲しみが津波のように押し寄せる。娘を思う父と父を思う娘は、ヴェルディが生涯にわたって求め続けたストーリーだった。だがここにはもう一組の父子が存在する。伯爵とロドルフォは、父と息子の噛み合わない宿命的な関係を表している。このオペラは父親とは何か、と問いかける物語である。

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